幸福は一夜おくれて来る
下記、太宰治 女生徒の一節
「明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。わざと、どさんと大きい音たてて蒲団にたおれる。ああ、いい気持だ。蒲団が冷たいので、背中がほどよくひんやりして、ついうっとりなる。幸福は一夜おくれて来る。ぼんやり、そんな言葉を思出す。幸福を待って待って、とうとう堪え切れずに家を飛び出してしまって、そのあくる日に、素晴らしい幸福の知らせが、捨てた家を訪れたが、もうおそかった。幸福は一夜おくれて来る。幸福は、ーー」
まるでアキレスと亀のようだ、と思うけれど少し違う。私の推察として、ここにおける幸福は前方にない。わずかに戻ったところかつ来た道とは違う線上にある。それは想像≒幻想≒夢の中でしか辿り着くことができない。
例えば喧嘩別れした昔の恋人に会いたいと願う。明日は自分の誕生日で、昔の恋人は自分の家を知っているので、明日一日家で待っていれば、不意に恋人がやってくる可能性がある。けれども来たら来たで、なんだか拍子抜けするようなつまらないような感じがする。よって、前日に思いきって引越しをする。恋人が会いに来る可能性ごと消し去る。そのことにより後悔をするかもしれない。かといって、
引っ越しせずに家にいた→恋人が来なかった→がっかりする→幸福が遠ざかる/→恋人が来た→拍子抜けする・簡単にやって来た恋人をつまらないと思う→また前の日常の繰り返しが始まる→思っていた幸福と違う
思うにここでいう「幸福」は
恋人は来たのかもしれない。でも私は引っ越してしまって、二度と会えない。昔の恋人はアパートの部屋の前で泣き崩れているかもしれない、という甘い陶酔の中にある。
「昨日のコピーとしての今日」の中に幸福はない。コピーである無数の点が繋がって出来た線上には幸福は決してない。脳内に作り上げられた「〜だったかもしれない」過去の幻想に幸せを見るので、それは必然おくれてやって来る。
その感覚はアウラ(一点モノ考え)にも近く、複製技術(繰り返しの毎日)と対を為す。