ひとり親世帯…独り言
自分の中の葛藤と共にいた1日
独り言
春に引っ越してきたこの家には冷房がない。
この家の大きさにして、冷房の必要は2台から3台、
確かに、長男の部屋は蒸し風呂で限界だ。
子供の健やかさとはいえ、エアコン3台を取り付けるには ひとり親の家庭ではとってもストレッチ。
そのやりとりが私にとどめをさした。
ここでの暮らしの中で、いろんな方とやりとりしながら、自分の中で葛藤が続いて、起き上がれなくなっていた。
***
腹の中で、あかんべーしてても 表面上で合わせればいい。
頭を下げてればいい。何とかなる。
生きるため、含まれるためには、仕方ない。
〜しなければ。
〜していれば安心。
〜しないなら、そうすればいい(生意気なんだ勝手にしろ)。
大人なんだから〜。
何やってんだ。
太刀打ちできない圧倒、生き抜くために恥や罪悪感を言葉の中に散りばめる。
(自己承認に相手を踏む)
惨めなんて一瞬だから我慢。
惨めにならないように、必死にもがく?
私は、不器用かもしれないけれど そうしたくないのだ。
私はNoなのだ。
*
具合が悪くて、倒れそうになる。
思考が回らなくなる。
私の体全部で、それを拒否している No〜!
乖離する。自分を切り離さずにはいられなくなる。
強く圧倒される感覚は子供の頃からの痛み。
自分が大事にしていることを、自分が大事にできるように私が私に知らせている。
もしかして、普通に出会う子どもたちは、
今の私のような絶望を感じることが多いのではないかと思うことがある。
暮らしの中で、話を聞いてもらう事だけでなく、自分で選択できるだけの情報を差し出してもらえているのか。
そして選択したことに対する「結果」ではなく、「経験」として祝福されているのか。
*
私が反応した言葉には私が私であるスペースを私には感じられない。いい悪いではなく、そうなのだいう観察。(相手の意図がどうであれ)
その言葉の下にも、その言葉を発した人のニーズや願う気持ちがある。
と知りつつ、
もっと受け取りやすく、つながりを感じられる言葉があることも知っている。
優しさやあたたかさを感じ、安心できるつながりもある。
私は、言葉に怒りがある。
言葉は、窓であり
言葉は、壁である。(ルース・べベルマイヤー)
・
結局、取り付けの手配を自分で完了できた。
私は、必要ならばサポートを求められる。
そして、私の周りにいる仲間に相互的に関わってもらい暮らすことができると体験してきた。
そう思って 力が抜けたのか クールダウンが必要だった。
他の人がストレスなく簡単にできることが、私にはそうでないことがある。だから必要以上に養いが必要。
・
心の奥から、湧き出てくる思いやりやつながりを感じること。
大事にすること/されることの質が相互に感じられること。
依存ではなく、相互的でありたいしそう感じたい。
誰もが公平で平等である社会を願っていること。
パワーの下に存在するのではなく、パワーを共にすること。
手にしたパワーを振りかざすのではなく、生命に貢献したいこと。
含まれるために何かをするのではなく、自分の意思で選択したい。その選択をお祝いしたいし、喜びたい。
*
どれほど過酷な状況に置かれても、
(どんなに受け取れない胸が掴まれるような言葉のやりとりをしていても、)
人を思いやる気持ちを失わずにいられるのはなぜなのだろうか。
この探究をすることが、生きにくさからの解放を示すのではないかと直感する。
人間が持つ叡智そのもの。
私たちの「根源」にあるものが、スッとスムーズにやりとりできたならもっともっと心が軽くなるのにな…。
胸が掴まれるような思いをしなくてもいい暮らしを私は望んでいるし、私の大切にしている人にはそう生きてほしい。
そして、ご縁があって出会う人みんながそうであってほしい。
活動の根っこにはそれがある、私の種まきは続く…。
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