VRD
「死んでみたいんだよね」
彼は楽しそうに、そう言った。
「バーチャルでリアリティを感じられるなら、死を感じてみたいんだよ。だって現実だと死んだらそこで終わってあの世だとか地獄だとかから帰ってこれなくなっちゃうでしょ。でも仮想現実っていうフェイクの現実なら、そこで死んだって現実では生きてるわけだから、いわゆる臨死体験ができるってことでしょ? やりたいよね」
「やりたいかな……」
彼の言うことは正直よくわからなかった。つまり臨死体験がしたい、ということなのはわかったけど、その体験がそんなに魅力的だとは私には思えなくて、つまり、よくわからなかった。
「昔と違って3D空間の中で手足を動かすだけじゃなくなったわけだし。それなら普通リアルで経験できないようなことをやってみたくない?」
「それはわかるけど、さすがに死ぬのは怖いよ……夢の中で死んだら体が誤認識して現実で死んじゃうって話もあるよ」
「迷信だろうそれ。事実俺は夢で何度も死んでる」
「まあ、私も、死んだって思った夢見たことはあるけど……」
「いいなぁー死ぬってどんな感じなんだろうなぁー」
彼はこの賑わった居酒屋に不似合いだった。ざわざわと他の人の会話にかき消されながら呟かれる「死んでみたい」という言葉。まるで私と彼のことが周りの人から見えていないような、ここだけ別の現実のような、浮いている感じがする。
「そもそもなんでそんなに死にたいの……」
「うん? そりゃあ理由なんていくらでもあるよね」
彼はそれ以上言わなかったが、彼女に振られたり身内に不幸があったり会社でパワハラにあっているなど、これまでに彼がぽろぽろとこぼした不幸は結構な数で、それで死にたくなった、と言われると、わかる、となってしまうような理由が確かにある。バーチャルではなくリアルでの飲みに誘ったのは私だ。そっちの方が、克服できるんじゃないかと思って。そしたら「死んでみたい」ときた。
「……死んじゃだめだよ」
「それはどういう理由でかな。せっかくもらった命なんだからとか命は尊いものだからとかそんなありきたりな言葉言わないでくれよ。俺は倫理や道徳での死の扱いが嫌いなんだ」
「わかってる。けど……」
「不幸は神様が与えた試練だとか、人生の課題だとか、魂の使命だとか、そんな下らないことのために生まれたなんて思いたくない」
「うん……」
そんなスピリチュアルなことは言うつもりはないが、けれどだからといって簡単に死んでいいものではない、と思うのだが。
「死はもっと自由であるべきだよ。選択肢のひとつとして。だからもしそれを体験したらどうなるのか、知っておくべきだと思わないか?」
「よく、わからないよ……」
ねえ、と私は甘えた声を出す。帰りにちょっと寄っていこうよ。私はVR機器があるホテルへ、彼を、誘った。
「久しぶりだね、これするの」
互いにVRヘッドセットをつけながらのセックス。実在感を伴いながら視界はバーチャルというこの行為は、現実と仮想現実との境を曖昧にするにはもってこいだった。
そう、曖昧になれば。
死への恐怖が勝ってくれるんじゃないかと、思っていた。
「前よりも気持ちいい気がするよ! 早く、死を体験したい――」
結果、むしろ期待感を煽ってしまい、私の思惑通りにはいかなかった。
「どうして、そんなに――」
「体験したことがないことを、体験してみたいと思うのは、往々にしてあることだろう?」
「それは、あるけど……死ぬことは怖いよ」
「大丈夫だよ。あくまでもバーチャルなんだから」
そして彼とは、リアルでの連絡が取れなくなった。
VRゲームへインすると彼もインしていることが表示され、彼の元へ飛んだ。
アパートの一室のような部屋で、ベッドの上に仰向けに寝転がっている。
声をかけても返事はない。触れても彼は動かない。家からインしているなら触感センサーのついたボディスーツを着てやっていると思うのだけど。
「死んじゃったの……?」
そもそもVRでの死とはなんだろう。どうやって死ぬのだろう。私は部屋を見回した。ベランダの物干し竿に、ロープが吊り下がっていた。自殺結びとも言われる、もやい結びの結び方で丸く、頭が通るサイズにあつらえたロープが。
仮にそこに首を通したとして、ここに寝転がっているのは不自然だ。誰かが動かした? そもそもあのロープはここのギミックだろうか。
私は立ち上がってベランダに出た。無風のはずなのに冷たい風を感じた気がした。手を伸ばしてロープを掴む。確かに掴めるようになっている。私はその手を放そうとしたが、アニメーションが再生されるギミックらしく、勝手に体が動いた。
「――え、なに――」
自分の体が勝手に動く。ロープの下に転がっていた小さな椅子が勝手に立ち上がる。私はそこへ上る。ロープを両手でつかんで、そこへ、頭を――
「な、なに、やだ、やめて――」
私は思わず目をつぶった。ガタンと椅子が倒れるであろう音がして、ギィ……ギィ……とロープが軋む音が耳のすぐそばでしている。アニメーションが終わったら戻れるはずだ。今我慢すれば、戻れるはずだ――そう思って私は待っていた。けれど何も起きない。薄っすら目を開けるとそこはベランダではなかった。
ぞわりと全身に鳥肌が立つ。足元には何もない。高層ビルのど真ん中、けれどビルの根っこはどこまでも見えず、暗い虚空が足元には広がっていた。高所恐怖症でなくとも足がすくんでしまうような景色。ここはどこ。たすけて。
私は無意識にもがいていた。けれどもがけばもがくほど首にロープが食い込む。苦しい。息ができなくなる。ここは現実じゃないはずだ。なのに、どうして。
「う――ぐ――」
目に涙が滲む。彼も、この光景を見たのだろうか。
「し、に、たく、ない――」
ロープが揺れ、ギィ、ギィ、と軋む音が大きくなった。ブチブチという繊維の千切れる音が大きくなってきたことに気づき、私はさらに慌てた。慌てたほうが千切れてしまうという事実に気づかずに。
ぶち、と大きな音が響いた。私にかかる重力が軽くなる。
「え」
足元を浮遊感が襲う。下へ、虚空へ、落ちていっている。闇が迫っている。足元が見えなくなる。思わず恐怖で息が止まる。暗闇の底へ、どこまでも落ちていっている。
たすけて。
擦れた声は声にならなかった。
目を覚ますと私はベッドの上にいた。あれは夢だったのか。そう思い起き上がろうとするも、体が動かない。
――夢の中で死んだら体が誤認識して現実で死んじゃうって話もあるよ――
死んだのか。私は。そんな馬鹿な。だってこれは迷信じゃ、ないのか。
「おーい」
彼の声がした。返事をしようにも声が出ない。
「なんだ。君もやっちゃったのか」
どういうこと。
「ここには誰も入れないように設定してたつもりだったんだけど、おかしいな」
どういう、こと。
「まあいいや。俺が今から首を吊るから、そしたら君は目覚めるから、そしたらすぐにここから移動すること。いいね?」
どういうこと。どういうこと。どういうこと。
「じゃあ、そういうことで、よろしく――」
彼の声が移動したのがわかった。ガタンと音がすると、私の体は自由になった。彼の様子を見なければ。そう思うが体が動かない。ギミックなのか、恐怖でなのか。
ふ、と体が軽くなった感覚がした。
一度出よう。ここから。さっき来れたのだから、また彼に会いに来れるはずだ。
私はメニューを開いて移動ボタンを押した。
彼は、一週間後、ベッドの上で、VRゴーグルを被ったまま、意識を失っている状態で発見された。
死んではいなかった。
私はお見舞いの花を持って、彼が入院している病院へ赴いた。
「……」
「ああ、来てくれたのか。ありがとう」
私はそっとお見舞いの花をベッドサイドに置いて、彼に尋ねた。
「……どう、だった?」
「良いものだったよ」
彼は愛おしそうに目を細めて、揺れているカーテンを見つめていた。