たかが現実
少し分厚い本を適当に読もうと適当なページをめくり適当な箇所を読むことがある。すると、ちょうど知りたかった内容に行き着くことがあるのだ。1ページでも狂えばこのようなことは起こり得ない。私にとって、ここ最近ではよくある出来事となってきた。
自分の知りたい内容を的とするなら、本は弓でページは矢と的の混合といったところだろう。感覚に身を任せてなんとなーく読みたいところをサッと開いて素早く視線を移すのである。
これが現実世界のどこにでも起こり得るものなのだろうか? もしそうならば風水のように物の配置や部屋の模様等が大いに影響するものと思われるし、それによる右脳の処理具合も大いに関係することだろう。
AIのフレーム問題の本質はここにあるのではないかと最近私は問うようになってきた。雑多な部屋が好きな人もいればそうでない人もいる。一度どこかでテンプレートを形成する時期があって、それが終わる頃合いになって無意識に反応しているエリアと自然とスルーする部分に分けられるものとする。もしそうならば、そのブロックのひとつひとつこそが、認知の狭間を形成し、イライラ棒のような道のりが境界のような線として出来上がることだろう。
ところで、疑問や質問をプログラミングで実装する方法を知っているだろうか? そんな自問自答をするAIがあるならとは思うだろう。簡単な一例を示そう。現代のコンピュータならばそのまま命令として「〇〇の答えを取り出してください」とすればよい。これが形変わって「〇〇とは何なのですか?」となっているだけである。もともと文法的に「〜ですか?」の"か"は反語を意味することがある。ここに期待が膨らむ余地が出来上がる。なぜなら、反語を用いるということは、どこかたかをくくって自分の都合のよい答えを用意していることになるからだ。つまりは答えの照合、照らし合わせを行うことを疑問という形に、歴史を経て収めてきたのである。疑問は一方の照らし合わせ作業と言っても過言ではない。仮にそうでなかったとしても、これからはそうなることだろう。
当たり前のように用いているこの自然言語は、本当はあらゆる文法の網をかいくぐって生き残ってきたことを忘れてはならない。その変化の過程で興味深い姿をしながら言語は機能を果たし続けてきた。
現実世界という的の射抜き方を学ぶ上でも、この種の変化が役に立つことだろう。たかが現実である。しかし、どこまで射抜き探索し続けられるかは、ちとこたえるものがある。
『たかが現実』