すぐそばにある死とその価値について
先日知人が自殺未遂をしたらしい。
「今までありがとう」というテンプレ文が送られてきてその後電話に出ず、行ってみれば大量の錠剤の空とまるで眠るように寝転がっていた知人がいたそうだ。
結局飲んだ薬の量と成分が大したことなかったので命に別状はなく、死ぬこともなく、とりあえず入院という運びになった。
私は多少驚いたものの酷く冷静で、「この人が私より先に自殺しようとするとは思わなかったな」とやけに冷めた頭で思っていた。
私より先に周りの人が死ぬビジョンがまったくもって見えない。
リアルでもバーチャルでもそれは変わらなくて、もしかしたらその日交通事故で肉体的に死ぬとか、もしかしたら一番大切な人を失って精神的に死ぬとか、そういったことがないとは限らないのにそれでも私が先に死ぬだろうとなんとはなしに思っている。
信じているともいっていいその思い込みに対して、私は多分少しの安心感を覚えている。
私の周りの人が私より先に死ぬことはない。それなら私は寂しい思いも悲しい思いも虚しい思いもすることがない。もしかしたら私が死んだことを嘆き悲しんでくれる人がいるかもしれない。私の死が誰かの感情を揺さぶり動かせたのなら、私は生きた価値があったとそこで初めて思える気がするのだ。
だから私は誰よりも先に死ななければならない。
でもそれは簡単なことではない。
自殺の方法については一通り調べていて、確実な方法なんてそうそうないことを知っている。だから知人の話を聞いた時もそれじゃあ死ねるわけないよな、と薬の状況を聞いて思ったのだ。その程度の種類と量じゃ死ねないことを、私は知っている。
今持っている薬を全部飲んだら多分、死ねるかもしれないけれど、今はそこに一歩踏み出す理由がない。
結局じゃあ死にたくないんじゃないかと思われるだろうが、心のどこかでそう思っているのは確かだろう。
でも死にたいと思っているのも事実である。
もし私が一歩踏み出せるような出来事が起きたらきっと私は、悲しみと苦しみともしかしたら怒りと、それから安堵と喜びを持って踏み出すんだろう。
そういった出来事が起きないかな、なんて考えている。