第12回 二度目の衝撃 郡山リエ
67年前、7歳の私は周りで起きている事の意味を理解できなかったせいか、わずかな記憶しかない。百戸ほどの村で頻々と墓地に向かう葬列。講堂で受けた変わった身体検査。海水浴の禁止。漁に出られない祖父は焼酎浸りで祖母に暴力をふるった。そして母の店では患者さんの入店を拒否したり、お金を手で受け取らず消毒したり。
母の店での対応が患者差別と受け取られていると知ったのは、学生時代に『苦海浄土』を読んだ時だ。衝撃を受けなかったはずはないが、この時の記憶は私の中で深く沈み込んだ。この本だと確認したのは2012年、初めて行った水俣病記念講演会で買った文庫本で再読した時だ。続けて通った水俣病大学で土本典昭監督の「水俣―患者さんとその世界」を観た時のこと、画面に我が家が映り、聞き覚えのある声が店での差別を語る。約40年後の二度目の衝撃。感想発表で店は私の実家だと語り、場の反応をうかがう余裕もなく続けた。「当時は子どもの疎開まで検討する恐怖の中だった。差別したと言われた側の声も聞いてほしい」と。
3年後、岡本達明著『水俣病の民衆史』が出版された。伝染病の疑いの中、お金の消毒は当然であり、「事実関係を押さえないで『患者に対するいわれなき偏見・差別』などと記す類書は、無数にある。こと村に関する限り、『いわれなき偏見・差別』などというものはない」との記述に私は救われた。
父はチッソ従業員だったから、今にして思えば、私はチッソからもらう父の給料と患者差別と言われながら得た母の収入で育ち学ばせてもらっていたわけだ。60歳過ぎての水俣フォーラムとの出会いなくば、単に働き者の両親のお蔭と思っていただろう。水俣病大学で学ぶことで記憶は意味を持ち、我が家の水俣病に向き合うことができた。
後に水俣病の症状も出て88歳で逝った母の晩年まで、ある患者さんは差別の恨みを口にしていた。差別の深い傷はいつまでも癒えない。
(こおりやま・りえ 元福祉施設職員)