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ここではないどこかへ

↑ 最近買った本で点滅社の「鬱の本」に、「怪談という窓」という青木海青子さんのエッセイがある。
鬱状態に陥ってしまったころ、ベランダに出ては下に飛び降りるイメージトレーニングに余念がなかったそうだ。その頃に、怪談の本を手にとっては読み漁っていたという。

『私はこれらの怪談を怖がりながら読んでいたわけではなく、見え隠   れする向こう側の世界の存在に、どこか安心感を覚えていたように思います。今ここが苦しくても大丈夫、全然違う異界がひろがっているのだから、そこではここと全く違う理が働いているのだから、と。』

私自身にも思い当たるところがあった。家の問題があまりにも私ひとりでは抱えきれない時、決まって家の屋上へ出て、柵を越えて、その縁に座り込んで、このままここから飛び降りてしまう想像をして何時間も何時間も過ごした。

学校で息苦しくなれば、誰もいないベランダに逃げて、しばらくベランダから見える外の世界を眺めていた。

今私が働いている職場には驚くことに窓が一つもなく、ひどく閉鎖的な空間である。最初にこの職場を見学した際に一番不安だったのは、「窓がない」というところだった。意識的に逃げ場がないように感じてしまう。

そして案の定、気を病んでしまって今休職中である。


とはいえ窓の外には一体全体なにがあるというのだろう。

空が見える、天気が分かる。季節や時間の感覚がつかめる。それだけではなく、おそらく、今自分がいる環境は、そこだけのものでしかなく、外には全く違う世界がいくつもある。と街並みや、街ゆく人々を観察することで再認識し、自分の今いる環境だけが世界じゃないのだということをメタ認知できる。ここに安心感が生まれるのだろう。

うつ状態に陥っている時、よく知られる症状としての無食欲、不眠、無気力はもちろんとても苦しいのだが、最も自らを追い詰めるのは「もうどうしようもない」や「とりかえしがつかない」といった、行き止まり感だと思う。少なくとも、私はそうだ。

自分はもう、何も価値がない。能力も力もないから、もうここから逃げることができるはずがない。挽回なんてできるはずがない。絶望である。

そういう時、窓の外を眺めて、青木海青子さんのように物語の世界へ逃げ込むことで、今ここであるところとは違う世界があることを感じさせてくれる。

幼い頃、私はひどく寝つきの悪い子供で家族みんなが寝静まってもいつまでも眠れなかった。そういう時は決まって、窓の外を眺めていた。

比較的背の高いところに住んでいたので、近くの建物の全体がよく見渡すことができた。まだあかりの付いている小さな家や、オフィスビルの窓、通りには荷物を運ぶトラックや、ちらほらと誰かが歩いていたりする。

家にも、オフィスビルにも、車にも、歩いてる人にも、私とはきっと一生関わったりしないところで、それぞれの世界でそれぞれの毎日を過ごしている。そういうことを考えていると、なんとなく心が落ち着いてきて、ゆっくり布団の中に戻って眠りにつくのだ。


新橋にたまたま見つけた好きなミュージックバーがある。

老舗のミュージックバーらしく、レコードがガンガンにかかっていて店内ではどの席でも喫煙が可能であり、それだけで愛煙家の私にとっては都合の良い場所なのだ。

このバーは雑居ビルの8階にあって、大きな窓が店内の光景の半分を占めている。窓からは通りの向こうにあるオフィスビル、ビルとビルの間にある誰も使っていない駐車場、誰も通らない路地・・・・さらには電車のレールが真下に走っていて、新幹線やJR線が通りすぎていくのをじっくりと観察することができる。

私はこの店に来るとすかさず窓際に座り、ハイボールをちびちびやりながら(ここのオリジナルのハイボールというのがアルコール度数がかなり高い)窓の外の景色に思いを馳せる。至福の時間だ。

窓の外には、私が今生きている世界とはまるで違う世界がある。すぐそこに、いくつも、いくつもある。私のいるここではない、誰かの「ここ」が。

そして同時に私も、誰かの、全く違う世界の1人なのだ。と気づく時、その世界の調和の穏やかな温度が、私の脳みそを優しく酔わせていってくれるのである。


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