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今後の人生、どうやって生きればいいのか。

人の意識は、志向性(Intentionalität)を持つ。

過去に何があり、未来に何があるかなど、私たちの内部に何があるかに比べればほんの些末なことだ。

ラルフ・ワルド・エマーソン(アメリカの思想家)

私の場合、この言葉のとおり自分の内部に何が在るか、そこへ意識が強く向く。ゆえに、如何ともし難いこの強い志向性に従って、このnoteで自己分析を徹底して続けてしまった。
まだHSS型HSPとギフテッドの関係についてまとめてみたくはあるものの、ひと通りの自己探求シリーズは完結した。そして……

自己分析を続けた結果

今ひどい「うつ」に苛まれている。真夜中に奇声を上げて飛び上がったり、死と隣り合わせな感覚を味わったり、気が狂いそうなほど深刻になった。自己理解を深層まで深めてしまったせいで、他者からの不理解、子供時代から感じていた周囲からの無関心が、リアルな現実として表層に浮かび上がってしまい難しい状況となってしまった。

精神のしなやかさは持っていると信じているから、実際に命を断つことはしないと思う。けれども死という暗く深い淵を覗き込む場所にまで辿り着いてしまった。……私と同じ実存的うつを持つ方は、自己分析を進める際、覚悟をしてかかる必要があると思う。若いうちならまだ良いが、人生経験を重ねるほどこれは深刻な問題となる。あるいは信頼できる友に見守ってもらうなど、前もって準備してかかるほうがいいと思う。

こうして痛みを伴う自己理解には、それでも価値があった、と……さて、本当に言えるのだろうか? 今後実生活へ戻らなければならないのに、うまくいきそうにない。どうすればいいのだろう。

成果としては色々ある。このnoteにまとめられそうな心理分析のトピックが沢山できたし、今後とも心理学的、脳科学的、はたまた社会学的?……目線を(私にできる範囲で)ベースに据えて、専門書の知識と経験と探求心を絡ませつつ考察していく必要を改めて味わい知れた。だから無駄だったわけではない。そう思いたい。

違和感の実体を知った上で、今後どう生きるか? 問題

基本的に、いつも他人に合わせて生きてきた。相手の必要を読み取り、相手の思考のスピードやテンポに合わせ、自身の興味関心の開示も相手の範疇に合わせて程よく出して、いわば内部に迸る強烈なものは極力抑え込んできた。相手の気分を害す要素を1ミリも出さないよう私なりに注意深くありながら、人と交流してきたつもりだ。何十年もの間、それが私のナチュラルな、人と向き合う時のスタンスだった。このやり方が正しいと疑いもしなかった。……けれども、今真の自分をはっきりと自覚して、自分が他者より多く持っているものと、他者よりひどく不足しているものを把握して、考えが変わりつつある。

素直な願いを言えば、「自分を全開にできる交流がしたい」に尽きる。だけどそれは当分叶いそうにない。(いつかは『こくちーず』などで交流会の主催者となり発信してみたいとも思う。)

そこで、全開にはなれないまでも、これほどに自分を「絞る」ことはもうしないでいいのではないか? と考え始めてしまっている。具体的にいってどういうことかを以下にまとめてみる。(「私」のオンパレードなので醜いなぁと感じる方は遠慮なくページを閉じてほしい。)

私にとって真の友達、真の理解者とは? 
(自分で行う自分のための「定義付け」)

❶ 私が内面を曝け出して書いたものを、最低でも読んで、理解してくれる人。つまり、このnoteの記事に関心を持ってくれて、なるほど、みたいに思考や感情を動かしてくれる人。なにも意味を全て把握してほしいということではない。書いた文章や使った言葉などから個性を読み取って好感を抱いていることを言葉や態度で伝えてくれる人。

❷ 私の強い創作欲求の中身をちゃんと知ってくれる人。例えば私が書いた小説を手にとって見てくれたり、自作物語の具体的な話にまでちゃんと耳を傾けてくれる人。創作への入れ込み度合いを知ってくれる人。自作の創作世界へのこの愚かしいまでの執着度(変人ぶり、変態ぶり)を認めてくれる人。また、過去に作った音楽、描いた絵をちゃんと関心を持って見てくれて、それらに感じているこの私の愛の深さを敏感に感じとってくれる人。
……小説だって何もエンタメとして楽しむ目的で読んでほしいわけではない。出来栄えの評価が欲しいわけでも勿論ない。褒めたり特別な感想を言ってほしいわけでもない。私にとって、周囲にいる実在の人物よりも強く意味を持って心に在る人物たちの存在や彼らが住む世界を単に知って、なるほどあなたの頭と心の中にはこういうものが非常に重要なものとして存在しているんだね、というふうに思ったり感じたりしてくれる人。

❸ HSS型HSPであるため、SPS因子(感覚処理感受性)が高いこと、同時にHSS因子(刺激追求性)が強いこと、この二つがあることの矛盾感と、二つの掛け合わせによる精神世界の広がり。そうでない人とどう世界が違って見えているのかを少なくとも知ろうと努力してくれる人。できれば、私が相手に合わせて開示した分だけでなく裏に潜んでいる大きなものの存在も感じとって興味を向けてくれる人。それは何? それはどんなふうなもの? と訊いてくれる人。

……だってこれら❶〜❸を知ってもらわないと、この人は「私を知ってくれている」と素直に感じられないからだ。

また、抽象化思考がとても強い人間なので自分について語る時も、私はメタからものを言うことが多い。一般的に利点や長所と言われるような事柄を語るときも、動機や目的を歪めて受けとらないでほしい。
あくまで客観的に、俯瞰的に、分析したのであって、自慢したのでも、自分を良く言いたいわけでもない。自分について語った「動機と目的」は、良し悪しでもなく優劣でもない。ただ原理や構造を解明したいという欲求が強いだけ、本質を見極めたいだけだ。……好き嫌いの感情であったり、社会的序列の確認だったり、そんな動機と目的ではないことをちゃんと感じとってくれる人。世の中のほとんどの人はいつもこの二つで受け止める。そういう見方でしか受け取らない人がどれほど多いかを嫌というほど知っている。だから、普段相手に誤解されないよう私は毎回自身を出す間口を絞らなければいけない。いつも思考全開になれない。何なら毒舌を吐きあって語り合えるほどに信頼し合える関係、とか。相手の言葉は自己顕示欲や承認欲求と絡んだものではないことを理解し合える者同士の会話というものを、人生で一瞬でもいいからしてみたい。


……わがままだろうか?
これまで何十年もの間(幼少期から優に半世紀もの間)、私はこの欲求を表に出さずに生きてきた。堪えてきた。今後残りの人生(まだまだ長いとは思うけど)、これを基準として交流相手を探してもよいだろうか? だってもうこれ以上、相手の水準に絞り自分を抑え込んで交流するのはつらい。若い頃は全然疑問にも思わなかった。意識にも上らなかった。でももう自分を隠すのは嫌だ。

まだ流れていなかった涙

これほどの本心を吐露して、ふと思う。こんな歳になってもこんな子供じみた願いを持っていることが、普通の人なら恥ずかしく思うだろう。常識人ならむしろ自分を曝け出すことに警戒すら感じるはず。大人としての恥じらいを知っているから、ここは堪え続けるのが正解だと、無理にでも自分を納得させることだろう。なのに私ときたら。

……結局私の内面には、まだまだアダルトチルドレンの痛みと傷が深く深く残っているのがもしれない。セルフケアでほぼ克服したかのように振る舞ってきた。プロフにもそう書いてきた。生きづらさを乗り越えてきた、との自負を持っていた。……でも。
全然まだまだ子供時代の『愛情不足』の空虚さがくっきり残っていたのではないか? だって、もう泣いて、泣いて、虚しさが生んだ膿はすべて涙にして外へ流し出した、と思っていた。そうやってケアしたはずなのに、今になってまた止めどなく涙があふれてくる。これほどの水分が身体の一体どこで作り出されるのか不思議なくらい、涙が出てくる。

私は寂しいんだろう、きっと。私はまだ暴力が蔓延する家庭で生きている小学生に過ぎないんだ。大人に甘えたい小さな子供なんだ。「まともな神経を持つ大人」である誰かに、「頼りにしてもよい」誰かに、寄りかかって「つらいよ、苦しいよ」と気持ちを吐き出したくてたまらないんだ。「大丈夫だよ、あなたは充分頑張っているよ」と誰かにそっと頭を撫でてほしいんだ。子供の頃、親という存在から褒めたり叱ったりしてもらいたかった。関心を向けてもらいたかった。あの頃の心がまだ悲しいほど心の底にへばりついていたんだ。きっと知らないだけで本当は私のインナーチャイルドが泣き叫んでいたんだ。それに目を瞑って、心の奥に封じ込めることで、これまで何十年の年月を乗り切っていただけなんだ……。

だからこれからの生き方として、私は上に書いた『本心』を晒して、それを近くにいる人や、近づいてきてくれる人たちに表してもいいのだろうか? 

誰だって……

私だけじゃない。誰だって心の底に、まだ知ってもらえていない傷を何かしら抱えて生きている。誰だってそう。完全な人なんていないのだから。みんな流せない涙を隠して生きている。それはよくわかっているつもりだ。だから私が辿り着いたこの『心の叫び』はただのわがままや甘えだと言われるかもしれない。でも、わがままでも、甘えでも、これが本当の自分だと、本心だと、年甲斐もなく知ってしまったから、もう知らなかった頃には戻れない。これほど意識でくっきりと認知してしまったから。

冒頭の思想家の言葉そのものだ。自分の中に在るもの、それに比べれば外の世界にある他のものなんて本当に些末なことに思える。だって私の人生を生きるのは「私」なのだから。「私」こそが根源だ。未来へ向かう前、誰しもがまず自分自身について正確に把握するべきだとは世間一般でも言われる。私は常にそれをしてきて、ここに来て更に挿し入れてはいけない部分にまで分析のメスを挿し入れてしまったのかもしれない。

今回は、結論がない。どうすればいいのか本当にわからない。ただ透徹された「本心」だけがいま目の前にぽっかり浮かんでいる。

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