だれかの幸せを願うとき、なぜ人は涙が込み上げるのだろうか。
先日、身内の結婚式に参列しました。
主役の新婦は、小さな頃から可愛がっていた姪です。
結婚式の日程はずいぶん前に連絡をもらっていたので
本当に楽しみにしていました。
式の前日、「いよいよ明日だなぁ」と思って姪っ子の小さな頃の写真を見返しました。私の手元にある唯一の写真です。
20年以上前、慣れない着物を着た成人の日の私と、私を取り囲む4人のちびっ子(1男3姉妹の姪甥)たち。今はもうすっかり大人だけれど、私にとっては昔のまんま、かわいい子たちだなぁと写真を見ながら想い出に心を馳せました。式の前日なのに、もう涙が込み上げてきます。
☆実はこの記事を書いている中(もう式は終わっているのに)でも、思い出すと涙が自然と溢れてくるのです・・
この涙はなんだろう。
嬉しいのに、寂しいような言葉にできないこの気持ちは何なのだろう。
この涙の目的を知りたい、憂いのようなこの気持ちを整理したいと思い
書き残すことにしました。
いつか、今の私と同じように、人の幸せを願うときこころにぽっかりと穴が空いたような寂しさや憂いを感じる人のために、そこから少しでも前に進めますように。きっとまた自分も、そうなる機会があるだろうから、今のこの記事が力になれば、憂も晴れます。
「嬉しいのに寂しい」「幸せを願うとき、涙が出る」
この感情の正体は何か、言葉で表すには難しい心の動きです。
だけど、誰にでも起こり得ること。複雑な感情だけれど、誰にでもおこる自然な深い感情なのだと思います。
⒈ 愛情とつながり
実は私には姪や甥がたくさんいます。最後に集計したのは数年前、そのときすでに25人くらい姪甥がいました。(実兄姉も多いので)
今回主役の姪は、特に私を可愛がってくれた姉の子です。
思えば(今で言う)毒親の元を離れたくて家を出た私は、高校生当時、周りの大人が信用できずに心を閉ざしていました。見かねた姉が、私の面倒を見てくれて私は申し訳なさと自分ではなにもできない無力感でいっぱいの中、姉に対し感謝もありつつ、しかし根底には「私は何をやっても人の迷惑になる」と言う気持ちを抱えていた、そんな私にハイハイしながら近づいて、私の頭をなでたり微笑んでくるこの姪が私にとっては天使でした。
この姪っ子のまっすぐな瞳、曇りのない心に何度も救われたのです。
とにかく姪っ子が可愛くて仕方ありませんでした。
高校生活で嫌なことがあっても、勉強が苦手で夜遅くまで専門教科の課題や実習があっても、小さな姪甥がいてくれいつも笑わせてくれたから、乗り越えられたことがたくさんあります。寝る前には、本を読んだり、追いかけ回して笑わせたり。可愛くて可愛くて、大笑いできる毎日は幸せでした。
一緒に過ごしたのは約5年間です。
だけど今思い返しても、人生の一生を彩るほどの5年間でした。
自分の中に、子供を愛でる器や愛情が確かに育った数年間でした。
それは、姪っ子たちとのつながりでもあるし、同じように大好きで大好きで尊敬している姉とのつながりでもありました。私の姪っ子たちへの愛情は、姉から私への愛情を反映していたように思います。
私自身も結婚を機に新たなステージへ移ったように、姪もまた結婚を機に新たな生活、新たな家族、新たな親類へと人生のステージを移行させます。
女性にとって「結婚」は、これまでの自分から変化していくことに直結します。名前が変わるのはその代表的な1例でしょう。
もちろん変わらないものもありますが、これまでの経験や人との関係性に変化があり人生のステージが変わるのは間違いないと思います。
私の中では、今も昔も姪は子供の頃のまま可愛くて可愛くて変わらないままなのに、人生のステージ移行に「関係性の変化」を感じて、しかし、感情はまだついていってない状況なのでしょう。私の心の受け入れと成長が追いついてないと言うか。そこに留まりたい気持ちというかね。
⒉ 喪失感
「関係性の変化」は私の中にある「姪を可愛がる「私」という存在」、つまり「自分の役割」にも変化を与えます。
これは一種の喪失感を伴うことであり、彼女が新しいステージで伴侶とともに新しい人生を歩むことで、私の中にある「大切な想い出」や「大切な瞬間」が過去のものになってしまうような「喪失」にも似た感覚になるのかもしれません。ここは冷静になって向き合うことが大切だと思います。
私の中にあり、彼女の中にもある「大切な瞬間」は一生なくなりません。
役割の変化、または役割の終息という形で「喪失」はあるかもしれないけれど思い出まではなくなりません。
むしろ新たな役割に形を変える可能性もあります。
喪失感は「感覚」だけで、実際はなにも喪失していないのです。
これは自分の心の動きがわかっていないと喪失感の沼にハマってしまうので注意です。
⒊ 未来への希望と不安
姪に対してこれからの幸せや喜びを願うのは、姪の未来に対して期待や希望を感じているからです。しかし、同時に彼女が新しい生活に適応できるか、周りの人たちと一緒に幸せを感じ、彼女自身が生きてきた今までと同じように喜びを育むことができるのかという不安も感じています。
姉家族は皆が仲良く、いつも笑いに溢れ、誰が何を言っても最終的には受け入れられる優しさのエネルギーに満ちていて、それが輪になって広がっていく感覚がありました。そんな愛情溢れる中で育ってきた姪っ子だから大丈夫と思う反面、優しい伴侶とともに新しい家族、親族の中で生きていく不安。自分もそうだったように当然、不安もある・・・
この2つの感情が、複雑に交差し、言葉よりも先に感情が込み上げ涙が出るのかもしれません。
⒋ 共感と感情の共有
自分もそうだったように・・・私自身の感情が重なって涙を引き起こす要因となっている部分もあります。
アドラー心理学的に涙は「他者への関心」や「共同体感覚」からくるものです。姪の幸せを本当に心から願い、苦楽もあるだろう未来をきっと彼女なら乗り越えられると信じているし、これはほぼ祈りに近いのかもしれません。
私の中でこの祈りは姪や姉家族との繋がりでもあるし、より深い人間関係や社会的なつながりにもなるでしょう。このような感情を大切にすることは、私にとって成長でもあるし、「家族」や「つながり」を感じるために何にも変えられない価値のあることなのです。
私の中にある「変えられない価値」。
私が生きていく中で主軸になる価値です。
こうして、気持ちの整理をしていくことでわかったことがあります。
⒌ 本当に大切なこと
生きていくと人生にはいろんなことがあります。
私は保守的だし、自分で自分の勇気を挫いているなと今でも感じる瞬間があります。
これから、姪は新しい家族とともに自分の人生を歩みます。
同じように私も既に新しい家族ができており、自分の人生を歩んでいます。
人生のステージが変わったといっても根底には姪や甥を愛し、姉を愛し、姉家族を愛し、もちろん自分の家族も大切に思う。
生きていくことは勇気をくじかれる事も、
もうなにもできないと白旗を上げそうになる事もあるけれど、
自分の心の奥にある「主軸」「何にも変えられない価値」があり
それは「愛情」なのだと感じます。自分の中に、確かに強くて深い愛情がある。表に出すのは気恥ずかしい気もするけれど、自分と向き合うには気恥ずかしさはない。自分の原動力ともいえる「愛」があるのです。
誰がなんと言おうと、私にとってそれは真実です。
誰かにくじかれても、勝手に自分でくじいても、
自分の中に「愛」がある、とわかれば何度だって立ち上がれる。
誰かの幸せを願うとき人はなぜ涙が出るのか、それはきっと
今までのステージからは離れてしまうけれど、
この心は世代を超えて、あなたの幸せやあなたにつながるすべての人の幸せを信じ、祈っていますという愛情の表れなのだと思います。
涙が出るのは切ないし、感情の整理ができていないと
この切ない感情に取り込まれてしまいそうになるけれど
なんてことない深い深い「愛情」なのでした。
この愛情は私から突然発生したものではなく、姉や姉家族から受け継いで
そして姪っ子、甥っ子たちに還元され
その先の世代にもきっと引き継がれるものだと信じています。
よかった、気持ちの整理できて。
私は「愛」で包まれている。
この記事に辿り着き、見えないご縁がつながった
みなさんにも、あなただけの「愛」がきっとあるはず。
自分を見つめる、自分に向き合う時間の
力添えになれたなら幸せです。
読んでくれてどうもありがとう。
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