52Hzの鯨
彼は、煙草を吸うときは、いつも一人だ。
喫煙室というのは混む時間がなんとなく決まっている。決まっているというか、皆が吸いたくなるタイミングというのが似通っていて、混む時間帯と全く人のいない時間帯がある。
彼はいつも人がいない時間帯を狙って、喫煙室で煙草を吸いに来ているようだった。そこに誰かが来ると、煙草を付けたばかりでも揉み消して去ってしまう。私が喫煙室へ入ったとき彼の煙草はまだ長いままだったが、どうぞ、と言って彼はその付けたばかりであろう煙草を揉み消して去っていってしまった。不思議に思ってしばらく観察したところ、どうやら一人で煙草を吸いたいらしく、彼を見かけるときの喫煙室は彼一人で、一人でも誰かいると彼はそこに入らず踵を返していた。
「お疲れ様です」
帰り際、仕事が残っているらしい彼にそう声をかけた。
「お疲れ」
私の先輩である彼は、ちらりと私を一瞥しただけで、すぐにパソコンに視線を戻した。
「あの」
「ん?」
用事があるのか、と思われたらしく、今度は私の方へ向き直ってくれた。
「…………煙草吸うとき、いつも一人なんですね」
私の言葉に、彼は苦笑した。言ってはいけないことだっただろうか。
「うん。煙草吸うときくらい、一人になりたくてね」
「…………あの、」
「気になる?」
彼は机に頬杖をついて、品定めするような視線を私に投げた。頬杖をついたのが、意外だった。そういう姿勢を崩すようなところは、あまり見たことがなかったからだ。事務的なやり取りしかしたことがなかったから、こうして面と向かって話すのもよく考えたら初めてかもしれない。
「煙草、吸いに行こうか」
「あ、はい」
言われるがまま、私はデスクの椅子に鞄を置いてついていった。
二人無言のまま、煙草に火をつけて、吸って、吐いた。二人分の煙が宙に溶けていく。
「お墓に線香を供えるのはなんでか、知ってる?」
立ち昇る煙を見つめながら、彼はおもむろに話し出した。
「いいえ」
「香りで供養するためなんだってさ」
「初めて知りました」
「うん」
彼はまた煙草を吸って、そしてゆっくりと、細く吐き出す。私は吸わずに、彼が吐き終わるのを待っていた。
「友達が、死んだんだ」
「…………それで」
「ヘビースモーカーでね。この煙草を好んで吸ってた」
だから、その煙草の煙を、香りを、彼に捧げているのか。
「…………すみません。聞いてよかったんでしょうか」
ただの好奇心で聞いてしまったことが申し訳なくなって謝罪すると、彼は笑った。
「別にいいよ。誰にも聞かれなかったから言わなかっただけ」
「一人で、吸うのは」
「暗い顔で吸ってるやつがいたら、嫌だろう?」
「そんなことは…………」
「聞かれなかったから言わなかっただけと言ったけど、大人数に詮索されるのは嫌でね」
「確かに」
「それだけだよ」
それだけ、なのか。祈るように煙を見つめる彼は、友達を思って追悼する彼は、綺麗だった。男性に綺麗、というのはおかしいかもしれないが、誰かを思う姿というのは、誰しも綺麗なものなのかもしれない。
「どうした?」
気づいたらぼーっと見つめてしまっていた。いえ、と視線を逸らして自分の煙草を吸う。
「君の煙草も、良い匂いがするな」
「女性が好んで吸ってるやつです。吸ってみますか?」
「ん。これ吸い終わったらもらおうかな」
吸って、吐いて。これだけの行為だけど彼にとっては、それだけではない。不思議なものだ。ただの煙草なのに、彼にとっては特別な行為で、それを繰り返すくらい、友達のことを思っていて。
「…………一途、ですね」
思わず呟くと、ぶはっと彼は煙を吐き出し笑った。
「友達に一途、というのはなかなか言わないな」
「でもここ数日、ってわけじゃないですよね」
「まあね。女々しいとは思うよ。だから合ってるな、一途ってのは」
「あ、いや、そういう意味では」
「わかってるよ」
男性故の大きな手から生える骨ばった指で煙草を摘み、端正な顔の柔らかそうな唇で咥え、ふうと吐き出される煙は、私が吐き出す煙よりも明らかに綺麗だった。白い霞のようなそれは、上に登るほど空気と同化していく。きっと同化するほど、香りは彼の友達の元へ届くのだろう。もう充分ではないだろうか。友達の周りには雲のように、彼からの煙が、祈りの籠った霞が、溜まっていることだろう。
私がそんなことを考えているうちに、彼は煙草を吸い終わり吸い殻を吸い殻入れに押し付けて消火した。
「煙草一本、くれるか?」
「はい」
私は内ポケットから煙草の箱を取り出し、中から一本引き出して手渡した。
「ありがとう」
彼はジッポライターで煙草をつけようとしたが、カチカチと音がするだけで火は灯らなかった。
「切れた、か」
彼は残念そうに、呟いた。
「貸しますよ」
彼はうーんと顎に手を当てて考えている。
「何かあるんですか?」
「これ、あいつの遺品でね。煙草を吸うの、これが無くなるまでにしようと思ってたんだ」
「…………そうなんですか」
終わって、しまったのか。彼の追悼は。いや哀悼は。彼は寂しそうに笑った。
「…………たまには違う香りも、いいんじゃないでしょうか」
こ れ以上香りは、霞は要らないかもしれないけど。煙草を吸う理由くらいあってもいいんじゃないか。そう思った。
「そうかもな。同じ香りばっかりだから、飽きられるかもな」
「はい」
「火、くれる?」
「はい」
「ん」
彼は煙草を口に咥えて、差し出してきた。私はその行動を意外に思って、一瞬どうしたらいいかわからなくなってしまった。
「聞いてくれたのは、君が初めて」
「え、あ、はい」
「煙草、咥えて吸って」
言われるがまま煙草を咥えて、吸った。その先に彼は煙草の先を付けて、吸って、彼の煙草に火が灯った。近い距離で見る彼の瞳は、青い空を映した海の波のような瞳をしていた。
「後で連絡先、教えてくれよ」
そう笑う彼はなんだかすっきりした様子で、吹っ切れたのかもしれなかった。それがなんだか、無性に嬉しかった。