不自由さはただのカタチであり、具体的なものに意味はない
ぼくはあまり「インプットしているもの」を不特定多数に向けて発信しません。手の内を晒してしまうようで恥ずかしいこと、とくに誰も興味はないだろうと思うことがストッパーになるからです。発信するとしても、100個インプットしたうちの1個くらいを、ほんの気まぐれで「人生にはその程度の誤差くらいあってもいいだろう」と思ったときにぽそっと発信します。
先日「#私を構成する42枚」あるいは「#私を構成する100枚」という、好きな音楽作品のジャケットを並べた画像を作成して投稿してみました。とあるWebサイト上で自分が好きなアーティスト名やアルバム名を入力して、検索結果として出てきたジャケット写真を枠にドラッグアンドドロップしていくだけの簡単な作業でした(お刺身にたんぽぽを乗せるより楽だと思う)。
しかしたくさん聴き込んだ音楽を改めて並べてみても新たな気付きを得られるわけではありません。例えば年代やメンバー構成などのメタデータごとに並べればあるいは、その集合の背後に構造のようなものを見出せるかもしれません。面倒な気持ちと限られた時間がそこまでの労力をかけることを許可しませんでした。きっとその構造だってだいたいわかっているものだろうし。
「#42枚」をつくって発信してみて、ぼくは「かつて」音楽を通じてだれかと繋がっていた時期を思い出していました。
ある「かつて」は毎日のように、だれかの家に集まって夜が明けるまでゲームをしたり、夕方に目を覚ましてからヒマなひとを見つけて、夕飯を食べながら最近見つけたアーティストを共有したりしていました。
社会人になって「かつて」住んでいた街を離れたいまになって思うと、あれは人生の段階とやらを鑑みてもきっともう二度と訪れない時間でした。いや、きっと当時だってそう思っていた。
一瞬、懐かしく思ってしまった。
ぼくは社会人が学生より不自由だ、とかいう安易な一般論が腹落ちしたことがありません。「学生には責任がなくて社会人は仕事に縛られる」という言葉はそれを述べたひとの観測に過ぎないだろうと思っています。「責任もって仕事をしているか?」と疑問符を呈される社会人だっているだろうし、自身のするべきことに責任を持って取り組んでいる学生だっているでしょう。
不自由さは相対的なものでしかなく、ただのカタチにすぎない、と思います。ある時期またはある段階はある側面において不自由なだけで、べつの側面では大いに自由であり、その「側面」が時期または段階によって異なるだけだと思っています。自由さも不自由さも、認識が前提となるのだから。
大好きなアーティストのラジオを聴くために、積み上げた雑誌の上に古いオーディオコンポを載せて、アンテナに銅線を巻きつけて窓際まで延ばさなければならなかったあのころは、きっといまより自由だったしいまより不自由だったでしょう。
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