本の虫としての学び
図書館の本を前に湧き上がるのは、食べきれないごちそうを目の前にするような感覚だ。
理解しきれるかどうかは別として、多くの題材が興味をそそってくる。そして、今ここで背表紙に指をかけ、カードとバーコードを赤い光にかざしさえすれば、なんとお持ち帰りができてしまう。手が届くように、お膳立てされている。
だがしかし、すべては読み切れない。毎日にはやるべきことが詰め込まれていて、読書時間は眠りに引きずり込まれる前の数十分しかないのだから。
読みたい本を一生のうちに読み切ることは不可能だと気付いたのは、十代の頃だ。その絶望感は、今でもよく覚えている。
後には、読んだ本の内容を一年もしないうちにほぼ忘れているむなしさも加わった。どんなに努力しても自分の思うすべてが手に入るわけではない。人生の真理の一例と言える。それでもなにかは身になっているという希望は捨てていないが、冷静にそれはただの願望だとも思っている。
ただでさえ読み切れないという悲しみを抱えているのに、なんとか選んで読んだ本が私に与える憧れもやっかいだ。
「博士が愛した数式」を読んだら、数学を理解したい、素数を美しく感じる感覚をちゃんと体感してみたいと思うのに、そこには大きな壁がある。数学の本で学んでこつこつ壁を削っていきたいところだが、私には次の本も待っているのでその時間がない。
トーベ・ヤンソンのエッセイを読んで憧れる孤高の島暮らしを、私がすることはないだろう。
赤毛のアンに出てくる浅はかなルビー・ギルスのような、誰をも魅了する美しい外見を、私が得る日はこない。
憧れの雲を見上げているのが私の人生だ。
それでも、ここまで読んできて、分かったこともある。私の人生を本当に知っているのは私だけだということ。あらゆる人生が本になり得るし、あらゆる人は主人公だということ。
この人生という靴を履けない他の人からしか見られない素敵さが、自分ではわからなくともきっとあること。
誰より長く生きたとて、読み切れない本を残して死ぬだろう。でもせめて、自分という本には愛着を持っていたい。
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