(詩)小さな奇跡
小さな奇跡
古書店街の路地裏に佇む
レンガ造りの小さな喫茶店
書店めぐりに疲れたぼくは
ふらりと足を踏み入れた
薄暗い店内には
古いシャンソンが低く流れ
客はまばらに入っている
隅の席に落ち着くとメニューを眺める
この店は昭和から続く老舗で
ウインナコーヒーが有名らしい
ぼくはそれを一杯所望し
先ほど買い求めたばかりの詩集を
鞄から取り出す
うっすら日焼けしたページを開くと
古びた紙とインクの匂いが
まもなく届いたウインナコーヒーの
甘い香りと混じり合う
ページを繰って眺めていると
一篇の詩が目にとまった
詩人はその中で
過ぎ去りし青春の日々を懐かしみ
確実に訪れる老いと死を
諦念と尊厳をもって受け入れようとする
人生の道半ばを超えたぼくは
森の中の湖のような
静謐な文体に引き込まれた
ふと気づくと
ページの上に
かすかに波打つ箇所がある
前の持ち主の涙の痕だろうか
その人は男か女か
どんな思いで
この詩を読んだのか
ぼくはその箇所にそっと指で触れ
目を閉じて
その人物を想像しようとした
その問いは答えを得られないまま
コーヒーに浮かぶホイップクリームのように
ただよい 溶けていった
目を開けて本を持ち直したとき
ページの間に紙片が挟まっているのに気づく
何かのレシートだ
その字はほとんど消えかかっている
暗めの照明の下で苦労して読むと
それはおよそ四半世紀前の
この喫茶店のものだった
その人物が誰にせよ
かつてこの店で
ウインナコーヒーを飲みながら
この詩集を開いていたのかもしれない
その背後には
やはりシャンソンが流れていたのだろうか
時代は変わり
人は去来する
だがしばらくの間
変わらないものもある
良い街 良い店 良いことば
これらを通して
時を超え触れ合う魂がある
ちょうど流れの間に顔を出す
飛び石を辿って川を渡るように
そんなささやかな出会いは
都会の片隅で生まれる
小さな奇跡なのかもしれない
ぼくは勘定を済ませ
受け取った真新しいレシートを
古いレシートに重ねて詩集に挟むと
満ち足りた気持ちで店を出た
(MY DEAR 317号投稿作・改訂済)
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