「コンテンツ化」と「その人らしさ」の両立
今日は最近悩んでいることをそのまま書きます。
読まれない文章は「存在しない」のと同じ
……と、竹村さんのこちらのnoteに書いてあります。けっこうなキラーフレーズですよね。確かに目を引くし、つい読んでしまいます。
このnoteでおっしゃっているのは「どんなに中身がよくても、読まれなければ意味がない。だから、たとえ表面的なテクニックであっても、よりたくさんの人に読まれるような見せ方にしたほうがいい」ということです。
本当にそうだよなあと思います。そもそも読まれることを目的としていない「日記」などなら、自分らしさを前面に押し出していいでしょう。でも、たくさんの人に読まれないといけない「書籍」や「発信のためのnote」などは、そのための見せ方を考える必要があります。自己満足で終わっては意味がないですもんね。
だからこそ、読まれるための文章術やノウハウを学んでいるんです。
型にはめすぎると「その人らしさ」がこぼれ落ちてしまう
一方で「こういうふうにしたほうが読まれる」というのにとらわれすぎると、「自分らしさ」「その人らしさ」がこぼれ落ちてしまう可能性もあると思います。
コンテンツは、わかりやすいほうがいい。わかりやすくするために、「いったん言い切る」とか「漢字をひらがなにする」とか、いろんな工夫をするわけです。
でも、その「わかりやすいフォーマット」にすべてを当てはめてしまうと、その人の個性や「味」のようなものは失われてしまう気がしますよね。人間、そんなに単純な感情で動いているわけでも、わかりやすい人生を歩んでいるわけでもありませんから。
わかりやすく、多くの人に受け入れられること。
一方で、その人ならではのこだわりや、深みや、個性を残すこと。
どうすれば、この二つのバランスを保ちながら両立させられるのだろう? というのが、もっぱらの悩みです。
(「新人がなに高尚なことで悩んでんだ!とにかく数こなせ!」と、心の中の鬼上司が叫んでいますが……。)
著者に寄り添いすぎると、客観視ができなくなる
わたしはつい「その人らしさ」を前面に押し出したい! と思ってしまいがちです。それはたぶん、著者のことをめちゃくちゃ好きになってしまうからだと思います。
前職で書籍マーケティングをしていたときも、自分のクライアントのことが好きすぎて「この人のこういう魅力をみんなにも伝えたい……!」「この人らしい本にしたい……!」と思いすぎていたんですよね。
でも、そうすると「その人のことを全く知らない読者」が、パッと見て興味を持ってくれて、おもしろいと思えるようなコンテンツにするのが難しくなってくるんです。
著者に寄り添いすぎて、「この人はこういうことが伝えたいんだろうなあ……!」と共感しすぎてしまうと、主観から抜け出せなくなってしまう。「それ、本当に読まれるの?」という客観視ができなくなってしまうんですよね。
もともとの「才能」を最大化して「コンテンツ」にするには?
やっぱり一番強いコンテンツは「もともとある著者の才能を最大限引き出して、ブーストをかけて、大衆向けに見せ方を変えたもの」だと思います。
作りものではなく、もともとの才能を形にするからこそ、著者の「熱量」がコンテンツにもちゃんとのる。ベストセラーの書籍や映画などは、どれもそうですよね。『鬼滅の刃』とか『君の名は。』とか。
でも、じゃあ、どうすればそれができるの!? というのが難しいんですよね……。
こんな難しいこと、1人で悩んでいても絶対答えは出ないので、WORDSの竹村さんや柿内さんに聞いてみます。ヒントが見つかったら、またnoteで共有しますね!