自然農との出会いがトリガーになって、地方移住を決意したピアニストのこと episode4 【農民音楽との出会い】
「東洋人のわたしが、日本人としてのアイデンティティーを活かすことよりも、西洋のアプローチを身につけていくことを追求していく意味は、どこにあるのか」
クラシック音楽の世界で生きていくことを望む一方で
その問いにもんもんと悩む日々はつづきましたが
ついに、運命の出会いに導かれました。
お相手は、ハンガリーの作曲家バルトークです。
彼は1881年生まれ。
その当時ハンガリーはオーストリアとの二重国家
オーストリア・ハンガリー帝国という状態でした。
ハンガリー人はマジャール民族といって
マジャール語を母国語とします。
そのマジャール語は、どのヨーロッパの言語とも異なる
言ってみればアジア系の言語体系に属する語族。。
珍しいことに、名前も日本のように苗字が先です。
バルトークもはじめはドイツ系の音楽に傾倒していましたが
ある時、ハンガリー人としてのアイデンティティーに目覚め
自分の作風の方向性について、悩みはじめました。
そんな時に出会ったのが、ひとつ年下のコダーイ青年。
(この写真は青年時代を過ぎたものですが…😅)
作曲家であると同時に民俗学者でもあったコダーイは
ハンガリーの村に古くから伝わる民謡やわらべうたを
採譜、研究しはじめたところでした。
コダーイは、のちに
音楽はすべてのひとの幸せのためのもの
…という理念を具現化させるため、
独自の音楽教育を打ち立てました。
それが、いまも“コダーイアプローチ”として、
世界中の教育現場で採用されている音楽教育法です。
最高の音楽教育は、自国の言葉や民謡、
わらべうたに基づいて行われるものであり
そのためにはみずからフィールドワークを通して
民俗音楽を探求する必要がある、、
という、コダーイの考えを聞いたバルトークは
これこそ自分がライフワークとして
取りくんでいくべきものだ‼︎、と確信。
バルトークが教えていたリスト音楽院が休暇に入ると
彼は、大きな録音機材をリヤカーに積んで、
電気もとおっていないようなハンガリーの農村地帯を
民謡採譜の旅に出るようになります。
そうやって集められた
宝もののようなメロディーたち✨
バルトークは、独自の作曲技法をもって
それらを芸術音楽に高め、
普遍的な作品に仕上げていきました。
(みずからが村で録音した音源を確認するバルトーク)
、、、彼らのお話が長くなってしまいました。
いや、本当のことをいえば語りたりないのですが(笑)
バルトークは民俗音楽のなかでも、
特に純粋性や特異性にすぐれたものを
“農民音楽”と呼びました。
*農民音楽の特徴については、
また別の機会にお話できたらと思います。
以前から、バルトークのことはもちろん、
彼の作品もいくつか知っていたのですが、
わたしが“衝撃的な出会い”と感じたのは
まさにその、農民音楽にもとづいて書かれた作品を
聴いたときでした。
日本とおなじペンタトニック(五音音階)や
長調短調のドレミファではない教会旋法の
美しく、楽しく、悲しく、ユニークなメロディー…
民謡やダンスから自然に発生したリズムは
西洋音楽の三拍子、四拍子などというワクにおさまらず
どこまでも自由で、
まるで詩がリズムに昇華したみたい。。
なにより嬉しかったのは、知らないはずのメロディーに
まるでこれまでずっと親しんできたような
懐かしさを感じたこと。
なかには、日本の民謡と似ているものもありました。
それは、国境も民族も西洋東洋も越えた、
人類共通の“人間の”音楽でした。
クラシック音楽、西洋音楽が、音楽のすべてじゃない。
むしろ、それはほんの一部。
わたしたちは昔から自分たちで音楽を産みだし、
それを自分たちで奏で、歌いついできたのだ、、、
「わたしの作品に、西洋や東洋の区別を感じるかい?」
そんなバルトークの声がきこえてきた気がしました。
バルトークがコダーイに出会って
自身がすすむ道を見いだしたように
バルトークの農民音楽との出会いによって
わたしはそれまでの悩み、迷いを払拭し
ある信念をもって音楽の道を歩くようにと
導かれたように感じました。
“ハンガリーに留学したい”
中学時代にはグランドピアノをせがみ、
高校時代には地方から東京の音大に進みたいとせがみ、
音大卒業に際してはハンガリー留学をせがみ、、
いま思えばとんでもないワガママのオンパレード…💦
家族には負担ばかりかけてしまいましたが
自分のなかには、揺るぎない炎のような光が
ごおごおと灯っていました。
、、、、、
そうなったら展開はやい!!
専攻の先生に相談し、推薦状を書いていただいて
所定の演奏音源を用意し、
ハンガリーの国立リスト音楽院に送りました。
(建物中央にリストが鎮座する、リスト音楽院)
リスト音楽院は、あの大作曲家リストが創設し
バルトークもピアノを教えていた音楽の殿堂。
特にピアノはウィーン音楽大学に負けるとも劣らない
名門中の名門です。
合格通知を受けとったときは
嬉しくて嬉しくて
当時ハンガリーは共産圏で、社会主義国でしたが
不安よりも喜びでいっぱいでした。
というより、不安はほとんど感じませんでした。
国外にでたことはおろか、
国内で飛行機にすら乗ったことがないのに。
マジャール語(ハンガリー語)はおろか、
英語すらまともに話せないのに。
*episode5に続く
🌿そんな今回オススメのYouTubeはこちら🌿
バルトークが農民音楽にもとづいてかいた作品
豚飼いの一団が遠くから近づいてきて
また去っていくようすが
生き生きと描かれています♫
🌿鈴木美奈子のオフィシャルサイトはこちら🌿