スケトウダラに、ありがとう
最近、近所のスーパーでお見かけしなくなった「白身魚フライ」。
そう、お弁当のおかずやサンドイッチの具材代わりになかなか重宝する、あの惣菜だ。
私の母が「あれ便利やのに。」とため息をついた時。
白身魚フライって名前、不思議じゃないか?
ふと、そう思った。
調べてみると、白身魚フライによく使われるのは「スケトウダラ」という魚らしい。
日本の食卓を支える魚世界の実力者であるにもかかわらず、なぜ私たちは「スケトウダラフライ」とは呼ばないのだろうか。
無論、「ホキ」という魚も白身魚フライによく使われるらしく、いちいち分けて呼ぶとややこしくなることは理解できる。
しかし、「白身魚」は、あくまでも魚の属性だ。
高級魚とされるタイやヒラメも、白身魚なのだ。
なのにタイがフライになれば「タイのフライ」と呼ばれる。
「タイ」という一個人(一個魚)の名前が、ちゃんと表示されるのに。
ここまで考えていると、名前をほぼ呼ばれる機会がないスケトウダラに対して、少々申し訳なくなった。
今度から「スケトウダラフライ」と呼ぼうかとも思った。
だがさらに考えてみると、スケトウダラに対するこの申し訳なさ、実はかなり人間的な感情だと分かる。
「名前」で個人や物の存在を認識するのは、私たち人間ならではのことであるからだ。
初めて会う人には「初めまして、〇〇です。」と名乗って挨拶する
名付け親が光栄とされるのは、他者に認識されるように、その新しい命の存在を作る役だから
その人がどんな存在になるように願われたのかが気になり、名前の由来を尋ねる
つまり、名前は私たち自身の存在を表するためにある。
だからフライにスケトウダラの名前がないと、スケトウダラの存在も軽んじられている、という妙な感覚に陥るのだ。
「白身魚フライ」という名前への疑問。
そこから私たち人間が、どれほど名前を自身の存在として大切にしているのかが分かった気がする。
だが逆に考えると、名前という概念がそもそもない(とされている)魚世界。
スケトウダラにとっては、自分の名前がフライに付けられなくても、まったく気にすることではない。
スケトウダラ自身は、人間が付けた自分たちの名前すら知らないのだろう。
だから、次に白身魚フライを食べる時。
私は心の中でスケトウダラへ「ありがとう」を密かにつぶやくこととする。
自己満足だが、感謝はどの生き物にも伝わる感情だと思っているから。