数分でできる読書の下準備【科学にまつわる話】
数分でできる読書の下準備シリーズは、昔高校生向けに作成した読解力を高めるための素材集めとして作成した文章集をもとにしたものです。現代の評論文を読むために知っておくと読みやすくなる知識を簡単にまとめたものなので、新書や選書などの硬派な文章は苦手という人は少し硬い文章に慣れる練習として読んでもらえたらと思います。知識を試す「現代文キーワード小テスト」というシリーズもあるので、よりたくさん下準備したいという方はそちらもご覧ください。
[科学にまつわる話]
科学と言われると、自然科学の分野を想定したくなるが、人文科学・社会科学・自然科学の三つが存在し、科学は文理問わない学問の総体である点は間違えてはいけない。そもそも、文系的な発想と理系的な発想の対立というのは紀元前のいわゆるギリシアの哲学者たちにも見られた傾向である。とはいえ、ギリシアの哲学者たちに関してはイソクラテスやゴルギアスなどソフィストと言われた弁論術の達人たち(文系的な発想を重視した人たち)と向きあうために、あるいは対抗するためにプラトンやアリストテレスは理系的な発想を哲学に上手に取り込もうとした。その結果、理系的発想も学問の地位を獲得した。だからといってプラトンやアリストテレスは文系的な発想を否定したわけではない。例えば、アリストテレスは万学の祖と呼ばれているように、学問の基礎を作った人物であり、文系的な発想にも精通しているからである。実際、アリストテレスの発想は長い間継承され続け、中世になりキケロが自由七科(文法、修辞学、論理学、算術、天文学、幾何学、音楽)と呼んだ学問体系にもその影響が見られる。なお、この自由七科は現代においてリベラル・アーツと呼ばれている。
このような歴史を知ると、なぜ日本では「科学=自然科学」という意識が根強いのだろうかと思えてくる。大きな原因はいくつかあるが、文系と理系の壁が厚いことが考えられる。海外では、人類学者がMRIといった医療機器を用いることがあったり、経済学者が心理学の発想や統計学の発想を取り入れたりすることはよくあることである。学問の垣根はほとんどないように思われてしまうほどである。しかし、日本ではそのような状況にない。もちろん、ゼネラリスト教育を重視するようになりつつあるが、まだ十分な状況にはないだろう。日本には日本の良さがあるという意見もあるかもしれないが、グローバル化に対応しなければならないのは事実であり、過去の栄光にすがるようでは進歩はない。過去の栄光と言えば、幕末期から西洋に追いつけ追い越せで理系学問ばかりに固執し続けたのも「科学=自然科学」の意識に拍車をかけたのであろう。「科学」という言葉からあらゆる学問のつながり意識できるようになるのが、せめてものグローバル化への対応の一つなのかもしれない。
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