発想のカギ

不可能であることを不可能と知らずに進む理由はなんだろう? 私達が矛盾と気づくタイミングというのは、どのあたりにあるのだろうか?

背理法というのがある。仮定から矛盾を導き出してみるとき、「〜だとすると、"〇〇であることになる"がこれは矛盾する」となる。つまり、仮定から即座に矛盾が引き出されるのではなく、仮定を設けた時に生ずる"〇〇であることになる"という要請が鍵となるのだ。この鍵がないと矛盾には一切気づくことがない。なぜなら、矛盾に至るためにはその要請が必然として生じるが故に、逆に生じなければ矛盾にすら至ることがないからだ。客観的にみて必然だとしても、主観的にみて穴があった場合、盲点にその要請が含まれていればそのまま独断論へと陥ってしまう。

自分で考える際の落とし穴がここにある。このような当たり前の要請に気づけないと、いや、その要請が時代によって変遷するならばなおのことタチが悪い。とにかく、何かを仮定するときにおのずから出てくる要請に注意を向けることが非常に重要である。だいたいそこには当然という我が物顔があり、そこにこそ、その人の思考の鍵があるからだ。その大枠となる鍵が、普段の発想を担っているのである。

おそらく仮定を設けるときも、その仮定の先にいる要請が暗黙知となって背理法へのアクセルを踏んでくれていることだろう。仮定の前に要請がどこか意識の片隅にでもいない限り、その仮定へと至ることはない。もしないならば、背理法でなく疑問として意識に表出され、「〜ならば"どうなるだろう?"」という表現に変わることだろう。

どうなるかが観測されればそういうことになる。どうにかなるとなれば、観測はなされず、諦めることとなる。不可能とも知らずに、あるいは可能であるにもかかわらず、その道の細さによって不可能性に曇ってしまう。確かに"どう"は広すぎるが、"そういう"道もどこか小さ過ぎる。とはいえ、注視して虫を追うことくらいはできるのだから、その小さな道も、あるときふと出てくるものだと期待しようではないか。


『発想のカギ』