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猫の日特集ー猫が出てくる古典の話、『枕草子』と『徒然草』ー

猫の日ということで、猫が出てくる古典作品をサクッと紹介する記事です。
1つめは『枕草子』です。猫を寵愛すぎるあまり起こった事件とも言える話です。現代でも猫と対になって出てくる、例の動物も居る辺り現代と変わらないところを感じさせます。

第七段(第九段)
 
 うへにさぶらふ御猫〔おほんねこ〕は、かうぶり得て、「命婦〔みやうぶ〕のおとど」とて、いとをかしければ、かしづかせたまふが、端に出でたるを、乳母〔めのと〕の馬〔むま〕の命婦、「あな、まさなや。入りたまへ」と呼ぶにきかで、日のさしあたりたるに、うち眠〔ねぶ〕りてゐたるを、おどすとて、〔命婦〕「翁丸〔おきなまろ〕、いづら。命婦のおとど食へ」といふに、まことかとて、しれものは走りかかりたれば、おびえまどひて、御簾〔みす〕の内に入りぬ。
 朝餉〔あさがれひ〕の間にうへおはしますに、御覧じていみじうおどろかせたまふ。猫は御懐に入れさせたまひて、をのこども召せば、蔵人忠隆〔くらうどただたか〕まゐりたるに、〔主上〕「この翁丸打ちてうじて、犬島にながしつかはせ。ただいま」と仰せらるれば、あつまりて狩りさわぐ。馬の命婦もさいなみて、〔主上〕「乳母、かへてむ。いとうしろめたし」と仰せらるれば、かしこまりて御前にも出でず。犬は狩り出でて、滝口などして追ひつかはしつ。(後略)
 
語注
・うへ=主上=一条天皇
・おとど=婦人の名の下につける敬称。
→猫に「命婦」という名前が付けられた。犬は男性、猫は女性として捉えられていたので、猫自体の性別は関係していない。
・翁丸=当時、宮中で飼われていた犬。
 

 天皇のおそばに飼われて侍っている御猫は、五位をいただいて、その名を「命婦のおとど」と呼んで、とてもかわいらしいので、ご寵愛になっているが、(その猫が)縁先に出ているので、おもり役の馬の命婦が、「まあ、お行儀が悪いこと。(こちらへ)お入りなさい」と呼んだが聞かないで、日が当たっているので、居眠りをしているのを脅かそうと思って、(命婦は)「翁丸はどこ。命婦のおとどを噛め」と言うと、それを「本当か」と思って、ばかものの翁丸は走り寄りとびかかったので、(命婦のおとどは)こわがってうろたえて、御簾の中に駆け込んでしまった。
 朝餉の間に天皇がいらっしゃたが、これを御覧になってたいへんびっくりなさった。その猫を御懐にお入れになって、殿上の侍臣たちをお召しになると、蔵人の忠隆が参上したので、(天皇は)「この翁丸を打ちこらして犬島へおいやれ。いますぐに」と仰せつけられたので、大勢集まって犬を追い立て騒ぐ。(天皇は)馬の命婦もお咎めになって、「おもり役を変えてしまおう。たいそう気がかりである」とおっしゃったので、(命婦は)恐縮して御前にも出ず謹慎している。犬は追い出して、滝口の武士などに命じて追放してしまわれた。
 
(田中重太郎『日本古典評釈・全注釈叢書 枕草子全注釈』一、角川書店、一九七二年を参考に、注釈と訳を作成)
 

このように、昔から猫と犬は対になって出てきており、今でもよく語られる猫派、犬派は仕方ない発送なのかもしれませんね。
猫はお守り役の言うことを聞かないで日向ぼっこのすえ寝てしまうのも、猫は自由気ままな性格という今でも通用するような様子が見られます。
猫といえば、猫またという妖怪が居ることも知られており、割と古典の世界ではメジャーでした。例えば『徒然草』でも紹介されています。ただやや笑い話になっているのが特徴です。
 
第八十九段
 
「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふ〔くらふ〕なる」と言ひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経上がりて、猫またに成りて、人とる事はあ〔ん〕なるものを」と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏〔なにあみだぶつ〕とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが聞きて、独り歩〔あり〕かん身は心すべきことにこそと思ひける比〔ころ〕しも、或所にて夜更くるまで連歌して、たゞ独り帰りけるに、小川〔こがわ〕の端〔はた〕にて、音に聞きし猫また、あやまたず足許へふと寄り来て、やがてかきつくまゝに、頸〔くび〕のほどを食はんとす。肝心〔きもこころ〕も失せて、防がんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、「助けよや、猫またよや猫またよや」と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こは如何に〔いかに〕」とて、川の中より抱き起こしたれば、連歌の賭物取りて、扇・小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ〔いりぬ〕。希有〔けう〕にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ家に入り〔いり〕にけり。
 飼ひける犬の、暗けれど、主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。
 

 「山の奥に猫またというものがいて、人を食うというそうだ」とある人が言ったところ、「山でなくても、このあたりでも、猫が年を経て、猫またになって、人の命をとることがあるということなのに」と言う人があったのを、何阿弥陀仏とかいう、連歌を生業とした法師で行願寺のそばに住んでいた者が聞いて、ひとり歩きををするような自分の身にとって気を付けなくてはならないことであると思っていた、ちょうどそのころ、ある所で夜が更けるまで連歌をしてただひとりで帰って来た時に、小川のふちで噂に聞いた猫またが、狙いはずさず、足もとへとついと寄って来て、すぐに飛びつくと同時に、首の辺りに食いつこうとする。法師は肝をつぶしてしまい、防ごうとする力もなく、足で立つこともできず、小川へ転げ込んで、「助けてくれ、猫まただ、猫まただ」と大声で叫んだので、辺りの家々から松明などを灯して走り寄って見ると、この辺りで顔を見知っている僧である。「これはどうしたことか」と言って、川の中より抱き起こしたところ、連歌の席の賞品を手にして、扇や小箱などを懐に持っていたものまでも水に浸かってしまった。やっとのことで助かったという様子で、這いずりながら家に入ってしまった。
飼っていた犬が、暗い闇の中でも、主人を知って、飛びついたのだということである。

(安良岡康作『日本古典評釈・全注釈叢書 徒然草全注釈』上巻、角川書店、1967年を参考に、訳を作成)

ここでは連歌を生業として、犬を飼っている辺りからかなり世俗的な僧であり、名前に関して何阿弥陀仏と付いていることから浄土真宗か時宗に帰依したと考えられます。なお、『全注釈』によれば時宗に帰依したとされています。猫またに勘違いされる犬という話ですが、ここでも猫と犬は抱き合わせではないもののセットで紹介されており、現代で猫と犬が対比的に扱われるのも仕方ないような感じがしてなりません。
まとまりは特にないですが、猫の日ということで猫に関する有名な古典の逸話を紹介してみました。ちなみに、猫の恋は春の季語です。まだまだ寒い時期が続きますが、猫の恋が似合う季節がどことなく恋しくなってしまいますね。

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