電話越しの乾杯【短編小説】
「乾杯したいな。ほら、わたし乾杯がとても好きでしょう?」
iPhoneの電話口で、彼女はもの寂しそうにそう言った。
「乾杯が好きなんて、君はまた珍しいことを言うね」
ふっと笑いながらそう返したぼくは、自宅の冷蔵庫から缶ビールを一本とりだし、リビングのソファにどさっと座った。
ぼくの彼女はときたま変なことを言う。それも、この情報はすでに共有済みでしょうというニュアンスで。交際をはじめたころはそのことに違和感を感じたりもした。だけど、2年ほど付き合いを続けた今では、今度は何を言い出すのかと、彼女の言動を楽しみにしている自分がいた。
「だってさ、乾杯ってどんな乾杯であれ、誰かの想いがそこに詰まっているでしょう?そういうのが、わたしは好きなんだよ」
缶ビールのプルを勢いよくはじきながら、ぼくは彼女の声を聞いた。じゅるると一口飲む。程よい苦さが口のなかに広がる。毎日飲んでいるにもかかわらず一切飽きる兆しがないこの液体は、今日もいつもと変わらない、ささやかな幸せをぼくに与えてくれた。
缶ビールを目の前のテーブルに置き、ぼくは彼女のコトバに思考をめぐらせた。昨今、コロナウイルスの影響で、乾杯する機会は減っている。でも、どれだけ考えてみても、彼女の『乾杯には誰かの想いが詰まっている理論』はどういったエビデンスのもとに構築されているのか、ぼくにはまるで分からなかった。
「乾杯には、誰かの想いが詰まっている。それはどういうことなんだい?」
ぼくがそう言うと、彼女は「ふふふ」といたずらっ子のように笑った。きっと、そう聞いてほしかったのだろう。彼女はなぞなぞの答えを発表する子どもみたいに、ゆっくりと口を開いた。
「例えばね、何かのプロジェクトが終わって、その打ち上げでする乾杯には、『みんな本当にお疲れ様』って気持ちが含まれていると思うんだ。みんなよく頑張った!ありがとうって。そんな想いが、その乾杯にはあると思うんだ」
そう語る彼女になるほどと頷いたぼくは、彼女のコトバにしばし耳を傾けた。
人生の晴れ舞台。タキシードを着た新郎と、純白のドレスに身を包んだ新婦。披露宴会場には騒がしい友だち、写真を撮ることに必死な兄弟。そして、嬉しい気持ちと寂しい気持ちを両方抱えた両親。そんな場所で行われる乾杯には、『ふたりの幸せを切に願う』という、会場にいる全員の祝福が詰め込まれているの。
安いチェーン店の焼き鳥屋。そんな場所でビールジョッキを重ねる乾杯には、難しい仕事に打ちのめされる後輩に、『きっとお前ならできる』という先輩のエールが。もしくは、『最悪後ろには私がいる!』という優しさが込められてるかもしれない。
地元の友だち数人と久しぶりに飲む。そんな席での乾杯は、様々な想いがお互いの間に浮かんでいる気がする。『会いたかったよ』とか、『元気にしてた?』とか、『あんた全然変わってないな』とか。そんな色とりどりの想いが、その乾杯には詰め込まれていると思うんだ。
「乾杯は、ただグラスを当て合うだけじゃない。何かしらの想いがそこにあって、それらに触れ合うことが乾杯だとわたしは思うんだ。乾杯って、誰かの想いなんだよ」
彼女はそう言ったきり、コトバを途切らせた。何となくつけていたテレビを何となく眺める。薄い画面のその中では、今日も本日の感染者数が淡々と告げられている。缶ビールを一口啜る。そして、彼女のコトバをもう一度こころで復唱した。
乾杯には、誰かの想いが詰まっている。
いつにもまして突飛な考えに、そして、その感性の豊かさに、ぼくのこころは、また彼女に惹かれてしまった。
「考えたことなかったけど、言われてみれば確かにそうかもしれないね。乾杯には、誰かの想いが詰まっている。とても素敵だとぼくも思うよ」
「でしょう?乾杯って、素敵な行為なんだよ」
ふふふと嬉しそうに笑いながら彼女は言った。彼女につられてぼくも笑う。そして、ふと眺めたテレビには、偶然にもビールで乾杯する大人たちのCMが流れていた。
「ねえ、乾杯しようよ」
ぼくがそういうと、彼女は少し驚いた声で答えた。
「え?電話越しで?」
「そう。電話越しで」
時計が5回ほどカチカチ鳴ったあと、彼女は言った。
「わかった。電話で乾杯も面白いかもね。じゃあ用意するから、ちょっと待ってて」
彼女はそう言い残し、その場を立ち去った。
iPhoneからゴトゴトという音が聞こえてくる。きっとビールだけじゃなく、お菓子かおつまみも用意しているのだろう。しばらく経ったあと、彼女は電話口に戻ってきて言った。
「持ってきたよ、ビール。どうせならと思って、チーズと生ハムも用意しちゃった」
やっぱりと思ったぼくは、自分の予想が当たったことに少し嬉しくなった。自分はコナンドイルの生まれ変わりかもなと、ふと思ったりした。同時に、思い上がりもいいところだと自分を恥じた。
「じゃあ、何に乾杯する?」
電話口からプシュッという景気のいい音が聞こえたあと、彼女はそう言った。
「ん〜、そうだなぁ…」
ぼくはロダンの考える人みたいな様子を自分の声にのせながら、うやむやに返答した。
「なんだ。乾杯しよって言い出しっぺのクセに、君は何にも考えてなかったのか。この適当男め」
彼女の声は少しつんとしていた。愛おしくなるその声は、ついイジワルをしてでも聞きたくなる声色をしていた。まあ、今回はイジワルで言ったのではないのだけれど。
そんなことをほのぼの思っていると、突然、電話の向こうからインターホンのベルが聞こえた。
「あ、ごめん。誰か来たみたいだ。このまえ頼んだ本かな?すぐに戻るから、ちょっと待ってて」
ぼくが返答する間も無く、受話器からスタスタと彼女の歩く音が聞こえた。
ふぅと一息吐いたぼくは、飲みかけの缶ビールを手に取り、残りをぐぐいと飲み干した。乾杯するならまだ口をつけていない、新しいビールの方がいい。何となくそう思ったぼくは、2本目の缶ビールを冷蔵庫へとりに行った。
「な、なんだこれは」
3分ほど電話口から離れていた彼女は、帰ってくるなりそう言った。何のことか全く分からない…というわけじゃないぼくだったが、一先ずとぼけることにした。
「何って、何がだい?」
「いま宅配便が来た」
「ふうん。誰から?」
「君から」
「へぇ。開けてみた?」
「開けた」
「そう。気に入ってくれた?」
ぼくがそう言ったきり、彼女は何も返答しなくなってしまった。耳元には彼女の微かな息遣いが聞こえる。そうして少し経ったあと、何かを堪えたような声で彼女は言った。
「今日って、なにかの記念日だったかな?」
「別にそういうわけじゃないけど」
「だったら何でプレゼントなんか」
返答に困ったぼくはコトバに詰まった。確かに、今日はふたりにとって別段特別な日ではない。それどころか、全くと言っていいほど何でもない日だ。でも、だから何なのだ。ぼくは思ったことを正直に話した。
「何かの記念日じゃなかったら、何かをプレゼントしちゃいけないのかい?何かのイベントがあるときしか、君への気持ちを伝えちゃいけないのかい?」
ぼくがそう言うと、今度は彼女がコトバを詰まらせた。少しの静寂が2人の間に流れる。少し不安になったぼくは、もう一度彼女に尋ねた。
「もしかして、本当に気に入らなかった?」
すると彼女は、鼻をすすりながら笑って答えた。
「ううん。すごく嬉しい。とっても、とっても」
「そう。それなら、良かった」
一応喜んでもらえたことにほっとしたぼくは、さきほど取り出した新しい缶ビールを開けた。
「乾杯しよう」とぼくは言った。
「うん、そうだね。乾杯しよう」と彼女は答えた。
お互いにビールをもったことを確認しあい、ぼくたちは同時に言った。
「乾杯」「乾杯」
一口ビールを飲む。電話口からすこし遅れてゴクリという音が聞こえた。そして、何故だかはわからないけれど、ぼくたちは申し合わせたように、一緒のタイミングで笑った。
「ねえ、ぼくの乾杯にも何か詰まっていた?」
ぼくは彼女に尋ねた。すると、彼女は照れ臭そうに答えた。
「うん、詰まってたよ。何が詰まっていたのかは、自分が自惚れてるみたいでわたしの口からは言えないけど」
「そっか。じゃあちゃんと伝わってるってことだね」
「うん。伝わってるよ」
穏やかな声で彼女はそう言った。聞いたのはぼくなのに、そう言われるとこっちが恥ずかしくなって、それをごまかすようにぼくはまた笑った。そしたら彼女もぼくと同じように、また笑った。
「電話でも、乾杯はできるんだね。乾杯の想いは伝わるんだね」
「そうだね。ぼくも今同じことを思ったよ」
乾杯には、誰かの想いが詰まっている。
「ありがとう」
彼女がぼくに向けてくれた乾杯には、そんな想いが詰まっている気がした。
まあ、自惚れかもしれないのだけれど。
我に缶ビールを。