自己紹介を兼ねて…。私がなぜ海外で生活することになったのか。No.2

2.母の看護のため日本へ

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前回 結婚して中国上海での4年に及ぶ生活についてざっくり書きました。

自己紹介2回目は、上海から日本へ。

2013年秋、上海の自宅に一本の電話が入りました。

それは、日本にいる姉から「お母さんが肺癌になってしまった」という泣きながらの電話でした。

職場の健康診断で小さな影が見つかり、精密検査の結果ステージ4の肺癌が発覚。当時、父は奇遇にも私と同じ上海で第2の人生を謳歌すべく単身赴任中。

誰が母に寄り添うか、となり、姉と二人姉妹でどちらも長男に嫁いだのですが、自由の利く方は私で、母の近くに早く戻ってあげたかったので夫に相談して2年の約束で帰国することにしました。

4歳の長女と10ヶ月の次女を連れて日本へ帰国してみると、ステージ4、と言っても具体的な症状がなかった母は友人とハワイやバス旅行へ行くなど旅行を楽しんだり、職場に復帰したり、と病気になる前となんら変わりがなく、

慣れない母子だけの生活となりましたが、母がごはんを作ってくれることで私は楽をさせてもらえ、病気のおかげで母は孫との生活を楽しんでもらう生活を送れていました。

当初医師からは驚かれたのが、発覚から1年近くは癌が大きくなることも(逆に消えてしまった癌細胞もありました)、症状が出ることもなく、母は病前と変わらず元気でしたので、私も長女を幼稚園に通わせながら幼なじみが経営するうなぎ屋さんで日中アルバイトをさせてもらったり、友人達に会いに新幹線に乗って出掛けたり、と久々の日本での生活を楽しんでいました。

しかし、母は昔から人に頼るのが苦手な長女気質で、職場でも上司にしか告知せず人一倍頑張りすぎる傾向にあったようで、徐々に体調に異変を感じるようになり、癌のある肺ではなく頸椎に痛みを感じるようになってしまいました。

その後首の痛みで思うように動けなくなり、職場をフェイドアウトするような形で退職、介護認定まで受け、電動ベッドのレンタルや移動式入浴サービスを受けるなど速いスピードで悪化していきました。

その頃から夜間私は隣の部屋で娘達と寝ることにし、夜中に痛みで起きて大声で喚いたり私の名前を呼ぶたびに背中や腕をさすったり、テルミーという器具で温めたりという日が続きました。

陽気で家事が得意だった母がどんどん人が変わったように、八つ当たりと私の家事のやり方にダメ出しを散々するようになっていき、

私は子育てと母の看護でくたびれ果て、何度も母と言い争いになったり、突然激しい痛みに母がパニックになり救急車を呼んで入院、子供を二人抱えて病院と自宅、幼稚園の往復の生活…

とストレスが溜まりに溜まり、上海に戻りたいと夫にテレビ電話で何度も泣きつき、2か月ごとに帰国してくれて子供の世話をしてくれました。

なんだかんだで約束の2年はあっという間に過ぎ、2016年の3月末で上海に戻ることになり、父が日本に戻ってきてくれないかと期待したのですが諸事情で叶わず、周囲と相談の結果、介護施設の利用と訪問介護や訪問看護を介護保険等で受けられる目いっぱい利用することに。

そして実家から車で10分の場所に住む姉がひんぱんに顔を出してくれることや、近所や職場の気を許している友人の方々が見にきてくれることになり、

病気の母を一人残していくことに後ろ髪を引かれながらも、正直なところ上海に戻れる安堵感を感じながら2年過ごした日本を後にしました。


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3.再び上海へ につづく



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