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第一章 プロローグ〜1話 出会い

第一章:高 校 時 代 

プロローグ 〜想い出〜

「あのね、音が降ってくるんだ、空から」
 あれは、たぶん五歳の頃。
 夕暮れの海岸を母と二人で歩いた日、幼い僕が放った言葉に母は振り返り、優しく笑った。
「あら、なに。玲人れいとはお空から音が聴こえるの? どんな音?」
「うん、えっと……ラリラ、ラリラ、ラリラ、ル~って……」
 そのとき降ってきた複数の音を取りこぼさないよう注意して、僕は母に歌ってみせた。
「まあ、それアルペジオみたいね」
「あるぺじお?」
「うん、アルペジオ。今のはCマイナーかな。……そう、玲人にはそんなメロディーが聴こえるのね。すごいなぁ、素敵だわ。それって特別な才能ね!」
 目を輝かせてしゃがみ込み、僕に視線を合わせながら母が笑う。才能という言葉の意味はよくわからなかったが、そのとき向けられた母の優しい笑顔は、その後何十年も僕の心の支えとなった。
 空に桃色の雲がかかるまで、僕たちは手を繋ぎ波打ち際を歩いた。
「ほら、玲人。きれいね、一番星」
 母が指差した先にきらりと光る白い星。
「うん」と答えると、母は僕を抱き上げ、今度は二人同じ目線で明るくまたたく星を眺めた。
「ねえ、玲人。こんなに美しい光景は、二度とないのかもしれないわね」  
 あのとき、母はどんな意味でそう言ったのだろう。
 じっと空を眺める瞳はキラキラしていて、わけもなくただ嬉しかったのを覚えている。
 僕は母が大好きだった。

 1・出会い


 相模湾沿いの三浦半島に位置する葉山町はやままち。いつもどこかしら潮風の香りが漂っている、風光明媚な地に僕は住んでいる。鉄道駅はない。公立の小中学校はあるが高校も存在しない。そのため学校は、藤沢市にある有名海岸地の名を冠した公立高校へ、毎日バスと電車を合わせ小一時間かけて通っている。
 高校二年の始業式から数日経った日曜日。風に吹かれどこからともなく舞い落ちてくる桜の花弁が、道端や庭先に幾重にも重なり、町はおだやかな春色に染められていた。
 弟たちの衣替えと掃除を済ませ、ふとソファーに腰掛けた。まだ昼前だというのに疲れのためか眠気に襲われる。目を閉じそうになったとき、卓上の携帯から振動音がして、慌てて手に取る。発信主は小中からの友人、藍沢好之あいざわ よしゆきだ。
「玲人、今から出られる? 待ちきれなくてさ。そろそろ出かけられないかな」
「あ、そっか、だよな。家事も終わったし……ちょっと待ってくれよ、今準備するから」
 居眠りしている場合ではなかった。今日は、親友と高校のある街へ出かける約束をしていたのだ。
「お前、双子の世話で忙しいのに、悪りぃな」
「平気だよ」
 今年十一歳になる双子のりん凪々なな。僕には、血は繋がらないがかわいい五歳下の弟妹がいる。二人に出会ったのは、中学二年の冬だ。母が亡くなり、たった半年後に再婚した父の薄情さを責める暇もなかった。連れ子としてやってきた彼らは、最初ひどい人見知りで、挨拶で差し出した僕の手を取ろうともしなかった。けれど親が不在がちだったこの家庭で、僕たち三人は家族としての距離を少しずつ縮めていった。ほとんど夜食のような遅めの夕食を作ったり、宿題を手伝ったり、遊んだり。そんな他愛のない時間が積もり積もって、いつしか叔母や近所から「仲良しきょうだい」と言われるまでになっていた。
 彼らの世話は決して容易くなかった。それでも、派手な外見と行動を好きになれなかった義理の母親とは違い、小さな弟妹の存在は、母を亡くした僕が唯一素直に愛しいと思える家族だった。
 義母は一年も経たぬうち家を出ていった。以来、父も家に戻る頻度がいっそう少なくなった。かろうじて生活費を置いていくから何とか生活はできている。そんな状況だから、僕たちは両親がいないも同然だ。双子の世話は、実質上の保護者である鎌倉の叔母の助けを借りながら、もっぱら僕の日常業務となっている。
「今からでも間に合うよな」
「ああ、余裕だよ。好之が寄り道しなければだけど」
 今朝、凛と凪々に遅めの朝ご飯を食べさせたあと、叔母に二人を横浜の水族館へと連れ出してもらったから、午後は時間がある。通学とほぼ同じくらいの道程なら、彼らの帰りまでになんとかなるだろう。
 鴨居に引っかけていた薄い上着を羽織る。新年度の定期をまだ購入していないことを思い出し、仕方なくICカードと財布をズボンのポケットに入れた。今日行く店が休業でないか念のためネットで確かめる。
「しぶや楽器店……っと。おっけー、開いてる」
 一応、叔母にも行き先を伝えてから出かけることにする。
『休みなのに、わざわざ高校のそばまで出かけるの? わかった、気をつけてね』
 速攻で来た返事には、そう書いてあった。
 弟たちの世話に明け暮れるなか、僕が適度な息抜きとして見つけたのがギターの弾き語りだ。家の物置にあった古びたアコースティックギター。それを見つけて取り出し、直し方を調べて店に持っていくまでに迷いはなかった。弦を張り替え、ネックの反りを直し、コンディションを整え、準備は万端。皆が眠ったあと、自分の部屋にこもってアルペジオを静かに爪弾いてみたり、音を出せる休日の昼間には、購入した弾き語り本を見て好きなバンドの曲や洋楽を歌ってみたりもした。バンドはかなり思い入れがある邦楽ロックで、洋楽はひと昔前の六十~八十年代辺りのもの。それは幼い頃に母が聴いたり口ずさんだりしていた曲たちだ。
 春休み、親友が歌を聴きたいと言ったので家に招き、好きなバンドの曲を弾き語ってみせた。演奏が終わり、いたく感動したその目に奇妙な輝きを見たとき、予想はついた。
「俺もギターやりたい」
「やんのか、すぐ飽きるだろ」
「いいや、絶対俺も玲人みたいにかっこよく弾いてみせる」
 そういうわけで、今日。親友をなじみの楽器店へ案内することになっていた。

 その店は、普段僕たちが降車する藤沢駅の近くにあった。大きな看板が目立つ入口をくぐり店内に入ると、軽快なブルースハープの音色が耳に飛び込む。よく通るビリー・ジョエルの歌声がシャウト気味にピアノ音と絡み店内に響いている。母とよく聴いた『Piano Man』だ。これはたしか土曜日九時の歌だったな。今日は日曜日だけど。そういや、以前来たときもこの店には思い出の洋楽ばかりが流れていたっけ。
 楽器店といっても売り場の半分をギターが占領している。一番目立つ場所にずらりと並んだドレッドノートタイプ。横の列にはギブソンやマーチンなど有名メーカーのコーナーがある。その脇にはフェンダーを始めエレキギターがひしめくように並んでいる。店の隅の加湿器が、もくもくと蒸気を噴き出していた。
「すげー……」
 何にでも感激しがちな好之の瞳がきらめく。
 僕のは見た目が若干くたびれたアコギなのに、彼は今から新品ピカピカのギターを買おうとしている。いいなぁ、と素直に思う。高校生だから自由になるお金も限度があるのに、軽く小躍りできるほどの額を親から渡された好之。僕に気遣って、少し遠慮がちにそのやりとりを話してくれたが、うらやましいという気持ちは拭えなかった。
 試し弾きは照れがあったので店員にしてもらい、あれこれ散々悩んだあげく好之が選んだのは、テイラーのエレアコだった。まじか……。見ると案の定、かなりの額の値札が付いている。
「あのさ、最初からそれいくか? アンプとか欲しくなるだろ。普通のアコギから始めろよ」 「いいじゃん! これがいいんだ」
 少したしなめてみたが無駄だった。これと決めたら引かない男だ。たしかにギターは見た目が大事。初心者ならかっこよさもモチベーションに繋がるしな……。
「ま、いっか」
 会計をスムーズに済ませ、お礼を言って店を出た。新品キラキラの楽器ケースを背負ったニヤつき顔の友人に、ひとこと放ってやる。
「Fで挫折するなよ」
「は? なに、Fって」
 好之はけろりとした顔で答えた。
「コードだよ、ちょっと難しいやつ。一緒にコード表載ってる本買ったろ? そこにあるから」 「へぇ~」
「ったく、大丈夫なのかよ、そんなんで」
「まあ、なんとかなるって」
 やれやれ。先が思いやられてため息が出る。
「ま、いつでも弾き方教えるから言ってよ」
「ああ、サンキュ」
 そう言いながらも、互いに目を合わせ呑気に笑う。なんだかんだ言って、新しいギター選びは興奮のイベントだった。そんなこんなで帰路に着き、だいぶ日が暮れかけた帰り道。駅の改札口で好之が突然大きな声を出した。
「あーーっ! 帰りの電車賃が……ないっ!!」
「えっ、なんで、定期は?」
「二年からの分まだ買ってねー。だから持ってない」
「お前も? どうすんだよ」
 彼が有名メーカーのギターに手をかけたとき、少しの不安はよぎっていた。けれどまさか現実になるとは。立て替えてやろうにも、僕の財布の中には電車賃に届かない小銭が数枚。ICカードにも一人分の金額しか入っていない。
「あーあ……」
 言葉もなくため息をつき、互いに途方に暮れる。結局、ひと駅分は歩き必至だなとの結論を出し、仕方なく、重いギターを抱えた友人と徒歩で進む選択をした。次の大船駅まで辿り着けたらこの小銭を使って電車に乗れるだろう。最寄りの逗子駅からはICカードでバスに乗ればいい。二人して、えっちらおっちら普段は通らない線路沿いの道を行く。
 思ったより時間を食っていて、辺りは暗くなり始めていた。叔母と弟たちはもう帰宅しただろうか。それが気にかかる。
 細くて不気味さのある薄暗がりの歩道を三百メートルほど歩いたところで、どちらからともなく足が止まる。ひと駅分とはいえ徒歩の行程を舐めていた。この分だと到着時刻は……と予測を始めたそのとき。曲がり角から二人の黒い影がすっと現れ、僕たちに声をかけた。

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5,187字
全4章、37話構成、文字数約22万文字(分厚めの文庫本程)。既に執筆済みのため順次投稿予定。

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