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大学に入る前に読みたい本 2015年版

この記事を読む前に2013年版の方を読むことをお勧めします。このシリーズは2014年は高校3年生を持たなかったため、更新されずに放置されたが、2015年は高校3年生を担当することになり、更新した時の内容です。2013年版に追加する形で更新したので、2013年版とセットで読まれることを前提としています。そのため、2013年版も合わせてご覧ください。恋人とは別れた後、良い感じの関係になった異性と喧嘩していた時に書いたので、そういう雰囲気が漂うあとがきとなっているなあとしみじみ思う内容となっています。


読書案内

 以下の記事は年月が付してあるように、2年前に作成したものである。2年前のものもなかなか良いものではあるが、2年は研究の世界では相当に時間が経っているし、筆者からすればその間にまた新たに本を読んでいるわけで、今となっては改善の余地があるように思える。一方で、2年前に初めて大学に入る前に読みたい本を作成した初々しさも感じてもらいたいという思いもある。
 和辻哲郎と言えば『風土』で良く知られているが、『古寺巡礼』というエッセーも書いている。この『古寺巡礼』は一度改訂されており、和辻が恥ずかしいと思った、古寺を見て非論理的な感想や感動を恥ずかしげもなく書いていた部分は削除されてしまっていた。しかし、2013年の年末(今から1年前くらいに)にその削除した部分を甦らせた『古寺巡礼』がちくま文庫で再編された。その再編は改訂される以前を知っている読者たちがあの情動的な部分を読みたいという意向から行なわれたと言える。そのような書いた当初の初々しさを感じたいという読者もいるわけであり、そう考えると新たに追加したいものは別に編ずるとしてここではその初々しい部分は変えることなく掲載したいと思う。

2015年3月

[新編]大学に入る前に読みたい本
2015年3月
はじめに
 新編においては研究書を扱いつつも、随筆や物語や小説など幅広く取り挙げて一層充実させることにした。この新編では、とりわけ情動という部分を強調したい。2014年には多くの出来事があった。例えば、STAP細胞問題やゴーストライター問題、兵庫県県議の汚職問題といった悪いものが目立つ一方で、富岡製糸場の世界文化遺産登録といった良いニュースや、アベノミクス、さらにはセンター試験の廃止決定など歴史的な出来事も多々見られた。そのような大きな括りとしての事件ではないが、万引きを演じて動画サイトにアップした者もいれば、Youtuberという職業が成立するという新たな時代の兆しも見えた1年であり、盛りだくさんと言えよう。そんな時代になって見られる問題の中には行きすぎた個人主義の時代と見ることもできるし、一方で他者の個人主義を維持するために自己を軽視する他人主義という傾向もみられる。個人主義が進むと、ブリオーが群島と称した時代になっていくと筆者は考える。ブリオーは現代をオルターモダンの時代と言い、ポストモダンの次の時代へと到ったと考えている。そして、そのようなオルターモダンの時代において社会は群島という特徴を持つと述べている。この特徴について詳しくは論じていないのだが、筆者の解釈では巨大な1つの島というような共通基盤が獲得できない時代となったということではないだろうか。例えば、現代の日本において全年齢が共有できるような常識はあるかと考えたとき、まず思いつかないだろう。その顕著な特徴に、紅白歌合戦があると言える。紅白歌合戦は昔であれば誰の何という曲が歌われるかはほとんどわかった状態で見る番組であったが、今は自分の世代にとって有名な歌は分かるが他の年齢にとって有名な歌は番組を見るまでは分からないだろう。この傾向はまさに個人主義が進み、人々が群島で生きるようになった証拠である。ある意味、自分にとって喜ばしく住みやすい小島の中で生きた方が人生を謳歌するという意味では良いのかもしれない。しかし、ブリオーが群島と称しているように、小島は別にそれぞれが関係を有していないわけではない。つまり、隣接する小島と交渉をしなければ群島で生きているとは言えないのである。人々は小島を基盤としつつも小島間を行き来する旅人として生きていかなければ群島で生きているとは言えない。しかし、その行き来を可能にする技術を手にすることはできないことが多いのかもしれない。そのため、ブリオーはアーティストが旅人となって、群島を生きつつ、小島間の空白地帯で活動する必要があると述べているが、筆者は一般の人々も行き来する程度には活動できないと現代を生きているとは言えないと考える。
 なぜ、そのような共通基盤が消えたかというと、ブリオーの考えに則ればポストモダンの時代ではなくオルターモダンの時代だからというのが良いのだろう。ポストモダンが、リオタールの考えやフロイトの議論を参照していくと、一言でいえば「喪の作業」とブリオーは述べる。「喪」とはフロイトによれば、何を失ったか理解した上で、亡くなったものを弔い、失ったことを悲しむことだと考えれば良いだろう。それに対し、オルターモダンの時代では喪の作業ができずメランコリーになっているとブリオーは述べる。メランコリーとは、何を失ったかを理解できておらずに、ただ悲しんでいるような状態のことであり、酷い場合には失ったものと自己が分化できていない状態と考えれば差し障りない。このようなメランコリーとなってしまった要因をピジン・クレオール説に基づいてブリオーは説明する。ピジンもクレオールも言語学の用語であるが、ピジンは母語と外国語が混合してできた言語のことであり、クレオールはそのようなピジンが定着し1つの言語となってしまった状態を言うのだが、現代はグローバル化が浸透し、ピジンやクレオールは多く生じている。それは言語だけでなく、文化でも起こっていると考えるのはおかしなことではないだろう。つまり、ポストモダンの時代の人々はグローバル化によって、ピジン・クレオール化する前の文化とピジン・クレオール化した後の文化の両方を知っているため、何を失ったかを明確に理解しており、喪の作業は可能となる。それに対し、ピジン・クレオール化した後の文化しか知らない世代にとっては、喪の作業をしているということを知り、失ったということは認識できるし、過去の作品を見れば失ったものも理解できるが、実感としては理解できないわけであり、ポストモダン世代と同じ「喪の作業」はできずにメランコリーになってしまうのはおかしなことではない。だからといって、「喪の作業」が出来ないことを憂うるのはそれこそメランコリーとしか言えない。だからこそ、ブリオーはオルターモダンという新たな時代を提示し、無理に「喪の作業」を行ってメランコリーになるくらいなら、新たな時代を新たな形で生きることを提案している。それが、群島になった現代を旅人となって生きることである。つまり、初めから共通基盤があるのではなく、共通基盤を作るのが我々の現代の生き方なのであり、そして我々は小島を行き来し、さらには小島を生成し群島の中を旅する必要がある。
 では、アーティストではない我々はどうやって小島を形成することができるのだろうか。それはアーティストが作った小島を利用することにあると思われる。人には感情がある。そしてその感情は特殊な者でない限りは喜怒哀楽が存在し、そのような人間の根源的なものは基盤にはなりえないが共通はしているはずだ。そうであるならば、そのような共通部分を基盤として用いる必要があるが、感情を抱くには対象が必要となる。そしてその対象をアーティストが作成した小島とすれば、人々は感情を介して共通基盤を持つことができると考える。
 結論に向かうが、そのような感情を以って共通基盤を持たなければいけない現代において、情動について知る本は有益なものと言えるだろう。だからこそ、今回選定したものでは情動に関するものを多く取り集め、基盤を形成する足掛かりにしてもらいたいものである。


[悲劇の先へ]
・シェイクスピア『オセロー』新潮文庫
→四大悲劇の1つである本作品では、裏切り・恋は盲目・不信といった人間の多くの問題を指摘している。問題を知ることで人間を知る足掛かりに出来るだろう。

・東野圭吾『容疑者Xの献身』
→数学者が感情を知り、人間味を帯びる本作品の切なく哀しい物語の中で、他者の存在とは何であるかを考えられるかもしれない。

・夢野久作『少女地獄』角川文庫
→嘘を嘘で塗り固める、主人公の女性は、嘘に死ぬ。彼女がなぜ嘘を重ねたのか、嘘をつくとはどういうことなのか、そんなことを考えながら読んで嘘と人間について考えてほしい。

・コンラッド『闇の奥』岩波文庫
→ポストコロニアリズムを主題とした本作品では、人間の理性と欲望について考えさせられる作品である。主人公マーロウの心理の変化も見どころと言える。

・鴨長明『方丈記』講談社学術文庫
→様々な災害や事件を目にして、書かなければならないと考えた作者が書いた力作である。3.11の思想と呼ばれる現代だが、様々な経験をした鴨長明の思想は一層心を捉えるだろう。

[視点を変えると]
・塚本学『生類をめぐる政治』講談社学術文庫
→綱吉の政治についての教科書記述が変更された画期的な研究書。綱吉の政治の捉え直しであり真摯な研究姿勢が伺える。

・ラフカディオ・ハーン『東の国から』岩波文庫
→日本好きでお馴染みのハーンが日本について書いた本。外国人が見た日本という視点はテレビでも取り上げられているが、古くからそのような本は多くある。日本に住むまで到った彼の感想を知り、日本について捉え直してほしい。

・北原保雄『問題な日本語』大修館書店
→現代使っている日本語の中には新しい用法も多くある。そのような新しい用法が生じた原因について書かれた本。自分の使っている日本語を考えるきっかけとなるだろう。

[知的好奇心を刺激する]
・結城浩『数学ガール』ソフトバンククリエイティブ
→数学について少し角度を変えて書いた本。指導要領などを意識していない分、自由な数学的な思考を巡らせる良書と言える。

・ニコラ・ブリオー『関係性の美学』(訳が出版されているはず)
→ニコラ・ブリオーは今回のはじめにの内容のベースを提供してくれた、気鋭の芸術批評家である。彼の提示する新たな社会構造を知る良書の1つである。

・小川環樹『唐詩概説』岩波文庫
→漢詩は学校教育ではほとんど学ばないが、案外奥が深い。そんな視点をわかりやすく提示してくれるのがこの本である。少しでも漢文に興味があれば一読してほしい。

[青春とは何とやら]
・米澤穂信『氷菓』角川書店
・丸戸史明『冴えない彼女(ヒロイン)の育てかた』ファンタジア文庫
・西尾維新『化物語』講談社ボックス
→高校生が主人公の作品なので、実際的には役に立たないかもしれないが、わかりやすい恋愛観を知るには良いだろう。これら全て、ライトノベルと言って良いほど読みやすい作品であり、人間の強い感情の1つを知るヒントになるであろう。

[英語を深める]
・多田正行『思考訓練の場としての英文解釈』育文社
→英語を丁寧に読む姿勢を教えてくれる本である。参考書ではあるが、英語の探究の仕方などを知るにはとても便利なものである。理系であれば大学院進学が前提となることが多いし、海外の論文を読むことも少なくない。そのため、英語力を下げるわけにはいかないので、このような本を読んでおくのも大切と言える。

・Th.R.ホフマン、影山太郎『10日間意味旅行』くろしお出版
→文法事項について言語学的に言及した本である。英語ではあるが、少し調べれば分かるような単語が多いので、比較的読みやすいものである。少しわかりづらい場合には、江川泰一郎『英文法解説』などを参考にするとわかりやすいだろう。


おわりに
 今回の本は、学術的なものを一応入れたが、どちらかといえばやはり小説が多くなったと言える。学術的なものでも小説風なものも多いのもその特徴であろう。文章の形式などは実際どうでも良いことなのである。中身を正確に伝えられることが重要なのであって、それが文学であろうが、論文であろうが、随筆であろうが、関係はない。例えば、文豪の夏目漱石はそもそも英文学の研究者であり、小説で書かなくても良かったのである。しかし、彼は日本で教育を受けた人であれば知らぬ人は存在しないほどの有名人であるが、彼が研究者であったという側面を知っている人は多くないであろう。彼は自身が見出した思想を論文にすることもできたが、それを 『こころ』や『明暗』といった小説で描いたのである。これは多くの読者を獲得するための工夫だったのではないだろうか。つまり、文体を選んだのであって、それによって彼の思想の評価は下がるどころか高まっていると言える。○○だから大したことがないという発想は余り良くないことである。その場、その状況において最も適切であることが大切であり、常に同じ状況であることなどは現代においては少ない。だからこそ、常に冷静に状況を把握して、あるべき姿勢を取った方が良い。昔の歌人の発想を援用すれば、当意即妙でなければならないのである。日本人とは昔から、そのような時代の動きを読んでいたのであろうか。そういえばこの前、ふと見たアニメでも、日本人には2人の太郎がおり、1人はまじめすぎる太郎で、もう1人はまじめすぎる太郎を利用する太郎であるが、どちらも空気を読み過ぎるほど読むと言っていた。これもなかなか的を射ていると言える。
 苦難も多くあり、自分を見失うことも多くあるかもしれない。しかしながら、星野道夫の『アラスカとの出会い』にあるように「人生はからくりで満ちている」のであって、何がどのように働くかはわからない。今は苦しくてもその先には多くの希望が満ち満ちているかもしれない。今度は、ライトノベルを取り上げるのだが、紹介した丸戸史明『冴えない彼女(ヒロイン)の育てかた』では主人公が深く落胆している場面が出てくるが、そこにヒロインがやってきて主人公を救ってくれる。それを見ると他者とは暖かい他者と言えるかもしれない。哲学者たちは自己の存在を承認してくれる他者を暖かい他者と称したが、まさに主人公にとってこのヒロインは暖かい他者で会ったのかもしれない。自由は自己を見失う可能性を含む劇薬である。そのときに、劇薬によって自己を失い、自己を滅ぼさないためにも人間関係は大切にしたいものである。
 僭越ながら、人生の先輩として言わせてもらえば、人間関係を保つ秘訣は自己の気持ちを伝えることである。好きなら好きとはっきり言わなければ相手を不安にしてしまうだけである。不安に駆られれば人は苦しむし、場合によっては逃避をしてしまうこともある。そんな状況に知人たちを追い込んだって、自己は幸福にならない。だからこそ、自己の気持ちを伝えてみることを忘れてはいけない。気持ちを伝えることが、自己も他者も救える唯一の呪文なのである。

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