一方通行は加速する
SNSが普及して個人の生活が見える形として残ってしまうようになった今、人が死ぬことの定義はあいまいになりつつある。
10月に六本木で開催された「END展」に行った。
そこでは中国で死んだ娘の特徴をAIに学習させることでまるで生きているように見えるロボットを遺族に送るといった開発が展示されていた。
----それはもう死んだ娘ではなくて別のなにかじゃないか
その映像を見たとき何とも言えない不安な気持ちになってしまった。
うろ覚えだが伊坂幸太郎のモダンタイムスの小説にこういった一説がある。
『人の生きるは関係性の中にあって、初めて認識される』
人は関係性の中で生きていくしかできないいきものだから、そこから消えてしまったらそれはもうまぎれもなく死なのだと思う。
いくら個の記憶の中の死者を再現したところでそこに死者本人の思想もなく、ただ残されたものの思い出の再生でしかない。
中国のその開発は、それは素敵で遺族にとって優しい発明なのだけど残されたもののエゴであってより悲しみを加速させてしまうのではないかとも思う
大切な人が死んだらなにを思うかーーー
「END展」の展示でもう一つ印象的なものがあった。「死」について思うことをSNSで募ったものを展示する作品があったのだがその中の一つにこう書いてあった。
「死者のことを思い出すことはあっても向こうからなにかされたことはない」
悲しいことだけど死んでしまったらおしまいなのだ。さらなる関係性は築けないし、思い出も別に増えない
SNSが普及したこの世の中では吐いて捨てるほどいなくなった人のことを思い出せる。自分の気持ちが一方通行で進んでいき、死者に対する片思いがどんどんと募っていく。不健全な片思いだ。
すべてのものがデータとして「残る化」してしまった今の世界で、すごく当たり前な"死んだら終わり"ということが薄れて感じにくくなってしまうように感じる。
今も昔も死の価値は変わらなくて、今持ってる自分の関係性を大事に大事に抱きしめて生きていかないといけない
自分は、自分の大切な人は、ちゃんと死んでほしいなと、思った