嘘とまことを突き抜けて ~ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.3—ホワイトチャペルの亡霊—

闇と光。敵と味方。悪と義。嘘とまこと。犯罪卿と探偵――。めくるめく二項対立がぶつかり合い、混ざり合う。混沌渦巻く霧の街が、荘厳な旋律の中に浮かび上がる。

「ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.3 —ホワイトチャペルの亡霊—」。通称「モリミュ」の第3弾が、8月5日より東京ステラボールにて開幕した。

圧倒的な歌唱力の高さを誇り、初演から好評を博してきたモリミュの第3弾は、未解決事件として名高い「切り裂きジャック事件」に端を発するエピソードが取り上げられている。


去年、モリミュの第2弾公演が京都劇場で無事大千秋楽を迎えた日、「来年の今頃なら、きっと少しは状況も良くなっている」と夢想した人は多いだろう。
いや、「状況はもっと悪くなっているに違いない」と悲観していた人など、どれほどもいなかったのではないか、と言った方が正しい。
5日に開幕し、6日、7日と公演を重ねた本作は、8日と9日には公演関係者の体調不良により急な中止を余儀なくされた。それにより観劇の予定が取り消され、涙を呑んだ人も多いだろう。かくいう私もその一人だ。
しかし、大事を取って公演中止の判断をなさった運営様。苦渋のご決断だったとは思いますが、安全を最優先してくださってありがとうございます。おそらく能う限りの早さでお知らせを随時発信してくださったのだと思います。
11日からは無事に公演も再開された。13日からは出演を見合わせていた役者さんも復帰なさる。
残りの公演日程全てが、どうぞ無事に終わりますように。


さて、去年書いたモリミュOp.2の感想をお読みいただいた方ならご存知かと思うが、私はモリミュに並々ならぬ肩入れをしている。

期待値MAXが100とするなら、Op.3には500の期待値を持って臨みたい、とまで言っていた。
何を隠そう、先日出版された新刊の刊行月を相談するとき、「8月はモリミュを観に行くので、それまでに作業が全部終わっているのがいいです」と担当さんに正直に申告して7月刊行にしてもらったほどに、モリミュが楽しみだったのである。

モリミュの魅力とは何だろう。
歌の上手さは万人の認めるところ。クオリティの高い2.5次元ミュージカルは世に数あれど、その中でも群を抜いて歌唱力が高いキャストを集めており、「ミュージカルなのだから、歌で魅了できてこそ」という矜持を感じる布陣である。
ピアノとヴァイオリンの生演奏という、シンプルだが世界観に合った演出も良い。たった二つの楽器だけで構成されているとは思えぬほどに、重厚な音色が劇場に響き渡る。
構成力の高さにも目を瞠るものがある。19世紀末大英帝国――シャーロック・ホームズの時代の闇と光を鮮やかに描き出した原作は、巻を重ねるごとに話が面白く、しかし複雑になっていく。その文字数も多い複雑なストーリーを、演劇作品にどう変換するか。2時間半に収めるために、どのエピソードを削るか、また足すか。そういった脚本の構成の妙が冴えわたる。
そして何より、キャストの「すごいことをしよう」という意気込みが客席に伝わってくる熱演が、観る者の心を震わせる。
「これ以上面白いものを作れようはずなんてない」と思うのに、続編が来るたびに常に完成度の最高値を更新してくる。シャーロック役の平野良さんが「進化の反対は、退化ではなく停滞」と仰っているのを聞いたことがあるが、モリミュはその意味で、まさに「進化」し続ける作品だ。決して停滞を許さず、過去と同じことをやらない。同じところに留まらない。常に新しいものを見せてくれる。
そういうところがモリミュの魅力だと私は思う。

去年に引き続きのコロナの状況下で、稽古やプライベートでも制限が多くあっただろう。
しかし、その「枷」を撥ね退けて、パワーアップした超絶難しい数々の楽曲を携えて、モリミュOp.3は我々の前にやって来た。


この先、モリミュOp.3の【ネタバレ】となります。
初演、Op.2の話も入ります。
原作『憂国のモリアーティ』に関しても、今回のモリミュでカバーされた範囲を超えて、発売済みの【原作15巻】の話題まで含みますので、未読の方はご注意ください。

また、これは私がお仕事ではなく趣味で書いているものなので、書いてあるのは勝手な一個人の感想でしかありません。解釈は人それぞれであるので、「それは違う」と思う部分があっても、江中はこう感じたものとして受け取っていただけたら幸いです。
(なお、8/7分を観劇、配信にて視聴した時点での感想です。その後演出が変わったところなどもありますが、8/7時点での話と思ってくださいませ)


今回のOp.3で扱われるのは、原作コミックで言うと7~8巻。
ボンドがモリアーティ陣営に加入する「モリアーティ家の使用人たち」の一部分。
切り裂きジャック事件を扱う「ホワイトチャペルの亡霊」。
ジャック事件の後日譚であり冤罪事件を追う「スコットランドヤード狂騒曲」。
そしてウィリアムとシャーロックがダラム大学にて邂逅する「一人の学生」だ。

私はOp.2のときに、「フレッドに銀行強盗の相談を持ち掛ける男が出てきたし、8カウントのシーンは舞台映えすると思うのでぜひOp.3でやってほしい」と感想を述べていたのだが、結論として、Op.3で銀行強盗のシーンは削られた。
――とても正直なことを言うならば、せしるさんのボンドが点滅するライトの中を自在に駆け回り強盗達を倒していくカッコいい姿が見られず、残念に思わなかったと言うと嘘になる。
しかし、今回の話の複雑さと、原作にない要素で厚みを増した脚本のことを考えたとき、確かに削れるのはあのシーンだけなのだと納得もいく。
それにあの話の要である「ボンドの型破りな発想でピンチを切り抜け、モランがボンドを仲間として認める」展開は、ジャック事件の最中のガトリング砲への対処のシーンで代えてくれた。
削られてしまったエピソードに対するフォローがしっかりしているので、残念に思いはしたものの、不満には思わなかった。
西森さんのこういう丁寧さは、観客として、そして原作のファンとして、信頼できるところであるなと毎度思う。

西森さんの、原作を大胆に再構成しつつも細かいポイントは決して外さない丁寧な脚本と、冒頭から一気に観客を19世紀末ロンドンに連れて行く演出の上手さは、今回も健在だった。

冒頭、民衆のシーンから始まるのは、もはやモリミュの定番だ。
民衆があってこその『憂国のモリアーティ』の物語である、という強いメッセージの込められたこのシーンは、いつも暗く、階級社会の底辺であえぐ人々の苦しみと嘆きが歌われる。
この冒頭の民衆の歌の中に、今回は「エデンの東」という単語があった。
これは聖書の逸話そのものと考えて良いだろう。人類最初の殺人の罪を犯したカインは、楽園エデンの東の地へ追放された。
ロンドン東部、イーストエンドと呼ばれる地区。そんなイーストエンドの中でも、特に悪所として名高いホワイトチャペルの貧民街。階級制度から弾きだされて「普通」に生きられなかった者達が流浪の末に辿り着く、まさに「この世の果て」である。栄華を誇る大英帝国の華やかなる都ロンドンを楽園エデンにたとえるならば、最下層の住人が集うホワイトチャペルをエデンの東とたとえるのは、いかにも上手くぴったりくる。
そんなホワイトチャペルの街に、「娼婦殺し」というセンセーショナルな事件が起こるところから物語は始まった。
腹を切り裂かれ内臓を持ち去られるという惨い殺し方をされた被害者を見て、民衆は苦しみの中に恐怖と怒りを芽生えさせていく。

謎の切り裂き魔、ジャック・ザ・リッパーの出現から話を始めるのは、主題を分かりやすく絞るという意味で正解だったように思う。銀行強盗の話がなくなるのは惜しいが、「つかみ」は印象的な方がいいし、限られた上演時間の中、本題に入るのは早い方がいい。
しかし、だからといってボンドの登場シーンの見せ場を疎かにしないのは、さすがモリミュという気配り。ボンドがモランを壁ドンするシーン(しかも原作通りに足癖悪く)は「よくぞやってくださった!」と思った。
せしるさんは宝塚の元男役というだけあって、仕草が一分の隙もなくかっこいい。
大ぶりの荒々しい仕草を見せて「男っぽく」見せかけるのではなく、宝塚で身に付けられた洗練された型のようなものに則りつつ、ちょっとした立ち方、歩き方、歩幅、姿勢のひとつひとつに人を魅了するダンディーさを滲ませる。
そしてウィリアムを中心にジャック・ザ・リッパーの話をしているところで、本物のジャック――ジャック・レンフィールドが登場し、物語は幕開けから一気に加速する。

メインテーマの歌は毎回印象的で、ウィリアム達とシャーロック達がそれぞれの陣営に分かれて激しく歌声をぶつけ合う中に、各キャラの見せ場、特に新登場のキャラが信念や立ち位置を歌い上げるシーンが用意されている。
今回はジャック・レンフィールド、パターソン、そしてアータートンとミルヴァートンがこれまでメインテーマになかった新しいメロディで各々の立場をあらわした。
その中でも個人的に特に印象的だったのがパターソンだ。
後から改めて語るのだが、私は今回開幕前から、パターソンの輝馬さんに大注目していた。彼が演じるパターソンなら、絶対かっこいいに違いない。そう思って期待していたところ、登場から見事に撃ち抜かれた。
伸びのある滑らかで安定した歌声の中に、清廉な正義感と、同時にどこか妖艶にすら感じるほどの色気を忍ばせる。そんなパターソンの声に一瞬にして魅了された。輝馬さんがパターソンとしてモリミュに来てくださってありがたい。

メインテーマが終わると、場面は再びモリアーティ家に。
師匠(「ジャック」と書くと紛らわしいので、以下ジャック・レンフィールドを「師匠」で通す)と三兄弟の出会いが歌で紡がれたのは嬉しかった。
……と、ここで気になったことがある。
師匠と三兄弟の歌の中に、「青い炎」という言葉が出てくるのだ。またパターソンのソロの中にも「青い火」というフレーズがあった。
ご存知の通り、モリアーティ陣営の色は赤、シャーロック陣営の色は青というイメージカラーで表されている。
ならばモリアーティ兄弟の瞳の奥に燃え盛るという炎の色、またいずれ世界を包み込むという炎の色が「青」で表されるのはやや意外と言える。彼らのイメージは「赤」のはずだからだ。
この点について、私はまだ明確な答えを自分の中で出せていない。
一緒に観劇した友人と話しているうちに、「赤い炎は屋敷を焼いて三人が兄弟になったときの炎の色だから、差別化するために青にしたのではないか」という説が出てなるほどと思ったが、それだけではない気がする。
炎の色の表現で使われる色というと、(炎色反応で特別な色になる場合を除けば)赤、青、もしくはせいぜいオレンジ、黄、白くらいが主だろう。
その中で、敢えて「青」の炎になった意味とは。
――おそらく、「氷の目」「凍てつく炎」というフレーズもあったので、冷たいイメージを出すための「青」であろうというのがひとつ。あらゆるものを呑み込み燃やし尽くす赤い炎ではない、氷のような冷たい炎という意味で。「凍てつく」というイメージは、その後に出てくるウィリアムの「心の部屋」の孤独な寂しさ、寒さをも連想させるし、またいずれ死を以て計画を成就させるという冷徹なまでの決意の冷たさと苛烈さを表しているかもしれない。
そして、考えたことがもうひとつ。
もしかすると「青い炎」とは、夜明けの空を照らし出す光の色のイメージではないか、ということだ。
これまで深い闇の中を進んできた物語だが、Op.3の最後では計画がいよいよ大きく動き出す兆しを見せる。
大英帝国の目覚め。夜明け。それを自分達がもたらすのだという決意。それが夜明け前の空の色と重なって「青い炎」と表現された可能性はないだろうか?
私が思い付きもしなかった別の意味があるかもしれない以上、ここまで勝手に妄想を広げて良いものかどうか分からないが、彼らの炎の色が他ならぬ「青」なのには何か特別な意味があると思いたい。そしてもし続編で、またこのフレーズが出てきたときは、答え合わせを兼ねてもう一度考えられたらと思う。

ホワイトチャペルに向かったウィリアム達は、自警団とヤードが対立し一触即発なのを目の当たりにする。そして場面はヤードに移り、アータートンが部下達を前に「娼婦が何人殺されようと構わん。ヤードの威信にかけてジャックを捕らえろ」と演説する。
そんなアータートンに従って部下達が動き回る中、レストレードは正面切って反発し、アータートンの不興を買う。一方、パターソンは形ばかりは承知したふりで頭を下げ、面従腹背の姿勢を見せていた。
アータートンが「ヤードの威信にかけて!」と歌うとき、横に並ぶ部下達がコーラスをしていても、パターソンとレストレードだけは口を開かない。
私が座っていたのは上手の端に近かったので、残念ながらあの場面のレストレードを確認できなかったのだが、その分パターソンがよく見えた。
権力の腐敗を憎み、決して染まるまい、与するまいというように口を引き結んでまっすぐに立つパターソンの姿は、汚泥より出でて清く凛と咲く蓮の花をすら思わせて、個人的にとりわけ印象に残るシーンとなった。

アータートンのやり方に疑問を持ち、ヤードの力だけでの解決を不可能と判断したレストレードは、シャーロックの元に向かう。
このシーンは今作屈指の「遊び」が随所に詰め込まれていて面白かった。
まず鎌苅さんの「倒れ芸」。初演、Op.2でも披露された持ちネタであるらしい後ろにバタンと倒れるアクションを、今回は2度もやっており、先ほどまで真面目で張りつめていたストーリーに一気に笑いをもたらして弛緩させてくれた。
そしておそらく今回一番の問題作(?)であるレストレードの事件プレゼン曲。
そもそも原作のときから、シャーロックの興味を引くために用意したのがパペット人形劇だというのはツッコミどころ満載で、「人形劇にすればこどものようにシャーロックが『面白ぇ!』と乗ってくると思ったのだろうか?」というシリーズ中屈指のギャグシーンなのだが、それを前奏も含めて5分弱もあるこんなナンバーに仕立ててくるとは思わなかった。曲調におどろおどろしさはありながらも、なぜか軽快でこども向けの音楽劇のような雰囲気すらあり、そのミスマッチが却って不気味さを醸し出す。
元々このシーンは原作でもレストレードが「事件を茶化しているのでは決してない!」と言い訳するほどの不謹慎ギャグすれすれのシーンだが、その「不謹慎さ」から変に逃げず、許されるギリギリのラインを攻めてきた感じがとても良かった。
またシャーロックの「微妙~」と答えるシーンのポーズが原作そのものであることに私はいたく感動した。平野さんはとても自由かつ繊細にシャーロックの演技を組み立てているが、こういう押さえるべきところをきっちり押さえるのを忘れないから好きだ。

ウィリアムとシャーロック、それぞれに切り裂きジャック事件の犯人像を捉えつつ、ウィリアム達が一歩リードして偽のジャック達を罠に嵌めるべく動き出す。
このシーンでシャーロックが歌う「謎」の歌はOp.3の中でも特に好きになった曲だ。
原作では、シャーロックがレストレードの依頼を受けなかった理由を「犯人逮捕のためだけではなく、犠牲者をこれ以上出さないためなら動いてもいい(ゆえに捜査自体はする)」とした。
だがモリミュではそこに、さらに「この謎には犯罪卿の気配がないからいまいち食指が動かない」という要素を「謎」の歌によって付け加えていたように思う。ジャックの事件の資料を見つめながら「これも謎の原石 取るに足らぬ鈍い光の瞬き この向こうにお前がいたなら 犯罪卿……」とシャーロックは歌っているのだ。
シャーロックは焦がれるほどに求めている。この世でただ一人、自分を満たす極上の謎を作り出す男を。他の謎が目に入らなくなるほどに。甘い毒に酔わされているように。
モリミュはきっと、少なくとも「最後の事件」が終わるまでは続編をやってくれると思っているのだが、シャーロックの犯罪卿に対する尋常ではないほどの入れ込み具合をここで見せるのは、今後の展開に繋げるための良い布石であるように思った。

そしてウィリアム達が仕掛けた罠――師匠が扮するジャックという共通の敵を出現させることで、自警団とヤードの対立を団結に変える試みが始まる。
このシーン、もしコロナの状況下でなければ、客席を使った鬼ごっこが繰り広げられていたかもしれないと思うと、元の環境が一日も早く戻ることを願わずにはいられない。
だがあの狭い舞台の上で、衝立を使うことで複雑に入り組んだ路地を作り出し、空間に奥行きを持たせた演出になっていたのは非常に面白かった。
偽物のジャック達のアジトにウィリアムとルイスが乗り込むシーンも、まさに原作通りのイメージ。激しい殺陣が繰り広げられ、息を呑んだ。
個人的に驚いたのが、ウィリアムが仕込み杖を抜く速度。いつ抜いたのか一瞬分からなくなるほどに鋭く素早い動作には思わず見惚れてしまった。
このシーンの最後、不穏な動きを見せていた謎の人物の正体と顔を、観客はこの時点に至りようやく知る。ミルヴァートンが名乗るまで、明るいスポットを浴びさせず顔をはっきり見せなかった演出は、原作の黒いシルエットで描かれていた様を上手く舞台表現に変換したなと思ったところだ。
そして、偽のジャック達が始末された現場を見たシャーロックは、事件の全容と真実を見抜き、自警団とヤードの衝突を避けるために「都合のいい嘘」を選択し、その向こうに犯罪卿の姿を見る。
ジャック事件の始まりのときに、あれほど待ち焦がれていた相手の姿を事件の向こうに透かし見ても、シャーロックは浮かぬ顔をする。これまでのシャーロックなら目をぎらつかせて食いついていた犯罪卿の存在が見えたのに、だ。
真実が見えてしまうがゆえに、シャーロックは犯罪卿が義賊であることまでもが分かってしまった。それが彼を苦しめる。犯罪卿を断罪するのは、果たして世のため人のためになるのか。しかし犯罪者を見逃すのは探偵としての信条に反するし、犯罪卿を追わぬ選択をすることは謎を解くことが生きがいのシャーロックにとって、魂の死である。
この葛藤を丁寧に見せた上で、「一人の学生」に持っていく構成は、原作通りではあるのだが、非常に上手いなと感じた。シャーロックの葛藤と、ウィリアムからシャーロックに感じている特別な親しみを、彼らが邂逅する前に、モリミュは実に丁寧に見せてくれるのだ。

ジャック事件が解決したところで、モリアーティ家でのシーンでは、モリミュで初めてモリアーティ陣営に日替わりパートが割り振られた。
モランの日頃の不品行をさらっとバラすフレッドに、乗っかって話題を広げるウィリアム。フォローしているようでできていないルイスに、不機嫌になるモラン。モリアーティ陣営が常にまとう緊張感をぎりぎり崩さぬままに、微笑ましいやり取りを見せてくれた。
だがそれは嵐の前の静けさに似て、束の間見せた平和な日常の一コマに過ぎない。
その直後にモリミュのオリジナルとして、アルバートがウィリアムの内心――ウィリアムの抱える孤独と、死の運命に一人向かおうとしていることを、どこかで勘付いているような、そんなシーンが挟まるのだ。
今回のモリミュは、原作の7~8巻を扱っていながら、随所に原作の13巻以降「最後の事件」を連想させるシーンが散りばめられている。
アルバートが「モリアーティプランの結末=死の運命」について語り、ウィリアムと最後まで共にあろうと語るシーンは特に、「ゴルゴタの丘」などの言葉も出てきて、原作14巻収録53話のアルバートとモランのやり取りを思い出させた。
このシーンのアルバートのソロは、この時点で既に薄々察しはじめていたアルバートの、迷いはないのに苦しみだけがある切ない心情が歌い上げられた。「お前は一人じゃない」と語りかけるアルバートは、ウィリアムが孤独であることを知っていながら、共にあろうと言うことしかできない。一方ウィリアムはアルバートの寄り添ってくれる意思を知りつつも、仲間を思うがゆえに孤独を貫き続ける。
このアルバートのソロは、原作のこの辺りでは出番の少なかったアルバートの印象的な出番を確保すると共に、Op.4もしくはOp.5に至る道筋をはっきりと見せたように思う。
そして続くウィリアムのソロ。
仲間を大切に思うがゆえに心の深いところに立ち入ることを許さず、孤独を抱えているウィリアムが、気付けば心の中に住まわせていたもの。それはシャーロックの存在だった。
シャーロックが犯罪卿――ウィリアムの存在に心焦がすように、ウィリアムもまたシャーロックの存在に抗えぬほどの引力を感じている。許されぬことと思いながら、彼に心揺らされる自分を止められない。
ウィリアムにとってのシャーロックは、救いであり、光であり、同時に誘惑であり、罪なのだ(この話は後ほど詳しく語る)。

切り裂きジャック事件のひとまずの終結と共に、舞台にはミルヴァートンが登場し、不穏な空気を醸し出す。
藤田玲さんのミルヴァートンの歌声は、高く鋭く澄み渡る鈴木ウィリアムの声や、クセのある波を自在に操る平野シャーロックの声とまた異質で、あれほど朗々と美しくありながらざらついた不穏さをはらみ、地を這うような不気味さで激しく人を威圧する。
これまでウィリアムとシャーロック二人の対決という構図だったところにミルヴァートンが乱入し、形勢は三つ巴になった。
私はこの三人を見ながら、「この三人はそれぞれが神であり同時に悪魔でもあるのだな」と感じた。
これは先ほど後述すると言った、「ウィリアムにとってのシャーロックは、救いであり罪」という話でもある。
まずウィリアムが神であることに異論はないだろう。原作でも、そしてOp.3でも触れられたように、ウィリアムはイエス・キリストのイメージと重ねて語られる。一方、ウィリアムは自らを「悪魔」と呼ぶ。悪に対抗できるのは、同じ悪しかいないと嘯いて。
そしてミルヴァートン。メディア王の彼は情報を駆使して、人をいとも容易く操ってみせる。その万能ぶりは神のそれであり、同時に人を破滅に追い込み楽しむのは彼の中の悪魔的部分だ。
最後にシャーロック。彼は民衆から支持される「名探偵」であり「英雄」であり、民衆が救いを求める対象という意味で、本人の意思と関係なく「神」のように崇められる存在になってしまった。
そして「悪魔」の部分だが、これは原作を14巻まで読んだ方ならお分かりだと思う。死の犠牲を以て世界に変革をもたらそうと決意したウィリアムに、シャーロックは「生きろ」と誘惑する。世界の救済とウィリアム一人の命を天秤にかけ、両方を取ろうとする。14巻を待たずとも、Op.3での「神も許されるだろう」というフレーズは、シャーロックがウィリアムにとっての悪魔であることを示していた。殉教者をたぶらかさんとする者は、悪魔でしかありえないのである。
この「神であり悪魔である」異才の三人が、駆け引きと頭脳戦を繰り広げ、いよいよ次作では盛大に火花を散らすことになるだろう。
Op.4が原作のどこまでをカバーするのかは不明だが、西森さんがあの三人の関わりをどう描いていくのか、今からとても楽しみだ。

ホワイトチャペルの町医者が切り裂きジャックの容疑をかけられ冤罪で逮捕されたところで1幕が終わる。
気付けばここまでで1万字弱書いてしまっており、読んでいる方もそろそろ飽きてきたと思うので、2幕はもっとサクサク感想を進める。どうかもう少しお付き合い願いたい。


「スコットランドヤード狂騒曲」のパートでは、原作にないオリジナル要素がいくつかあった。
モリミュは「隙間を埋めて点と点を繋げる」のがとても上手いのだが、今回もその手腕に唸らされた。
まずひとつは、冤罪で逮捕された町医者に同情するジョン。
憂モリにおけるジョンは、コナン・ドイルと同一人物であり、小説家であるのだが、切り裂きジャック事件の真相を書くわけにはいかず、またスコットランドヤード狂騒曲においては「酷すぎて筆を執る気も起きない」ため、今回ジョンに小説家としての出番はない。
だが小説家としての出番がない分、医者としてのジョンに光が当てられ、貧民街の人達のために真面目に働いてきた医者が冤罪で逮捕されたことに同じ医者として憤り、何としても解決せねばと奮い立つ姿が見られた。
ドワイト医師周りのドラマを作ったのは、最終的にシャーロックに「この選択が合っていたのかは分からないが、少なくとも無実の人を救えた」という目に見える救済を与えたという意味でも、入って良かったと思う要素だ。
次に、アータートンを操るミルヴァートン。
今回の脚本で一番感心したのが「ミルヴァートンとアータートンの繋がりを作ったこと」だった。
本来、原作で、このエピソードにおけるミルヴァートンの出番は少ない。今後の不安要素として名前を披露するのみに留まっている。
しかし、モリミュのミルヴァートンは、アータートンがこれまで行ってきた捏造の数々を、あくまで「提案」という形で実行させ、無数の人を不幸に陥れてきたキャラクターとなっており、その出番を増やしている。
三好先生がツイッターで「漫画もこうすれば良かった」と仰っていたのは、おそらくこの部分のことだろう。

月刊で連載しながら話を作っていく原作に比べて、メディアミックスはその後の展開を知った上で話を再構成できるという強みがある。アータートンとミルヴァートンの繋がりは、その強みが見事に活かされた改変だった。
そして、アータートン告発。
この告発の顛末は原作にないシーンだったが、今回の敵役ゲストであるアータートンの見せ場を増やすという意味で、また今回自分がどう動くべきか悩みに悩んでいたシャーロックが気持ちよく「悪」を追い詰めるというカタルシスを見せるという意味で、さらに事件がしっかり解決したことを観客に見せて安心させる意味で、良い追加要素であった。

2幕で面白いと思ったのは、1幕ではホワイトチャペルの路地を作り出していた衝立が、機密資料室の本棚として使われていたことだ。
特に、レストレードが本棚から帳簿を抜き出して放り投げるシーン。衝立に張られた布にスリットが入れてあって、衝立の裏にいる方がスリット越しに帳簿を渡して「本棚から帳簿を抜き出した」ように見せかけているのだが、実に自然で、最初見たときは何もないところから帳簿が湧いて出たように見えて、まるで手品のようだった。

また、2幕では「おっ」と思うようなネタの仕込みがあった。
モリミュは毎回、ウィリアムにシェイクスピアの引用をさせたり、ダブリン男爵とリチャード三世を重ね合わせたり、ロリンソン男爵をドン・ジョヴァンニになぞらえるのをはじめとする、数々の教養ネタを織り込んできた。
しかし今回は「スコットランドヤード狂騒曲」が特にストーリーとして難解で、外的要素を取り入れる余地があまりなかったのだと思うが、そんな中でも西森さんは「分かった人が嬉しくなる」要素を入れるのを忘れない。
それが「キナ・リレ」だ。
憂モリでのボンドの「スコッチを。ステアせずにシェイクして」は、本家007シリーズが元ネタだとご存知の方も多いだろう。ジェームズ・ボンドが「ウォッカマティーニを。ステアせずにシェイクして」とオーダーする有名な定番の台詞がボンドシリーズにはあるのだ。
さて、そこで今回のモリミュで、ボンドが注文したものを思い出してみる。
「彼と同じもの(=スコッチ)に、キナ・リレを追加して。それと、ステアせずにシェイクして」とボンドは言った。
初見のとき、「知らない単語が出てきた!?」とびっくりしたのだが、終演後、「キナ・リレ」を検索してすぐにその意図が分かった。
これは007シリーズ初の長編である『007 カジノ・ロワイヤル』に出てきて有名になったカクテルのレシピにヒントを得ていたのだ。
『カジノ・ロワイヤル』でのボンドは「ジンとウォッカ、それにキナ・リレと氷を入れてシェイク」した、「ヴェスパー」という名のカクテルをオーダーする。ヴェスパーとは、その作品におけるボンドガールの名前から取られたそうだ。
モリミュのボンドはスコッチにキナ・リレを追加してシェイクしたカクテルを「パターソン」と名付けた。「カクテルに名前を付ける」という意味で、『カジノ・ロワイヤル』のレシピへのオマージュを入れたのは、西森さんの007シリーズへのリスペクトであろう。
また、勝手な深読みが許されるなら、『カジノ・ロワイヤル』がボンドシリーズ初の映像化作品であったことから、キナ・リレの一言を挟んで同作を連想させることで、「憂モリを最初にメディアミックスしたモリミュ」としての矜持が覗くようにすら思えた。
それはさすがにこじつけが過ぎるとしても、アイリーンが死に、ボンドとして生まれ変わって、007として本格的に活躍し始めるエピソードで、本家007シリーズのネタを憂モリ原作からさらに一捻りして入れてきたのは、ボンドへのはなむけであったように思う。

また教養ネタとは違うかもしれないが、原作にない要素として観劇後ずっと気になっているのが、1幕に話は戻ってしまうが、「まことの音色」という言葉の意味だ。
「まこと」という言葉を単純に捉えるなら、その直前に出てくる「まことのマエストロ」という歌詞を受けての、「まことのマエストロが奏でるまことの音色」ということになりそうだ。弱き者を踏みつけにして民衆を煽動せんとする偽のジャック達とは違い、タクトの一振りで状況を一変させてしまうウィリアムは、「まことのマエストロ」と呼べるだろう。
また「まこと」という言葉は、メインテーマの中にある「地獄に響く 闇と光の旋律 目覚めよ まことを見よ」という歌詞を思い出させる。このメインテーマの「まこと」の持つ意味について、これまで深く考えてきたことはなく、ただ「虚飾にまみれた世界の中で命の価値が平等であるという絶対の真実」を表すのだろうか、と何となく思ってきた。
しかし今回、「まことの音色」というフレーズが出てきたことで、改めて考えつつ、色々調べていたところ、「まことの光」という言葉に行き当たった。聖書で「まことの光」とは、「世に来てすべての人を照らす」というイエス・キリストのことを示す。
ウィリアムはイエス・キリストと重ねて語られる。ならば、そんなウィリアムの言う「まことの音色」とは、彼によってもたらされる、虐げられた者達への救済――「福音」の意味を含んではいないだろうか?
福音とは、イエス・キリストの説く神の国と救済の教えを意味する。
ウィリアムはかつて、アルバートに向かって「悪魔が消え去れば人の心は澄み渡り呪いは解ける。この国はきっと美しい」と説いた。それはイエス・キリストとしてのウィリアムが語った「神の国」ではなかったか。そしてウィリアムが理想として謳う権力の等分化とは、弱き者達への救済の教えと取ることはできないだろうか。
牽強付会かもしれないが、「まこと」の「音色」という言葉選びにそんなことを考えた。
原作にない要素を、世界観を壊さぬまま自然と融け込ませることにおいて、西森さんの手腕は実に鮮やかだ。深読みできるような、「考えさせる」要素を入れてくれる。
次作では何を見せてくださるか、今から楽しみにしていたい。

(8/14 追記)
もうひとつ、西森さんのとんでもない仕掛けに気付いてしまった。
ドワイト医師冤罪逮捕の場面に関することだ。
ジョンはシャーロックがさりげなく示したランタンを見て、ドワイトが夜盲症であることを知り、「夜盲症の男が闇に潜んで娼婦を殺すのは不可能だ」と推理してドワイトの無実を確信する。
このシーン、オリジナルにしてはやけに何かの確信に満ちている気配をずっと感じていたのだが、色々検索しても分からず、放置したままだった。
だが先ほど、急にひらめきを得て、「ホームズ 冤罪 晴らす」と検索してみて、見事にビンゴした。
あのモリミュオリジナルとなったジョンの推理は、ホームズ・シリーズ作者であるコナン・ドイル本人が実際に貢献したという冤罪解決事件の一つ、1903年に起きた「エダルジ事件」に発想を得ているのではないか。
これは「何ヶ月にもわたり、家畜の牛馬が闇夜に乗じて腹を裂かれ殺害される事件が起こり、弁護士エダルジが容疑者として逮捕された」という事件だ。
ドイルは現場を調べ、エダルジと面会し、エダルジが強度の近視かつ乱視であると知り、そんな彼が闇夜の野原で家畜の位置を特定して殺害するのは不可能だと考え、そこから筆跡鑑定を始めとしたいくつもの捜査をやり直させ、エダルジの無実を(一部については覆せなかったものの)証明したという。
「腹を裂かれて殺される事件」「視力の問題で犯罪は不可能と推理する」というキーワードが、偶然一致することなどあり得るだろうか? しかも他ならぬ、コナン・ドイル本人の逸話である。――そう。『憂国のモリアーティ』においては、「コナン・ドイル」=「ジョン」なのだ。だからあの場面でドワイトの夜盲症を知り無実を推理する役目は、シャーロックではなくジョンでなくてはならなかった。
西森さんの知識の幅広さと、小ネタをおそろしく巧妙に紛れ込ませる手腕に、今回も完全にしてやられてしまった。毎回驚かされっぱなしだが、今回ばかりは気付いたときに、あまりに見事すぎる仕込みに、背筋がゾッと凍るほどの恐ろしささえ覚えた。
エダルジ事件については、私もまだWikipediaといくつかのサイトしか見られていないので、詳しく正確なことを知りたい方はぜひ各自でお調べ願いたいと思う。
(追記ここまで)


ストーリーの話に戻るが、アータートン告発に適した第三者としてシャーロックの名前が挙がるシーン。
ここにもちょっとした改変があり、原作ではパターソンが「例の諮問探偵がピッタリじゃないか?」と直截的に提案しているが、モリミュでは「世間で正義と思われている第三者」と水を向けるに留まっており、レストレードが自力でホームズを候補として思いついた(と思わせるよう仕向けている)。
原作でもパターソンはそれとなく会話を誘導して、レストレードにホームズを呼びに行かせようと仕向けているのだが、モリミュでは台詞の間などの関係もあるのだろう、「パターソンが上手く誘導している」感じがより分かりやすくなっているように感じられたのが面白かった。


そして迎える「一人の学生」編は、爽やかな救いと希望のあるエピソードだ。
人の欲望や利己的な思惑がドロドロと渦巻く混沌の物語の果てに迎えた爽やかな風。Op.3におけるエピローグである。

冒頭でジョンが語ったように、「大英帝国の醜聞」の一件以来、シャーロックは犯罪卿に対しての態度がどこか変わった。――犯罪卿を断罪すべきだという思いと、それは果たして正しいのかという思いが拮抗するようになったのだ。
犯罪卿の作り出す「謎」に魅せられた男は、その謎を解き明かす喜びを追い求めているうちに、謎の向こうにあるもの――犯罪卿が弱き者を救う義賊だという事実を見つけてしまい、思い悩む。
これは観客も同様に悩むところであると言えるだろう。ウィリアム達の信念を知っているからその理想を否定はしたくない。しかし犯罪は犯罪。人殺しという手段は正当化されえない。
その葛藤に、シャーロックが答えを見つけることで、我々観客もまた一つ先に進める。そんなエピソードでもあると思う。

テストが終わった学生達のはしゃぐ様子が瑞々しいリアルに溢れており、とても微笑ましかったのが見ていて楽しかった。
そんな平和な光景の中に、一つの小さな謎が生まれ、ウィリアムはその解決をシャーロックに依頼する。
そして見つかった、不可能なはずの満点を取った印刷工の息子ビル・ハンティング。彼に向かってウィリアムは「私と君は同じ地平に立っている」と呼び掛ける。この問いを解き明かす喜びを知っているのは世界に自分達二人だけだとウィリアムは言う。
「同じ地平」が後々重要なキーワードになってくるのは、原作読者ならご存知の通りだ。「この喜びを知るのは世界に自分達二人だけ」という語りかけは、同時にシャーロックにも向いている。同じ時代に生まれ、出会い、互いに比肩しうる頭脳を持ち、謎を解く楽しみを知っている、そんなシャーロックだからこそ、ウィリアムの心の部屋に風を吹き込み、彼の頬を撫ぜて振り向かせることができる。

ときに、このエピソードで私が個人的に重視している台詞がある。それは、犯罪卿の謎を暴いて捕まえることができるなら、この命を捨てても構わないと言うシャーロックに対してのウィリアムの一言「その覚悟があれば、きっと適いますよ」だ。
この台詞、読んだときに、何か違和感を覚えないだろうか?
――この状況での「きっとかないますよ」には「適う」も勿論使えるのだが、canの意味での「叶う」の文字を使うのがより一般的だろう。しかしウィリアムは敢えて「適う」を使う。
それはウィリアムのこの台詞が、「Did I pass your test?(俺はお前のお眼鏡に“適”ったか?)」と言うシャーロックの台詞に対する回答だからだ、と私は思っている。
シャーロックの言う「test」とは、切り裂きジャック事件及び冤罪事件でのシャーロックの選択――自警団とヤードの衝突を回避するために都合のいい嘘を吐き、冤罪を晴らすためにアータートンを告発するという道が、果たして犯罪卿の思惑を正しく汲めていたか、という問いであり、同時に緋色の事件のときから引きずってきて未だ答えの出ていなかった、「俺は犯罪卿の選ぶ探偵役として相応しいのか?」という問いでもあろう。
私はこの「適いますよ」の仕掛けに気付くまでずっと、ウィリアムははっきりと回答していないが「探偵役として適格」の判断を下しているものと思っていた。
しかしウィリアムは「きっと適いますよ」と答える。
「きっと」。確実にそうなるであろうと確信がありながらも、未だ実現はしていないということ。
そう、シャーロックは実はまだ「お眼鏡に適って」はいないのである。シャーロックがウィリアムの「お眼鏡に適う」瞬間は、おそらく「犯人は二人」の結末――ウィリアムが「確実に僕のことも殺してくれるはず」と確信を得る瞬間を待たねばならない。
そこで今回のモリミュを思い出してみる。
実はこの「きっと適いますよ」という台詞を、モリミュのウィリアムは言っていない。
やはりここでもシャーロックは「お眼鏡に適っ」たかどうかの明確な答えをウィリアムからもらえぬままでいる。
しかし、ウィリアムは思っている。最後の事件の結末に幕を下ろしてくれる人は、シャーロックをおいて他にいないと。
答えをもらえていないシャーロックも分かっている。自分だけが彼の謎を解き明かせるたった一人の探偵だと。

シャーロックはウィリアムが犯罪卿だと、まだ断定ではないにせよ確信に似た気持ちで思っており、彼の口から「罪を犯した者にはそれ相応の責任を取らせるべき」という言葉を聞いて、自分がどうするべきか心が決まる。
もしここで「義賊を捕まえれば弱者が救われない。捕まえるべきではない」とウィリアムが言っていれば、シャーロックは犯罪卿への興味を失っていたかもしれない。義侠心が暴走したつまらない犯罪者だったかと、失望していたかもしれない。
だがウィリアムは「犯罪卿を捕らえるべきだ」と答えた。そう、「Catch me」である。
義賊であることを否定しない。だが捕まえられることを望む。
だからこそ、シャーロックは犯罪卿への興味をいよいよ募らせる。彼がなぜ義賊をやっているのか。彼が犯罪の先に求める未来は、どんな姿をしているのか。
しかし、シャーロックがそこに辿り着くまでには、まだいくつかのピースを必要とする。同じ地平に辿り着くにはまだ遠い。

――今回のOp.3の話全体を通してひとつのキーワードになるのは「嘘とまこと」だったと思う。
ジャック・ザ・リッパーを名乗る偽者のジャック。偽のジャックを一網打尽にするための、師匠が扮する「共通の敵」としてのジャック。
ミルヴァートンが作り上げた、「切り裂きジャック」と言う虚像。迷宮入りとして処理された、切り裂きジャック事件の真犯人。
アータートンが重ねてきた嘘と不正。レストレードが暴いた真実。
そしてホームズが迫られる選択。都合の良い嘘か、不都合な真実か。
嘘とまことが入り混じり、混沌を極めていく中で、常に真実が見えている人間がただ二人。そう、ウィリアムとシャーロックだ。
真実を知る二人は相まみえ、嘘とまことを突き抜けて、ひとつの真実――才能があるならばそれを生かさねばならない、これからの世界は変わっていくべきだという結論に辿り着く。
彼らが最後に得た「真実」が、これからの物語をどう動かしていくのか。そしてモリミュでその様子は、どう描かれていくのだろう。

モリミュはメインテーマの歌詞で「闇より暗き闇」でこの世界を照らす、と歌う。これまで物語は常に深い闇の中にあった。
しかしOp.3の最後で「今 運命の夜が明ける」と歌われ、闇の先――訪れる夜明けがうっすらと見えてきた。
夜明け――「最後の事件」の結末に向かって、物語は静かに動き始める。

今回の物語のつくりからして、Op.4があることを見据えての構成であることは明白だろう。
きっとまたOp.4でも、素晴らしいスタッフとキャストで、「真実」に向かう物語を奏でてくれるに違いないと確信している。
私はその日を楽しみに待っていたい。きっとかなう日が来ることを。


さて、真面目な感想はここまでにして、上では書き切ることのできなかった各キャラや役者さんへの感想を、あともう少しだけ書いていきたい。1万5千字読んできたのに推しの話がない感想など、読んでくださった方がつまらないからだ。
とはいえ大いに贔屓が混じるし、時々やけに文学的な褒め方をする。私は評論家ではなく小説家なので、表現が装飾がかって大げさになるのはどうか許されたい。
分量の多寡があるのが申し訳ないが、多く喋っている人についてはよほど今回の贔屓なのだなと思ってどうかお目こぼしの上、ご笑覧いただけたら幸いである。


まず、プリンシパルのキャスト全員の続投は嬉しかった。
どんな舞台でも初代のキャストは特別で、キャスト変更があるとファンはどうしても複雑な心境になるものだが、モリミュは各人の声域に合った歌が作曲されており、キャスト変更があるとまるで雰囲気が別物になってしまうというおそれがあるので余計にだ。今後もキャストが変わらないまま続いていってほしい。
ミス・ハドソンの七木奏音さん、マイクロフト・ホームズの根本正勝さんが今回出演なさらないのは寂しかったが、原作の出番のウェイトを考えるとやむなし、というところがある。
だがOp.4では、原作のどこの範囲までをやるかは分からないが、ぜひお二人の出番があれば嬉しいなと思う次第である。


◆ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ
初演のときから、観客が耳を疑うほどの高音を惜しげもなく披露してきた鈴木ウィリアムだが、Op.3でもまたその美声は観客の心と鼓膜を震わせた。
私は前回、鈴木さんの歌声を「青天に響く鐘の音のような明朗たる清々しさ」と評したが、今回は少し印象が違ったように思う。
闇を切り裂いて鳴り響くホワイトチャペルの鐘の音を思わせる、遠くまで響き渡る異色の歌声であることは変わらない。ただ、その中にひとかけらの「柔らかさ」が混ざったのだ。
それは鈴木さんが原作の先――「最後の事件」の結末まで読んでいて、ウィリアムという人物に対してどこかしら向き合い方が変わってどう演じるべきかの方向性が定まったせいもあるかもしれないし、またシャーロックへの思いを歌う「心の部屋」の歌の影響も大いにあるだろう。
あの場面でソファに寝そべりながらあれほど安定して高音を出せる技量には感嘆の一言であった。およそ余人に真似できないことをやってのけてみせる姿は、作中のウィリアムの姿とも重なる。モリミュは彼の歌声の特殊性があってこそ成立していると言えるだろう。
今後の物語の中で、鈴木ウィリアムの歌声がウィリアムの立場や心情の変化に伴ってどう変化していくのか、またどう変わらないでいるのか、楽しみにしていたい。


◆シャーロック・ホームズ
Op.2でようやく平野さんのすごさに気付いた私は、すっかり彼の演技のファンで、感情が動くに至るまでの過程を大切にし、動きのひとつひとつに細かい整合性を求める姿勢をとても信頼し尊敬している。
今回も、ジャック事件の真実を見抜きながらも「都合のいい嘘」を吐かねばならなかったシーンでの、苛立ちを押し殺したような演技がとても好きだ。真実が見えてしまうがゆえのもどかしさが観ているこちらにまでひしひしと伝わってきた。
『アニメージュ』2021年1月号掲載の西森さんのインタビューで明かされたように、平野シャーロックの独特の喋り口はシェイクスピア演劇の技法であるというが、今回も立て板に水のごとき彼の台詞運びは聞いていて実に気持ち良かった。あれほど早口で情報量が多いのに、スッと耳に入ってきて内容を理解できる。
平野さんのシャーロックはクセが強く、およそ「原作そのまま」の姿ではない。しかし「これは間違いなくシャーロックだ」と観客に認めさせてしまう力を持っている。
初演、Op.2、Op.3と公演を重ねるごとに、どんどん「平野シャーロック」の像がより細かく作り込まれていっているのを感じてきた。
Op.4でもきっと、私達に無二のシャーロックを見せてくれると信じている。


◆アルバート・ジェームズ・モリアーティ
今回は出番が控えめだったが、印象的なソロナンバーを歌い、『憂国のモリアーティ』という物語におけるアルバートの役割を改めて示してくれたように思う。この時点でアルバートが既にウィリアムの孤独に気付いている、という展開にしたのは今後のストーリーをより盛り上げてくれることだろう。
久保田さんが歌いながら「魂」のところで、指先で胸をトントンと叩く仕草はOp.2でもやっていたが、引き続きやってくれて嬉しかった。あの仕草は久保田アルバートだからこそ似合う仕草であるように思う。
静かな声の芯に強靭な決意があるのをうかがわせる歌声も変わらず魅力的だった。
久保田さんはアルバートのような「いかにも格好いい」超然としたところのある役が似合う方だと思っているのだが、今回も細かな仕草や立ち方に至るまで、完璧な英国紳士でありアルバートだった。


◆ルイス・ジェームズ・モリアーティ
声の良さに磨きがかかっている、というのがまず最初に抱いた感想だ。
元々声の良い方だったが、普通の台詞の声から、歌声まで、山本ルイスが口を開いた瞬間ハッと視線が彼に集まる。
Op.3でのルイスは、ウィリアムと共に戦えることに喜びを覚えているが、アルバートと違い、不穏な結末からはまだどこか目を背けているように見えた。
そんなルイスが自分達の未来――ウィリアムの迎えるべき運命に、どう向き合い、どんな結論を出すのか。彼の選択を見守りたい、と思わせてくれるルイスである。
今回、日替わりパートでモランのことをフォローする(ができていない)絶妙な面白さを見せてくれたのが嬉しかった。真面目ボケとでも言おうか、ああいうおかしみのある空気をさりげなく作り出せるのは山本さんの得意技であるように思う。円盤の日替わり映像集を観るのが今から楽しみでならない。


◆セバスチャン・モラン
スラッとした長身に、鋭い眼光。仲間から頼られつつも、なぜかいじられてしまうツッコミ役。そんなモランを井澤さんは初演から好演してきたが、Op.3に至って、キャラクターが完璧に仕上がった感がある。
無論、過去作においても彼のモランは本物でしかなかったが、解釈が深まったとでも言おうか。甘く伸びやかな歌声の中に、ウィリアムに寄せる忠誠と決意をより強く感じさせるようになったのだ。
井澤さんの歌声というのは、力強い怒りや喜び、慈しみを歌わせても上手いが、切なげな情感のこもった歌を歌うときこそが真骨頂だと新規ファンながらに思っており、「俺がその怒りの拳になろう」と歌うパートがその意味で特に好きだった。人の胸の奥深くにある、他者に共感して震える部分を捉えるのが上手い人だと思う。
台詞のないところでも細かなリアクションの工夫が面白く、常に目が離せない役者さんの一人で、躊躇いのない堂々とした演技をされる方だなという印象を持っている。
少し気が早いが、もしモリミュで「最後の事件」の後、「空き家の冒険」をやってくれるなら。それを井澤さんのモランで観られるのなら。今からそんなことを思わずにはいられない。


◆フレッド・ポーロック
私は赤澤くんが好きなので、ちょっとばかり贔屓して多めに書く。
今回のOp.3では、Op.2の「バスカヴィル家の狩り」にあったような、彼がメインになる歌こそなかったが、控えめでありながらも周囲を支え、欲しいところにピタッとやってきて場面の雰囲気を作り上げていく名演ぶりであった。
「力なき者が蹂躙されているのを見過ごすわけにはいかない」というウィリアムの台詞に、一人静かに、だが毅然と「はい」と返事をする姿や、「この犯人達は、力のない弱い人達を狙って命を奪っています。そんなのは許せない」と必死に訴える懸命さは、彼の心優しさと正義感、弱き者を守りたいという秘めた志が表れていて、目立った活躍が少ない中でも、彼の存在感を印象付けてくれたように思う。
また、ジャックの扮装をして師匠に代わって逃げるシーンも、やってくれるであろうと信じていたが、予想以上の出来映えだった。
ジャックのコートを羽織ったフレッドが追手を引き付けながら走り抜けていく。その表情は決意と覚悟に満ちており、壮烈で美しい。
また、モリミュで毎回変装のノルマをこなしてくれるのを地味に嬉しく思っている。
赤澤くんは、「歌う舞台の経験はいくつかあるが、ミュージカルに出るのはモリミュが初めて」という経歴であったそうだが、そのぶん伸びしろも大きく、作を重ねるごとに成長が目に見えて著しい。彼の柔らかな歌声は、フレッドのキャラクターにいかにもぴったりくる。
ところで、「スコットランドヤード狂騒曲」終わりの、ウィリアムの傍を仲間が一人ずつ歌いながら通り抜けていくシーンでは、アルバート、ルイス、モランが一度も立ち止まらないのに、フレッドだけが一度立ち止まるのがやけに気になった。歌の尺と舞台の幅の関係の問題と言えばそれまでかもしれないが、歩みを止めずに済むルートを辿ればいいだけなのに、フレッドだけは一瞬立ち止まる。
それがもしや、ウィリアムの誰も寄せ付ない「心の部屋」を、フレッドだけはいずれ一瞬覗くことを許されることを示唆した表現かと、勘繰ってしまったのは深読みのしすぎだろうか?
原作13巻収録49話でウィリアムは、抱えてきた胸の内の苦悩をフレッドにそっと打ち明ける。扉の前に立って寄り添うことすらさせてこなかった「心の部屋」に、立ち入らせこそしないものの、中にある苦しみを覗くことを許した。その展開を踏まえて、フレッドはあの場面で一瞬「心の部屋」の前で立ち止まったのではなかろうかと、つい考えてしまった。
あのシーンでフレッドが立ち止まることに、どんな演出的意図が込められていたのか、いずれどこかで明かされれば嬉しい。(※8/21追記 7日以来の観劇をしたところ、21日はモランやアルバートも一瞬立ち止まりかける動きをしていました。フレッドの立ち止まる位置も変更になっています。なぜ変更されたのか、演出的意図は分かりませんが、感想は最初に観たときのこのままにしておきます。)
赤澤くんの演技の話に戻ると、首に巻いたマフラーを引き上げて、口元を隠して笑う姿は、感情を表に出すことの少ない、シャイなところのある青年というキャラの印象を違えなくてとても好ましかった。またnuman編集部による井澤さんとの対談でフレッドについて「年相応の危うさがある」と述べていたのも興味深く、今後どんなフレッド像を作り上げていってくれるのか楽しみだ。

ときに、師匠のジャックが姿を現したときの女性の悲鳴、女性アンサンブルさんがやっているにしては低めかもしれない? と思ったのだが、もしや原作のおまけマンガのように、フレッドが出したのだろうかと少し思った。おまけマンガの話は置いておくとしても、状況的に、悲鳴を出させるためだけに女性を雇えば後から足が付くかもしれないし、ボンドがやろうにも別の場所で待機しているから、あの場面で悲鳴を偽装できそうな要員はフレッドだけなのだ。
器用で努力家な赤澤くんなら、あの悲鳴を演じていてもおかしくない。円盤のメイキングか座談会であの悲鳴の主の真相が明かされてほしいと思う。
(8/22追記 大千秋楽を迎え、赤澤くんから真相が明かされましたね。フレッドとして赤澤くんが演じていたそうです。原作の細かいところまで大切にしてくれる姿勢に、ますます好きになりました。)

◆ジェームズ・ボンド
宝塚男役経験だけでなく、娘役に転向した異色の経歴を持ち、歌が上手く、しかも華やかなお顔立ちとなると、モリミュのアイリーンとボンドを演じられるのは、当代せしるさんをおいて他にいない、という運命のキャスティングだった。
Op.2ではアイリーンとして物語の中心にあった彼女は今回、ウィリアムの計画を実行するスパイ――まさに「ジェームズ・ボンド」としての大活躍を見せた。
立ち居振る舞いの全て、そして発声や歌声、あらゆる面において元・男役の面目躍如といった風格である。特に「暴け 悪魔の企みを!」と歌い上げるシーンの、「ああ、宝塚男役の歌い方だ!」という特有の感触には心がグッと摑まれた。
眺めているだけで惚れ惚れとする格好良さは、まさに宝塚男役のそれ。漫画から抜け出てきたような、完璧なボンドだ。
今回は女性キャストがアンサンブルも3人のみ。プリンシパルではせしるさんが唯一の女性キャストであった。しかし、複数人でのコーラスになったとき、男声の中に唯一混ざる女声のはずなのに、声がまったく浮いていない。周りに自然に溶け込んでいる。アイリーンのときはあれほどに澄んだ高音を響かせていたのに、だ。
これは作曲のただすけさんの工夫によるところもあるだろうが、やはりせしるさんの「男として歌う」技量があってこそだと思う。
師匠登場のシーンでの、Op.2の「生まれ変わる時」と同じメロディでありながら一転変わって明るい調子で「アイリーン・アドラーは死にました」と歌うボンドの姿は、その言葉通りにアイリーンの片鱗を欠片も感じさせず、見事に別人のものであった。モリミュは基本的に、毎度おそろしい難易度の新曲をおそろしい数用意してくるが、こういった過去作のメロディを取り入れた曲を登場させてファンを喜ばせてくれるのを忘れない。
また、せしるさんといえばOp.2ではアイリーンのドレスの早着替えシーンがあったが、今回もまたボンドのスーツからヤードの制服への早着替えがあった。初見のとき「絶対これはまた早着替えが来る」と思い、ボンドが引っ込んでから登場するまでの秒数を頭の隅でカウントしていたが、およそ1分(配信で確認すると53秒ほどだった)。いつも観客が驚くことをやってくださる頼もしさは、型破りな発想で仲間を導く、まさにボンドそのものである。
配信でご覧になった方もいると思うが、カーテンコールで捌けるとき、客席にファンサをしてくれたのが嬉しかった。あれでボンドに落ちない女子はいない。


◆ザック・パターソン
普通の台詞を喋るときはどこかに気怠さを含ませた柔らかい感触の声なのに、歌では朗々と艶を含み、痺れるほど甘やかな声になる。なんというすごい人をモリミュはキャスティングしてくれたものか。
上でも少し触れたように、今回の個人的大注目の的だったのはパターソンの輝馬さんだ。
モリミュ出演が発表されるまで、私は輝馬さんのことを、お名前だけ存じ上げていて演じている姿をお恥ずかしながら存じ上げていなかった。
しかしモリミュが選んだキャストなら、まあ間違いなかろう、劇場で観るのが楽しみだ、という程度の心持ちでいたのだが。
そんなある日、モリミュ公式ツイッターがチケット販売情報ツイートで載せたこの写真が私を変えた。

一目見ただけで抜群のプロポーション。オタクはよく「推しの足が二メートルある」などと言ってスタイルの良さを褒めるが、まさにそれ。輝馬さんの足は二メートル、いや五メートルある。
バラを見つめる伏し目がちな瞳とそれを縁取る黒く長いまつげ。
アンニュイさを湛えつつも、意志の強さと腐敗を嫌う潔癖さが窺える表情。
私はたった一枚のこの写真に、一目で心奪われてしまった。そもそも私はこういう彫りが深いお顔の方が大好きなのだ。
その一目惚れに似た気持ちを抱いたままに、過去の出演作を調べねばと思い立ったとき、マーベラス公式がアップしている「ミュージカル『薄桜鬼 真改』相馬主計 篇 OP【雪風華】」に出会った。

薄ミュを履修したことがないのだが、伝説の風間千景が鈴木勝吾さんだというのと、土方役が久保田秀敏さん(過去には井澤さんも演じたことがある)という程度の知識だけがある。
この動画を見て、歌がおそろしく上手い人が出てきたと思ったら久保田秀敏さんだったし、再び超絶歌の上手い人が来たと思ったらそれこそが輝馬さんだった。
この薄ミュOPを見て以来、この方にパターソンを演じられたら絶対好きになってしまう、と恐れを抱いていたのだが、予感は見事に的中し、Op.3を観て数日経った今、パターソンのことばかり考えている。
上でも述べたように、アータートンとCIDの人員が並んで歌っているとき、怒りとも憂いともつかぬ表情で口を引き結んで立つパターソンには、ハッとするほど目を惹きつけられたし、歌いながらおもむろかつ優雅に動く長い腕は指先に至るまで美しかった。
緻密にキャラを研究し、作り込んでくださっているだろうと思うのに、その努力の跡をまるで表に見せず、とても自然な状態でそこにいる。「漫画から抜け出てきたよう」というより、「パターソンが目の前に存在している」のを見せてくれるのだ。
パターソンの一番の見せ場は、何といってもソロ曲であろう。喉を嗄らすほどの叫びを吐き出したかと思えば、歌の最後にファルセットで驚くべき高音を響かせる。
西洋におけるコウモリのイメージは、獣の仲間にも鳥の仲間にもなりきれない、どっちつかずの卑怯者だ。自らをコウモリにたとえるパターソンは、犯罪を取り締まるヤードの一員でありながら犯罪卿に手を貸して、二つの仲間のあいだを行き来する。あのファルセットはパターソンの、その二面性を表すようであったと思う。
そして、脚本が原作の先の展開をどこまで把握していたのかは分からないが、権力の腐敗に絶望を覚えた過去を歌うシーンは、この8月に出版されたばかりの15巻収録の60話のエピソードを彷彿とさせた。
パターソンは正義のヒーローになりたくて警官になった男だ。しかし自分の信じる正義をヤードにいては為せないから、ウィリアムの仲間になった。
だがパターソンと同期のレストレードは、ヤードの枠組みの中で折れることなく懸命に抗い、アータートン更迭、不正の元凶の排除を成し遂げる。
そんなレストレードをパターソンは今回「身内の膿を出し切ったヒーロー」と呼んだ。「ヒーロー」はパターソンにとって目指すべき憧れの姿であり、最上級の褒め言葉だ。
きっとレストレードはパターソンにとって、志を共にするウィリアム達とはまた違う場所にいる、かけがえのない仲間である。それを感じさせてくれたのは、レストレードと酒を酌み交わすパターソンが見せた屈託のない笑顔だ。
原作で、パターソンが顔をほころばせて笑う場面は記憶の限りなかったように思う。しかし、モリミュのパターソンは笑う。嬉しそうに、おかしそうに。
彼の中の滅多に出さない人間くささが感じられ、またウィリアムに忠誠を誓いつつも、レストレードを真にヒーローとして大切に思っているのだというのが伝わってくる良い演技だった。
原作のイメージをまるで一つも違えずに忠実な再現をしてくださる役者さんも大好きだが、「原作のキャラそのもの」ではないこともやるのにキャラのイメージを壊さない演技をする役者さんが私は大好きだ。輝馬さんは後者であるように、初見ながらお見受けした。かっちりしていながら適度にラフな、本当に良いパターソンだったと思う。
また、役者さんの話になるが、輝馬さんはお酒がお好きだということをツイッターなどを拝見していて知った(アイコンが既にお酒を片手に幸せそうに笑う写真である)。そのせいだろうか、スコッチを飲むシーンのパターソンの仕草が、いかにも「らしい」と言おうか、グラスの持ち方や傾け方、本当に何気ない部分で「酒が好きで飲み慣れている人」という感じが見えてくるのがたまらなく良い。
その他のシーンだと、煙草を灰皿に押し付ける仕草や、足下でもみ消す仕草、また火の消えたマッチを投げ捨てる動作の細かさも好きだ。
品行方正なお堅い人物と見せかけて、師匠に対してモランと共に「ジジイは黙ってろ」とぞんざいな言葉を投げつける、そのギャップが違和感なく馴染んでいるのも良かった。
原作では、アータートン更迭後にモリアーティ陣営が集まっているシーンはなかったが、モリミュでは一同を一カ所に集め、そこにパターソンをやっと同席させたことで、「モリアーティ陣営の仲間」でもあるパターソンの姿を印象付けたように思う。
次回Op.4では、「ロンドンの騎士」編での、CID主任警部となったパターソンの活躍を絶対輝馬さんで拝見したい。


◆ジャック・レンフィールド
今回初めて演技を拝見する……と思っていたのだが、円盤だけ持っている「ROCK MUSICAL BLEACH」での京楽隊長役で拝見したことがあった。
京楽隊長といい、今回の師匠といい、「頼りがいがあって親しみやすいおじさま」役の似合う方だなという印象だ。
石坂さんの背が高く、ジャックそのもの! という体格でいらっしゃるのも個人的に嬉しかった。豪快で少しお茶目さがあって、いかにも師匠そのものだ。井澤さんがツイッターで「ジャック役は絶対石坂勇さんしかいないと思っていた」と仰っていたのも頷ける。
御年58歳で、あれほど激しく舞台を駆け回るバイタリティ。少ししゃがれたお声。あまりにも似合う不敵な笑み。どこを取ってもジャックそのもので、よくぞここまでぴったりな方がこの世にいたものだなと思った。
今回がジャックの活躍回であった分、次作での出番がどれだけあるか分からないが、もしジャックがキャスティングされるなら、次もまた石坂さんの演じるジャックを拝見したいと思う。


◆ジョン・H・ワトソン
『憂国のモリアーティ』においてのジョンは「コナン・ドイル」と同一人物であり、シャーロックの物語を世間に公表する作家である。
しかし今回の「切り裂きジャック事件」はシャーロック・ホームズ原典と同時代でありながら、ホームズの物語に出てこない。憂モリではそれを「世間にジャックの真実を公表するわけにはいかないから」という辻褄の合わせ方がされている。
作家としてのジョンが活躍できない分、Op.3ではモリミュのオリジナル要素として、「医師としてのジョン」が見られたのが嬉しかった。
町医者ドワイトが逮捕されたとき、ジョンが人一倍強く憤りを見せたのは、彼の心優しさはもちろんのこと、同じ医師であるがゆえの共感も大いにあったのであろう。診察室の様子を見て心を痛めるジョンの歌は、怒りと憂いに満ちていて胸を打たれた。
また、ドワイトの診療所を訪れるシーンの、ドワイトの妻に対して見せたジョンの細やかな気遣い、赤子に向けた笑みの優しさに、鎌苅さんご本人のお人柄が透けて見えるようだったのが良かった。
苦しいストーリーの中での、一筋の光としてのジョン。本当に頼もしい、素晴らしいジョンだった。
次作でそろそろメアリーが出てくる可能性もあるので、どんなジョンを見られるか期待したい。


◆ジョージ・レストレード
出番の数だけ笑いを取っていくコメディリリーフとしての役割は健在なままに、今回は「スコットランドヤード狂騒曲」での立役者として大活躍を見せてくださった。
これまでレストレードの出番は役柄的にかなり絞られており、初演など2幕のほんの一部にしか出なかったが、それでもシャーロックに事件を持ってくる重要な役として出演くださっていた髙木さんが、こうして大活躍する話を見られてとても嬉しい。
レストレードの愚直な正義は、頭脳戦を繰り広げるウィリアムやシャーロックが持ち得ない、泥臭くしかし真っ当で妥協のない正義だ。そのまっすぐさは観ていて気持ちが良い。
髙木さんというと日替わりネタが定番だが、髙木さんの作り出す笑いは、観る人を選ばない。本来の世界観から大きく外れているはずのネタでも、髙木さんが堂々とやるので許されてしまうところがある。そういうところが本当に「強い」、頼もしい役者さんだ。
今回の日替わりもとても楽しく、引き出しの多さに毎回驚かされた。

◆アータートン
上でも述べたが、ミルヴァートンとの繋がりを作り、操られていたとしたことで、ドラマが深くなり面白みが増したキャラクターだ。そのアータートンを、奈良坂さんは分かりやすい悪役というより、どこまでも人間臭く感じられるよう演じてくださった。単なる嫌な悪役でなく、人の愚かさ、悲しさが観た者の心に残る。
誰の心にもきっと巣食う、己を正しいと思いたい心。保身。そんな人間の業を一身に背負い、破滅への道を辿っていく、魅力的な役だったと思う。
奈良坂さんは劇団四季出身だというが、発する音のひとつひとつの重みやいかにも舞台映えする動きに、なるほどと納得した。
アータートンの出番が今回で終わりなのが惜しい。


◆チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン
今回の新キャストの中で、誰がキャスティングされるか一番楽しみだったのがミルヴァートンだ。
今後の物語の中で、ウィリアム、シャーロックと対等にやり合えるだけの演技力と歌唱力を持ち合わせている人といえば……と勝手に色々とキャスティングを妄想していたが、藤田さんだと発表されたとき、「そう来たか!」と膝を打った。モリミュは本当にキャスティングに間違いがない。
これまでいくつかの舞台で藤田さんを拝見してきたが、常に役柄を深く読み込み、実に鮮やかに舞台の上に出現させてきた方だ。始まる前からどんなミルヴァートンになるかと期待していたが、期待を遥かに超えて素晴らしかった。
特に1幕終わり近くで、ミルヴァートンがソロを歌いながら蹴りを放つシーンが私は一番グッときた。あんなに乱暴で酷い仕草なのに、たとえようもなくカッコいいのだ。
ミルヴァートンは、自分の楽しみ――人の破滅を見る喜びの邪魔をしたウィリアムとシャーロックを引き合わせ、史上最高の逮捕劇を演出しようと画策する。
この先の展開を知っている原作読者であればこそ、12巻の「これが喜劇だとしたら、お前は王ではなく“道化師”の方だぜ」というシャーロックの台詞を思い出したが、何も知らないで観ていたとすれば――いや、先の展開を知っているはずなのに、これほどの強大な敵にウィリアムとシャーロックはどう立ち向かうのかと、手に汗握る思いをした。
ミルヴァートンはこの先、ウィリアムとシャーロック、二人の「共通の敵」となっていく。
彼の活躍は次作がメインとなるだろう。藤田さんなら安心してお任せできる。どんなミルヴァートンを見せてくださるのか、心から楽しみだ。


◆ピアノ・ヴァイオリン
まずはピアノ。
広田さんは今回からのご参加で、しかも2時間半ずっと舞台に出ずっぱり。
緊張の糸を切ることができない、本当に大変な役割だと思うが、常に演者に寄り添って音で彩りを添えてくださって、感謝しかない。
ヴァイオリンの林さんも、初演からずっとシャーロックに影のように添いつつ、ときにコミカルな小ネタを仕掛けるエンターテイナーであろうとしてくださる。
「題名のない音楽会」に出演なさっていたのを拝見して、改めてすごい方なのだと思ったが、今回拝見して、パフォーマンス力がより上がっていらっしゃるように感じた。
今後もシャーロックの影として、ぜひモリミュにお付き合いいただけたら嬉しい。


(おまけ)フェイスシールドのレポ

最後に。
今回、最前列のみフェイスシールドの着用があったが、私も実は最前列が当たり、フェイスシールドを着ける機会を初めて得たので、今後最前列に座る方のために簡単なレポを加えておく。
会場や日程などによって変わる可能性もあるので、参考程度にご覧いただきたい。

まず、配布されたのはこのタイプだった(このタイプと言うだけで、この商品と同一のものではないです)。

座席の上に、ビニル袋に入った状態で置いてある。

【着用した感触】
メガネ型で着脱しやすいので、開演直前でもサッと着けられる。
組み立て手順の説明書も入っており、保護フィルムの剥がし方や、金具の留め方に戸惑うことはなかった。
仕事でフェイスシールドを着用する機会の多い友人曰く、「色々試してきた中でも一番負担が少ないタイプ」だそうだ。確かに額が圧迫されず、重さもない。視界も非常にクリアーだ。
曇り止めも念のため用意していったが、マスクをきっちりつけていれば息が漏れないはずなので、曇ることはなく必要ないと思われる。
メガネの上から掛けたとき、どんな感触になるかは試さなかったので分からないが、そこまで大きな違和感なく着けられるのではなかろうか。
ただ、普通のメガネでも時々あるように、掛けているうちにツルの端が耳の後ろに当たって少し痛く感じる瞬間があった。こればかりは対策を思いつかないのだが、何かお知恵のある方がいらっしゃればお教え願いたい。
開演前は、メガネのブリッジ部分辺りが光を反射してシールド内部に映り込み、ちょっと気になっていたのだが、開演して会場内が暗くなると全く気にならなくなった。
【事前の準備】
ネットで既に先人が知恵を披露している通り、フェイスシールドには「黒マスク」がベターだと思った。
白マスクだと、ライトなど光を反射して、フェイスシールドの内側に映るからだ。
黒い不織布マスクはネット通販などでも手軽に入手できるし、ちょっと大きな街の薬局なら普通に置いてある(はずだと思う)。
白い不織布マスクしか手に入らなかった場合でも、光を反射しにくい黒系の布マスクを上に重ねるなどすれば、反射はかなり軽減されると思われる。
また服装も、トップスは黒もしくは光を反射しにくい色がベターかと思われる。
私は紺色の服で行き、開演前、フェイスシールドを着けた状態で試しに白いハンカチを胸元に当ててみたが、フェイスシールドの下部に映り込みがあった。
最前列は舞台を見上げる形になるので、視界に入るのはフェイスシールドの上部が主なので、気にならないと言えばならないかもしれないが、より良い視界を求めるなら、「黒マスク」と「黒系の服装」がおすすめだ。あと防寒用に羽織ものを持って行かれる方は、それも暗い目の色だと良いと思う。
【シールドの始末】
感染対策グッズなので、フェイスシールドは終演後、劇場出口で回収される。
席に置いていってよいのか、持ち帰るのか、回収されるのかと戸惑っている人を数人見かけたが、シールドごと持って行けば扉を出た辺りで袋を持って回収してくれているスタッフさんがいた。
規制退場は前列から始まるため、滞りなく退場できるよう、「劇場出口で回収される」という情報はぜひ共有しておきたい(大阪公演はまた違うかもしれないので、そのとき行かれた方の情報を探していただけたらと思う)。


何か気付いたことなどあれば、後から少しずつ修正していきます。
長々とお読みいただきありがとうございました。

Op.4がまた遠からぬ未来で無事に上演されることを願っています。

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