第13回 50年前に私が見たもの 山田 真
1971年12月12日ごろだったと思う。
もう50年以上も昔のことになるが、私にとってその後の生き方を決定づけるような出来事があった。私たちが組織していた青年医師連合東大支部に依頼が来たのだ。「チッソ本社に水俣病の患者さんたちが坐り込んでハンストを始めた。患者さんたちの健康管理が必要なので往診してもらえないか」という依頼だった。
当時の私は、69年の東大闘争敗北後、いくつかの医療機関で診察をしながら、森永砒素ミルク中毒被害者の闘いを支援したり、三里塚空港反対闘争に応援に行ったりしていたが、水俣病のこともずっと気になっていた。だからとりあえずは往診に行こうと、数人の同級生とローテーションを組んでチッソ本社まで出かけることにした。患者さんの診察をしたら帰ろうと軽い気持ちで始めたのだが、実際に行ってみるとすぐには帰れなくなってしまった。患者さんの診察を終えるころに交渉が始まったりして、この交渉は私を釘づけにするものだった。
当時はこの国のあちこちで、虐げられた人たちが怒りの声をあげていて、その闘いは加害者、加害企業への直接交渉という形をとっていた。だから森永砒素ミルク中毒被害者の闘いでも直接交渉をしていたし、それ以外に医療被害者の直接交渉に参加した経験もあった。しかしそんな私をも驚かせその場から動かせなくするような力を水俣病の交渉は持っていた。患者さんたちはそれこそ生命がけで怒りをぶつけていた。私はこの交渉から学びたくてチッソ本社に通い続けたが、患者さんたちが日ごとに強くなっていくのを目のあたりにすることになる。
私は最近、まわりの人にあのチッソでの直接交渉で見たものを伝える語り部になっている。昔、三里塚や水俣で起こった一揆がもう一度この国で起きることを願いながら。
(やまだ・まこと 医師)