ゆるやかな監禁の丘で
「あなたの数ヶ月の勉強期間を、たった一週間で超える体験ができるよ」
バスのドライバーが、曲がりくねった丘でハンドルを切りながら言う。
窓の外は霧がかかり、少し先の風景すらぼやけている。
夫婦二組が下車し、私は最後の乗客だった。
短期留学を終えて、数日間の延泊を計画し、北の荒涼としたエリアを一人、遺跡めぐりのツアーに参加。二日目の今日からは宿を決めておらず、観光に適した街で降ろしてもらおうとしたのだ。19歳の夏だった。
「宿のマスターが日本語を喋れるからね、今日の遺跡に興味のあった人にはピッタリだよ。君が言っていた卒論のテーマも決まるだろうし、将来の仕事にも直結するんじゃないか」
丘を登りきったゲストハウスの前でバスは止まる。
面白そう、と身を乗り出した私の思いは、玄関の古い家具の匂いとともに、不安にすりかわっていた。普通のホテルにすればよかったかな。
ドライバーは入口で素早く宿泊交渉すると、「気候が激しくてね。避難場所だと思い込んで逃げ込もうとすると崖だった、っていう言い伝えがあるくらいだから、気をつけて!」と手を振る。瞬く間にエンジン音が遠くなった。
「嵐が来るよ」
宿のマスターは、祖父と同年代とみえる男性で、日本語で違和感なくつぶやき、外を見つめた。
この家以外、ところどころに木が生えているのみのだだっ広い丘で、その木すら強風に煽られて葉がすべて飛び散ろうとしている。
「この土地の文化や遺跡の勉強ができるって聞きました」
マスターは怪訝な顔で振り向くと、
「そんな風にカテゴライズしないけどね。ただ、ここにいる間、この家に所蔵されたすべてを見て、学んでいっていいよ。宿泊費以外は、とらない」
書庫でも、あるのだろうか。それとも貴重な美術品や出土品の数々が、ここに?
しぼみかけた期待が再びふくらむ。
この家に所蔵される、ただ一冊の本を読破しようとしている、と言ったのは、私の左隣の角部屋に、なんと半年前から滞在しているという、20歳の日本人女性・茜だった。大学を休学し、彼女が取り組んでいるのは、古代の文字で書かれているというその本の解読であった。
「まだ世界に発表されていない文字なの。このエリアで一世紀前に見つかって以来、誰も読み解けていない」
たしかに、古い薄茶けた紙に、アルファベットに似た見たことのない形が連なっている。
「これを全て解読して、日本に持ち帰って発表したらどうなると思う?」
彼女の目は熱で浮かされているようであった。
それを見て大爆笑したのが、私の右隣の部屋に、二週間前から滞在しているという、26歳の日本人女性・潮である。
「ねぇ、そんなわけないじゃない。本当に解読すべき貴重なものだったら、あのおじいちゃんも専門家に頼むって。もうやめなよ。また痩せたんじゃないの?」
「私が日本で学んできた知識を見込んで、って、言ってくれたんだもの。成果が出たら、8割、私に権利が与えられるって」
茜は、細く白い指で、本をかばうように、抱え持つ。
潮は苦笑して、窓の外を見やる。
「あぁ、早く嵐、止まないかなぁ」
それから私に耳打ちした。
「待ちくたびれたから、ここを出ようと思うの。一緒に行かない?」
私が「私も卒論テーマを見つけなきゃ」と言い、「本気?」と茶化す潮に強くうなずいたのも、ここに来たことを一秒でも後悔したら、そして何かを手に入れないならば、出られなくなるような予感がしたからだ。
「じゃあ、これ、いったい何語なんだろうね?」
私は、茜のライフワークに協力したくなっていた。なぜなら、小一時間、潮と一緒に家中の部屋を廻って、目ぼしい“遺産”など、ほかにないと気がついたからだ。
「どれが価値あるものか、目利きになれば一目瞭然、すぐにわかる」というマスターの言葉に半信半疑にならざるを得ない。
「あたしは、この何もない場所で、ただ想像力をはたらかせてどこまで楽しめるか、を課題だと思うことにした」と、昼寝ばかりの潮の部屋を出て、私は、折角なら少しの可能性に賭けてみたい、と茜の部屋をノックする。
額をつき合わせて、辞書を引いていると、無限のループに取り込まれて、目眩がした。
「いいよ。休みなよ」
顔も上げずに茜が言う。
一日中、重低音のように嵐の音が私たちを包んでいる。
「すべて、ここにある」と言い残して姿を見せなくなったマスター。何か含蓄のある話が聞けるのかと思ったけど、ちっとも、だった。一日顔を合わさない日も多い。キッチンもセルフサービスだから、下宿生活のようだ。
一週間はとうに過ぎたが、嵐の止む気配はない。
茜の助手を続けていたある日、はっきりと「意味がない」と悟った。分厚い本を無造作にめくって目に入ったページの一節がふと気になって、留学で使用していた歴史のテキストを開いたところ、すでに解読されている言語と酷似していたのだ。
全ページを見たわけでないから、確信はない。でも。
ちらりと茜の顔を見る。やつれているのに、頬は上気している。
茜も、本当はもうやめたいんじゃないのかな。
私が何と切り出したらいいか考えあぐねていると、潮が部屋に飛び込んできた。
「おかしいよ、一ヶ月以上、嵐が止まない」
このきっかけに乗らない手はないと、私は立ち上がる。「もう、出よう、ここ」
言い終わらないうちに、潮は私の手首をつかみ、カーテンを開けた。
「見て。向こう側は雲がない。ここを抜ければ、晴れてるよ。ここ数日、ずっと見てたの」
ここを出たい。強く思った。帰国したら、周囲は秋になっていてとっくに動き始めている。早く、私のすべきことをしたい。何も決まっていないけれど。ここにあるものがすべて? 冗談じゃない。
私が茜を振り返ると、
「私はここにいるしかできない。これしかないの」
茜は、私たちが何か言う前に、真っ直ぐにこちらを見た。
「一生出られなくなるよ」
「放り出せない」
潮は「勝手にしなよ」と言って、私の手を引いて、ドアを出ようとする。
「すべてがここにある、って言ったよね、マスターは」
私は茜の方を向いたまま、声を絞り出した。
「ここには何もない、すべてが全部うそ、って、気がつかなきゃいけなかったんじゃない?」
穏やかだった茜の顔が豹変した。
「何かにすべて頼ろうとすればするほど、何もなくなる、って自分たちで気づけって」
「あんたたちみたいに守るものがない奴に何がわかるの」
茜の声は表情に反して低く落ち着いていた。
私がこの子を救わなきゃ、と思ったのは傲慢だった。
丘を駆け下り、走り、顔の雨をぬぐいながら、いくつもの思い込みが溶けて流れて蒸発するのを感じた。
「ここしか安全じゃないと思い込むことは、崖から飛び降りることと同じときがある」
と茜に言いたかった。けれど、それは私が勝手に胸に置いておけばいい。
マスターも誰も、私たちをあの場所に一度だって引き止めてはいない。
「すべてここにある」を、何とか現実にしたくて、こだわっていたのは私自身だ。
そして、自分の意思でそこに居続けようとしている人を、引き離すことは、ただ私の思いを押し付けることだ。
私たちは三人とも、お互いがいたから踏み出せた。
嵐を振り切るのに長距離走ったけれど、晴れた街角に出たとたん、私と潮は始めてお互いを見るような気恥ずかしさで笑い合った。
茜はいつか自分の意思で、あの場所を出る。
列車の駅で潮と別れたあと、雨上がりの線路沿いを歩きながら、私は遠く雷雲が散り散りになるのを見ていた。
《了》