アカウント論① アイデンティティと筋肉
リモートワーク中に作業用BGM的にYouTubeを流しているのだけど、リコメンドされるままに自動再生されている中で中山きんに君の動画が流れてきた。
「ヤーっ」のオモシロ芸人さんのイメージしかない人だったが、いくつか含蓄に富んだスピーチをされていた。
①コツコツと基礎的なことを毎日繰り返す=人生を賭けること
私にとってこの等式の左辺と右辺は全く別物のように思っていたが、きんに君はイコールで結ぶ。
毎日時間を使っているのだからそれは人生を賭けているのだよね、と。
②痛みによる消耗→栄養+休養によって超回復が起きて「成長」する。
言わずと知れた(?)サイヤ人システム©︎ドラゴンボールで、このあたりは少年がそのまま大きくなった感をまずは思ったが、しかし、自己啓発の文脈で語られがちな「成長」が具体的に形になる<筋肉>をまざまざと見せつけられるので説得力が違った。
③積み重ねた努力は、いつか形になる。実を結ぶ = 実を結ぶ目標を持って毎日の基礎的な努力を重ねる。
これもわかっている人にとっては常識なのかもしれないが、いまいち左辺と右辺が等価であると認識できていなかった。口調穏やかに語られているが、きんに君も「なんとなくでやったことは、なんとなくの結果にしかならない」と言っており、キツめに言えば「やっても無駄な努力もある」とダルビッシュ選手がいつかtwitterか何かで言っていたことと同じだ。
④好きなことでないと毎日は続かない = 続けられるものが「好き」である。
これはよく言われることだが、きんに君が筋トレ好き、というそのわかりやすさが凡百の啓発本を無用の長物にする。好きゆえにストイックに体重や食事の管理ができる。
トレーニングとは自分に負荷をかける事であり、それゆえに、いくらでも継続しない理由はつけられる。その中でも継続するコツは「負荷のハードルを下げること」であると、きんに君は言うが、その下げ方の一つが、自分の好きなことに寄せること、であるとも聞こえた。続ける意思、怠けたい欲、それを調停する感情としての「好き」。
そんなわけで、自分もトレーニング(負荷)として、文章を書いていこうと思った。
なぜか?
きんに君とは全く関係のない、アイデンティティ・クライシスの渦中にあるからだ。
例えば上記のリンクの内容をChat-GPT(無料版)に何回か指導しながら要約させるとこうなる。
指導の甲斐あって、直接は上記インタビューで語られていないワードが生成された。
SNSの承認欲求に応じるためのアプローチが求められている中で、アイデンティティ・クライシスが引き起こされている。
これである。
私も以前より感じていたが、コロナ禍に入る直前ぐらいからより強く感じていた。
人は人を機能で見る。機能とはファンクション。関数のように、ある入力に対して良い(生成的な!)出力が求められる。ビジネスにおける受発注とは、あまりにわかりやすいノード型プログラムの可視化である。
歯車どころか、ノードに自己が落とし込まれる感覚。
そこにはSNSの承認欲求への適応が、暗黙の文脈として仕込まれているという直観。
これらに意図的に鈍感になりながら日銭を稼げたら良いのだが、いささかストレスが無視できないものになってきた。
そこでトレーニングである。
すでに心的に負荷がかかっている中で輪をかけて?
そうではない。
筋トレがそうであるように、それ自体は承認欲求とは縁のない、ただ単に自分の設定した目標とそれへの達成度での絶対評価である。
これを続けること自体が、ソーシャル・ネットワーク(笑)からの自由を担保するはずだと言う確信がある。
(一方で、筋肉はSNSでの発信にかなり適したメディアだと思う。日々の取り組みが大事だし、その様子は動画に収める意味があるし、習慣の問題なので生きている限りそれが気になる人は一定数確保され続ける)
こうして複数の情報を繋げる。新たなネットワークを生成する。
これが今感じているストレスに対する、取り急ぎの処方箋、、、「好き」という感情なのだ。
①コツコツやり続けます。極力毎日なんらか書きます
②適度な消耗が必要なので発信します。適度に批判してもらえると超回復によって成長します。
③この営みの継続が、個人の承認欲求を超えた、知的ネットワークとなって誰かに届くことを願っています。
④堂々巡り、ありきたり、動物的な直情反応は嫌いで、それから自由になる瞬間がたまらなく好きです。
とりあえず今日はここまで。できる範囲でコツコツと。