深夜のノックと鳴らないピアノ
ドンドンドン……!
今夜も隣の玄関ドアを叩く音がする。
深夜0時近く。先週の金曜、昨日、そして今日。三度目だった。
私はテレビを切る。
壁が薄く、部屋の中でわずかに彼女の移動する音が聞こえる。
叩く主は耳をそばだてているのか、しばらく静かになり、再び、さらに大きな音で鉄製のドアが叩かれる。
物音ひとつしない。
そして声の代わりに溜息がもれた気がする。
やがて叩く主の足音が遠ざかっていく。
隣の部屋で彼女のスリッパの擦れる小さな音。
「夕べ、ごめんなさい」
先週土曜日の昼過ぎ、出かけようと玄関ドアを開けると、洗濯中の彼女が立っていた。
「うるさかったですよね? 音」
前の晩、初めての騒音に私は身動きできなかった。
私の部屋のドアが叩かれているのかと思った。しかし、すぐに隣の部屋だと気づいた。
魚眼レンズから覗くが、何も見えない——
そのことだ。
「どうしたんですか? 大丈夫?」
彼女は声をひそめて、
「夫なんです」
私より一つ下の世代だろうか、ピンとつやのある頬に似つかわしくない、翳る目を向けた。
先週越してきたばかりだが、別居中の夫が話し合いを求めているという。
この3階建てマンションにはインターフォンがなく、宅配便がドアを叩いて届けられるのすらビクッとする。だが、それにしても切羽詰ったノックだと感じた私は、身の危険はないのかを案じた。それに勘づいたのか、
「暴力はないので、大丈夫です。ただ話したくないんです。あまりに一方的だから」
とつとめて軽やかな口調で言った。
私は緊張がほぐれてくるのを感じ、用事も忘れて立ち話をした。
先月、ようやく離婚届を出したところだった私は、その日からホッとしていると思っていたが、改めて身体じゅうに血がめぐってくるのを感じた。
よく知らない同士でかまわず話すことが、お互いに必要だったようだ。理由は十人十色だとしても。
「あぁ、なんだか心強いです。もう少しおちついたら、ちゃんと話せると思います」
そう笑って、彼女は洗濯物を抱え部屋へ入っていった。
その夜、ノックはなかった。
翌日は、ノックと共に、「おーい」という声が微かに聞こえた。口を手で囲っているのか、くぐもった声音で、予想に反してあどけなさの残る青年の声だった。
彼女は慣れてきたのか、そんな時でも平気で部屋を歩き回る床の音がした。
ドンドンドンドン!
その夜は、明らかに近く大きな音だった。
部屋はしんとしていた。
ドンドン!
うちだ。この部屋のドアだ。
間違えようがない。壁にまで振動が伝わる。
私は立ち上がって魚眼レンズを除く勇気もなかった。
彼女の夫が酔って部屋を間違えたのか?
そんなはずはない。彼女は階段を上がってすぐの角部屋なのだから。
大きくなる音のする、ドアを真っ直ぐに睨む。
ひるむな。
音はそして途絶えた。
翌日の帰宅時に、猫と遊んでいた大家さんから、彼女は今日部屋を出ていったと聞いた。
再び静かな夜だ。
ドンドンドン!
また来る気はしていた。隣の部屋は空洞で、私の部屋のドアの音をさらに響かせる。
もう考える気力はなく、私は目を閉じた。
朝、ドアを開けると、見覚えのある電子ピアノ、キーボードが、壁に立てかけてあった。
私が高校で軽音部に入るときに買ってもらった、ヤマハの“ポータトーン”。
引越すたびに持って行ったが、前の家で天井の近くに収納され、手が届かずこの部屋に持ってこられなかった。
「キーボード弾きたいなぁ」
最後に直接会った日、それどころではないのに、私はそんなことを口にした。
一人の人生を私が傷つけたと思っていた。
新しい別々の生活をそれぞれ希望をもって始めよう! と伝えるために、手紙を書き、直接言葉を重ねて、懸命に向かい合った。そう思っていた。
長きにわたる期間を経て、ようやく伝わったと思い、心底ほっとしていた。
その後、襲ってきたのは、“新しい希望に満ちたそれぞれの道”などに進む気持ちにどうしてもなれない相手に、逃げ場を失わせていた、という罪悪感だった。
だから部屋のドアが叩かれたとき、罰がやってきたと思った。
心して受け入れよう、などと瞬時に思った。
ひるむな。と、小声に出してまで言った。
そう、戦おうとした私は馬鹿だ。
そう思ったのは、私自身の思いが澱んでいるからだ。
幸せになってほしい、と伝えながら、忘れてほしい、恨まないでほしいと奥底で思っている何よりの証拠だ。
キーボードを部屋に運び入れる。
電子コードがない。
二度と音を出すことはできない。
音の出ない鍵盤を指で叩くと乾いた音がした。
電源プラグを抜いたのは私である。
私たちのこの先が、それぞれにとってよい音でできたものになるように、自分の手でつくっていくしかない。
鳴らないとわかっていても、私には聴こえない音がどこか知らない場所で聴こえているのだと思えてならないのだ。
音の出ない鍵盤は、指先でもがいているように無音のままだが、歌っているようにも聴こえた。