長い夜の明けたその先で ~ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.5―最後の事件―

長い長い夜の、明けるときが来た。
犯罪卿が仕立てた、名探偵が主人公の劇が、ついに終幕を迎える。 

「ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.5―最後の事件―」が無事に幕を開け、そして一公演も欠けることなく、本日無事に幕を下ろす。
「モリミュ」の略称で親しまれるこの作品を初演からずっと見てきたが、ついにここまで来たのかと、一観客ながらに感慨深い。 

世に2.5次元舞台は山ほどあって、あのマンガもこのアニメも次々と舞台化されていく中で、続編をどれほど待望していても、叶わぬ作品もたくさんある。
モリミュは幸いにもこうして続編が作られつづけて、物語に大きな一区切りがつく『最後の事件』まで公演が重なったこと、関係者の方々にファンとして感謝したい。 

無論、ファンが支えてこその興行である。しかし、そもそもこれほどの熱狂を生み出せる力を持った作り手が、演じ手がいなければ、ファンの心はついていかない。
初演からずっと毎回、素晴らしいものを見せていただいた。観に行くたびに夢中になった。どうしようもなく心を奪われた。圧倒された。大好きだと思った。
公演が重なっていくほどに、観客の期待も膨れ上がる。今回もすごいものを観せて魅せてくれるに違いないと思って劇場に足を運ぶ。
その期待を、モリミュは決して裏切らない。――作中、舞台化がおそらく最も困難であろうと想像されるエピソード、今回の『最後の事件』でも、それは変わらなかった。 

ネタバレなしの感想を最初に一言で述べるなら、「細部に至るまで完璧に理想的!」だった。
もう、本当に面白かった。いや、面白いなんて言葉で片付けてはいけない気がする。
一秒一秒が愛しかったし、魂が震えた。
何でモリミュは毎回毎回、こんなにもぐさぐさと胸に刺さるんだろう。
原作と表現を大きく変えた部分も見られたが、改変の意味のある改変だと分かる。原作を傷つけたり、曲げたりすることを決してしない。
西森さんや役者さんたちの、『憂国のモリアーティ』への深い理解と愛情が隅々にまで感じられる、シリーズ中の最高傑作になっていた、と断言できる。
シリーズを重ねてきたからこその厚みが、楽曲にもキャストの感情の乗り方にも、作品の端々にまで表れており、この座組が紡いできたのが「歴史」であることを感じさせられた。
レベルの高い数々の歌。
過去作を知っていると100倍感動できるに違いない劇伴。
ますます再現度の高いビジュアル。
キャスト各々が持つキャラクターへの深い解釈。
原作と正典への愛とリスペクトがふんだんに込められた脚本、演出。
それらのひとつの集大成として、どれだけ期待していっても足りないほどの作品になっていた。
個人的に、作品への解釈と趣味がおそろしく合う。というか「こう変えたか!」にいちいち納得できるのがすごく気持ちいい。 

前回のOp.4のときの感想で、私は「Op.4の直前まで、期待を膨らませすぎて勝手に不安になっていた」と述べた。期待が大きすぎて、実際観たとき、「ちょっと期待しすぎたのだろうか」と思ってしまうかもしれないという万に一つの可能性を恐れていた。
これまで素晴らしく解釈が合い続けてきたが、あまりにも合いすぎていたため、そろそろ一度くらい解釈違いが起きてもおかしくないなと。
だがOp.4を観劇してみたら、その不安はまるでつまらぬ杞憂であった。
この座組が、モリミュが、期待を超えてくれることを知っていたはずなのに。私は何を恐れていたのだろうと思った。

そして今回のOp.5こそ、純粋に楽しみで楽しみで仕方ない、と思いながら幕が上がる日を待っていた。
何度も原作を読み返しながら、どこがどう歌になるのだろう、このエピソードをどう処理するのだろう、このシーンはどう表現するのだろう、この台詞はちゃんと拾われるだろうかと、思いを巡らせながら待った甲斐があったと思う。

 本当に、本当に素晴らしい作品だった。


*この先は、Op.5のネタバレを含みます。
*過去作(Op.1〜4)の話や、原作のその後の展開(『恐怖の谷』も含め)のネタバレも入ります。

 今回は特に、観劇前に他人の感想を読んでしまうことをおすすめいたしません。
どうぞ観劇後にお読みください。

「この場面の表現がこうだった」と語っている部分については、私が観た大阪の初日と8/26マチネ、東京9/5マチソワで観たものがベースです。
その後表現の変わった部分などもあるかと思いますし、観たものを私が願望で捻じ曲げて記憶しているかもしれません。
人間は見たいものしか見えない生き物なので、あまりにも酷い勘違い以外は、どうぞご容赦いただけますようお願いいたします。

また、過去の感想をご覧の方はご存知の通り、私の感想は「評論やレポではなく感想」と開き直っているため表現に多少大げさなところがありますし、深読みや牽強付会が大好きで、話がすぐ脇道に逸れていきます。
話があちこちに飛ぶ、妄想まじりの、こじつけたものの見方が苦手な方は、そっと閉じていただけたらと存じます。

ちなみに過去最高に長いです。
全然読み終わらなくて途中で絶望させたらいけないので先に謝っておきます。最終的に68000字ほどになりました。これまで書いた感想の倍以上の長さです。
ちょっとした文庫本に迫る勢いです。
RT先で「読むのに一時間以上かかった」と言われているのを見かけて申し訳なくなりましたが、その分、愛は詰め込みました。
長いけれど読みにくくなりすぎないよう、なるべく工夫は凝らしましたので、どうぞお付き合いくださいませ。

 ここに書くことはすべて私の勝手な見解であり、正解ではありません。
違う解釈をお持ちの方もいらっしゃると思います。
解釈違いの部分に関しては、お互いの解釈を各々信じ大切にして、「こんなことを考える人もいるんだな」と流していただけますと幸いです。

あと、後から気付いて書き足している部分があります。
まとまった追加部分には「追記」の文字と追記した日付を入れていますので、ページ内検索で「追記」と検索してご覧くださいませ。


今回のエピソードは『最後の事件』。
原作コミック『憂国のモリアーティ』でいうと13~14巻の内容が扱われている。

世界で一番有名な名探偵の物語――正典と呼ばれるシャーロック・ホームズ・シリーズにおいて人気の高い『最後の事件』。
『憂国のモリアーティ』においてもそれは例外ではなく、好きなエピソードを聞かれて『最後の事件』を挙げる人は多いだろう。
しかし、舞台化が難しいであろうことは、素人ながらに想像に難くない。
情報量の多さ。心情の変遷の複雑さ。
複雑に絡まりあった糸の束を解いていき一本の緋色の糸を抜き取るような、緻密かつ鋭敏なセンスが脚本・演出家になければ、見せ場が多すぎて話がとっちらかった印象になってしまいかねないストーリーだ。
なぜこの人はこの選択をしたのか。
なぜ今このような状況になっているのか。
なぜこの結末に辿りつくのか。
そういった膨大な情報が、西森さんの手によって、すっきり整理されて分かりやすく提示され、何と見事な構成なのかと思った。
原作を知っていても見落としてしまいかねない小さなきっかけを丁寧に拾って見せてくれるし、原作を知らない観客のことも決して置いていこうとしない。
そして舞台化の最大の悩みどころは、何といっても「橋」のシーンであろう。
正典のメディアミックスや、ホームズのあらゆるパスティーシュにおいて、「ライヘンバッハの滝」の対決がどう描かれるのかは常に注目の的である。
このシーンをモリミュがどう表現するか、私はずっと楽しみにして、いくつもの可能性を妄想していた。
きっと様々なプランがあったと思う。
その中でこの形を選んだのは、実にモリミュらしかった。

私はこれまで、モリミュのファンを公言していながら、実は初日に観劇したことがなかった。
初演は何となくチケットを取って何となく観に行ってしまい、「この作品はすごいぞ!」と感動した翌日に大千秋楽がやってきた。
Op.2ではコロナの状況への引け目もあって、取ったチケットは1枚きり。
Op.3ではようやく複数回足を運べたものの、初日を取るのは難しかった。
Op.4でも終演時間のことを考えて日和り、観に行きやすいマチネを選んでしまった。
今回のOp.5でも最初は、土曜マチネを初見とするつもりでチケットを取っていた。
しかし初日が近付くにつれ、次第に焦りにも似た気持ちが募ってきた。「今回の話こそ、何の前情報も入れない状態で、初日に観に行かずしてどうするんだ!」と。
劇場に足を運ぶ予定が決まっているのに配信を初見にするのは勿体ない気がして個人的に避けたくて、でも私より先にこの話の結末を、あの橋のシーンがどう描かれるのかを、知ってしまう人がこの世にたくさんいるなんて、悔しい! というわがままで子供じみた嫉妬のような気持ちもあったと思う。
それに、モリミュは『最後の事件』まではきっとやってくれると確信していたが、『空き家の冒険』以降を確実にやってくれるかは(個人的には絶対やってほしいのだが)、ちょっと現状では分からない。
ならば今のうちに一度くらい、モリミュの初日に行ってみたい。
そんな純粋な、「初日」というものへの憧れが何よりも勝った。
ファンなら初日に駆け付けるべき、のような初日信仰はないのだが、最初の目撃者になりたいという気持ちを止められなかった。
この作品と、せっかく同じ時代に生きているのだから。
幸運にも、見切れ席の販売が開始されて間もないタイミングだった。
見切れ席で初見を消費してしまう勿体なさのことも考えて怯みはしたが、それよりは「一度は初日を劇場で」の欲に私の天秤が傾いたのは言うまでもない。
何の情報も出ていない初日に行っておいてよかったと心底思った体験(隠しても仕方ないので言う。舞台『仮面ライダー斬月』のことです)があるので、その思いは余計に加速した。

 音響の割れる見切れ席で(しかも上手の端なので、当たり前だが、本当に色々なものが見切れた)初見を済ませてしまったことを、今になって正直に言うと、やはりちょっと惜しかったかもと思わなくもない。
上手く聞き取れなかった台詞や歌詞、物理的に見えないものが多く、1回目の観劇で受け取れた情報は良席に座ったときの6~7割程度だったと思う。
それでも、初日に現地へ行った価値は十分すぎるほどあった。
初日が始まる直前の、まだ誰も何も知らないがゆえの、劇場中に漂う独特の緊張感。高揚感。
期待に満ちた波のようなさざめき。
無事に初日が開くことへの感謝、そして無事最後まで駆け抜けられますようにという切実な祈りがあの場所にはあった。
そして何より、カメラを通してではなく自分の目で、その一部始終を見届けられた。何の先入観も前情報もないままに。それが本当に嬉しかった。

【今回の仕込み】
多分、これを目当てに私の感想を開いてくださる方もいると思うので、私が気付いた今回の制作陣の仕込みや「教養ネタ」を最初にまとめて並べておきたい。
私も知識が足りず、全部に気付けているわけではないし、拾いきれていない部分がある。
勘違いや解釈違い、深読みしすぎなところもあるので、どうぞ信じすぎず参考程度だと思って眺めてほしい。

モリミュは初演から毎回、シェイクスピアの引用からドイルのエダルジ事件の取り込み、007シリーズのアレンジ、さらには聖書を元ネタとするエピソードまで、まるで原作からそこに存在したかのように自然に、しかしドラマチックに、外的要素を脚本の中に混ぜ込んで、世界観に深みを出すことに成功してきた。
しかもそれら教養ネタは、「入っていることに気づかなくても料理の美味しさを楽しめるが、入っていることに気づけると感心し嬉しくなる隠し味」のごとく、気付かずともストーリー理解に何ら支障がなく、しかし気付けばより深くモリミュを楽しめるという心憎さである。
それらひとつひとつを発見するたびに私は、その鮮やかさに心を震わせると同時に、どうやっても犯罪卿の後手に回らざるを得ないシャーロックのような気持ちをおこがましくも味わってきた。
西森さんの教養の深さ、幅広さを素直に尊敬し、それを演劇的に昇華する手腕の見事さを絶賛する気持ちはめちゃくちゃある。多分、人一倍。それは観客として心地よい。もっともっと翻弄されたい、身を委ねていたいと思う。だが、西森さんの意のままに、上手く転がされまんまと驚かされているようで、どこか悔しさを覚えるのも事実だ。
身の程知らずかもしれないが、せめてその仕込みの全てに気付けたら、その演出の意図全てを理解できたら、この作品をもっともっと楽しめるのにと、どれほど思ってきたことか。
しかし、アニメージュなどのインタビューを読むたびに、隠された意図に唸らされ、私はまだまだその背中が見える場所にすらいないことを思い知ってきた。
探偵役になり損ねているそんな私であるが、今回の仕込みの中で最初に心を摑まれたのは、あの舞台セットだった。

Op.4の舞台セットは、建設中の橋を思わせるセットだった。あのセットを見たとき、Op.5もこれをそのまま使ったらいいんじゃないのかとさえ思ったくらい秀逸だ。
だから、Op.5のセットを見たとき、不思議に感じた。
上手の上部にある簀の子状の板が、建設中のタワーブリッジのイメージなのは分かる。
しかし、手前のスロープは何のイメージでこうなっているのだろう? と。
その疑問に明確なアンサーを得たのは、2幕序盤のことだった。
Op.4で、民衆に責め立てられるウィリアムが纏っていた襤褸のようなマント。それを再び纏ったウィリアムが、苦しそうにあの傾斜を上り始めた瞬間、私は雷に打たれたように悟った。
「これはゴルゴタの丘をイメージしたスロープか!」と。
――Op.4の感想で、私はあの襤褸のマントについて「聖書における、死刑の判決を受けたときのイエスの描写に似ているように思える」と書いた。イエスは人々に衣を着せかけられ、代わる代わる打たれ、その後、十字架を背負ってゴルゴタの丘を上っていく。
モリアーティ陣営の歌やマイクロフトの台詞にも「ゴルゴタの丘」の言葉があったし、また今回のパンフに収録されていた、美術の松本わかこさんの解説を読んで、私は自分の感じたことが正解であったことを知り、嬉しくなると同時に、解説なしでこんなにもはっきりと「分からされた」ことに驚いた。
美術の持つ力と、役者さんの力、双方のパワーがあってこそ、こんなにくっきりとしたゴルゴタのイメージが出来上がったのだと思う。
モリミュのスタッフの仕事の凄まじさと役者さんのお力を、改めて思い知らされた。

次に個人的に刺さったところは、アルバートの「私が無垢なるイブをそそのかし、知恵の果実を食べさせ」という台詞だった。
旧約聖書において、神が創造した人アダムとイブは楽園エデンに暮らしていたが、最も賢い動物である蛇にそそのかされてイブは「善悪の知識の木の実」を食べ、イブはアダムにもその実を食べさせた。それにより人間は知恵を得て、しかし苦しむさだめを負い、楽園エデンを追放された。
(【※2024/02/07加筆修正 ここから】
普段は観劇当時の感情をそのまま残しておくことに価値があると思っているので、基本的に大幅な修正は行わないのだが、『アニメージュ 2024年3月号』を読んで私の大きな勘違いを知ったので、修正しておきたい。
このパートについて、観劇当初、私はこう書いていた。
「実は私は、憂モリ原作の『空き家の冒険』を読んだとき、「知恵の実を欲したが自分で食べる勇気はなく、まずウィリアムにその実を食べさせた」と語るアルバートは、「まず(=先に食べさせ後から自分も、のニュアンスに取れる)」からアダムかと思い込んでいた。もしくは知恵を求めたアルバートがイブで、神の前で悪を説くウィリアムが蛇のようであるなとも。イブを誘う悪知恵のある蛇は、もしかしたら先に実を食べていたかもしれない、という妄想と共に。
だが、今回のモリミュを観て「そそのかし食べさせ」で、その意味するところが明確に「蛇」だと分かった瞬間ハッとした。」

ところが、『アニメージュ』には「アルバートはアダムである」と書かれている。これはモリミュの独自解釈ではなく、原作サイドからの進言によるものだということだ。
私はこれを読んだ瞬間、「私は受け取り損なったのか……!」と頭を抱えてしまった。最初何も考えていないときは正解に近付いていたくせに、あれこれ考えているうちに、せっかくこちらに飛んできたサーブを盛大にレシーブしそこね、とんでもない方向に妄想を膨らませてしまっていた。
多分、観客が受け取ったものに間違いというものはない。勘違いまで含めて、それは一つの受け取り方だ。
しかし幸いなことにこの感想は沢山の方に読んでいただいているようなので、作り手が意図していない解釈を「こういう意味だと思う!」と発信し続けることで、読んでくださった方の解釈まで勘違いに誘導してしまうかもしれない。それはいずれ作品へのご迷惑になってしまいかねない。
なので後で正解を知ってからのことで大変ずるく厚かましいのですが、修正させていただきました。
こういうことがあるから、「私の感想を信じすぎないでほしい」と繰り返すのですが、本当に、とんでもない勘違いをしていることがあるからあまり信じないで、話半分で読んでくださいませ。
「アルバートが蛇ならば、塔での幽閉時の様子ともぴったりくる」という以前綴った勘違い由来の妄想をお読みいただいた方はありがとうございました。
しかし、それにしても勘違いしていたとはいえ、「無垢なるイブ」というパワーワードにおののいた気持ちは今も変わらない。
まだ正解を知ったばかりで、解釈が追い付いていないのだが、この部分については改めて聖書なども読みつつ、色々と考え直してみたい
【※2024/02/07 加筆修正ここまで】)


聖書ネタで言うならば、民衆がシャーロックに向かって叫ぶ「光あれ!」も、こう来るか! と衝撃を受けた。
「光あれ」も同じく旧約聖書の『創世記』の冒頭。天地が創造され、まだ混沌と闇が世界を包んでいたとき、神が最初に発した言葉である。
ゆえに、「光あれ」という言葉がキリスト教圏で持つ意味は、きっと私が想像するよりずっと重みがあり、特別な言葉に違いない。
その特別で大切な言葉を、民衆は叫ぶ。シャーロックに――この絶望を打ち砕けるただ一人のヒーローに。
この混沌を鎮める存在になれ、闇を照らすものとなってくれ、と。

他にも、ロンドンに火を放ったシーンでの「ソドムとゴモラ」。これも旧約聖書の話で、罪の町ソドムとゴモラを、神は天の火で焼き滅ぼした。
モリアーティのロンドン放火はソドムとゴモラの逸話にイメージが重なると常々思っていたので、この一言を聞いたとき、私は思わず拳を握って喜びを噛み締めた。
いずれも西森さんらしい、鮮やかすぎるほどの聖書の取り入れ方であった。
(原作になかったと記憶しているが、あったかもしれない。モリミュがあまりにも巧みに原作になかったものを混ぜ込むのと、私が普段から妄想ばかりしているせいで、最近、原作にあったかなかったか分からなくなるものがたくさんある)

また、聖書以外だと、エドガー・アラン・ポーの『黒猫』。
これは非常に短い作品で、青空文庫でも読めるので、気になる方はあらすじを読むよりいっそ本文を読んでしまうことをおすすめしたい。ざっと読むなら10分くらいあればいけると思う。
だが、とりあえず必要なところだけをかいつまんで言ってしまうと、「主人公の男が黒猫を殺し、そして妻をも手にかけて壁に塗りこめてしまうのだが、その壁を叩くと中から叫びのような猫の鳴き声が聞こえてきて罪が露見する」という話だ。
ざっくりまとめてしまって、話の面白さが全然伝わっていないと思うので、ぜひ詳しいことは『黒猫』をお読みいただきたい。モリミュを観た人ならきっと楽しめる。
Op.5初見のときこそ、「こんなところに今回の教養ネタを入れてくるなんて! しかも捻り方がお洒落!」と単純に喜んでしまったが、後からじわじわと、色々なことを考えた。
例えば、ウィリアムはどんな気持ちで「黒猫が鳴く場所」と書いたのだろう、とか。
もしかすると、最初は素直に「壁の中」と書こうとしていたのに、シャーロック相手に答えをそのまま教えるのは自分らしくないと思い、謎かけのプレゼントを兼ねたちょっとした洒落のつもりで書いたかもしれない。
それかそのまま教えてしまうと、見つけてほしい気持ちが表に出すぎているようで、照れに似た気持ちが芽生えたのかもしれない。
もしくは、万が一誰か別の人に見られたときに辿りつきにくくするための、保険であったかもしれない。
あるいは、もっと別の感情が去来していたかもしれない。
――だが、思うのだ。あの「黒猫が鳴く場所」という謎かけを記そうと思ったとき、そこにあったのがどんな感情であれ、ずっと辛く苦しそうな顔をしていたウィリアムがその瞬間だけは、口元に笑みを浮かべていたのではないだろうか、と。暗い瞳をしたままの人から、あんな表現が出てくるような気がしない。
「君なら当然分かるだろうけれど」と思いながら戯れるようにその謎をしたためるウィリアムの表情を想像すると、胸にグッと来るものがあった。
(と言いつつも、『黒猫』は前述の通り、罪の証拠を壁の中に塗りこめた男の話なので、ウィリアムが自虐的に言っている可能性もある。だが個人的には、最期を迎える前のほんの束の間、ウィリアムが己に許したいたずら心だと受け取りたい)。

ところで、壁に何かを隠す話の中でも、なぜ西森さんがウィリアムに『黒猫』を選ばせたのか、メタにはなるが必然的理由があるように思えてならない、という話もしておきたい。
というのも、私も『黒猫』は久しく読んでいなかったのでOp.5初見の後に慌てて読み返したのだが、主人公が冒頭で、「明日私は死ぬべき身である。ゆえに今日のうちに魂の重荷を下ろしておきたい」と語る一文があるのである。
この文章、まるでウィリアムそのもののようではないか。
さらに、読み進めていくうちにギョッとした。主人公の男が愛猫に暴力をふるうシーンがあるのだが、そのとき、猫は「片目を抉られて」いるのである。
憂モリ原作読者には言うまでもないだろう。
片目を失った猫の姿は、片目の傷ついた3年後のウィリアムと、否応なしにイメージが重なる。
西森さんが、どこまで狙って『黒猫』を選んだのかは分からない。
だが、おそらく3年後のイメージまで含めてのチョイスではないかと勘繰りたい。

また他の部分では、これは過去作でも何度か出てきたシェイクスピアの『リチャード三世』。マイクロフトがサラッと口にした「赤バラの軍勢に取り囲まれた悪王リチャードの最後の砦」がそれである。
Op.1でのダブリン男爵のエピソードで、男爵家の執事が男爵に「私のグロスター公リチャード閣下」と呼びかけたのもそうであったし、Op.4でもミルヴァートンの最期のとき、ミルヴァートン被害者の会の人たちが並ぶシーンは『リチャード三世』へのオマージュであると『アニメージュ』2023年8月号で明かされている。
引用されたその時々でリチャード三世に当たる人物は変わってきたが、常にそれは「倒されるべき悪」の象徴であったかと思う。それがついに今回はモリアーティになった。
これまで何度も出てきたネタだからこそ、その対象がモリアーティに向いたとき、我々はその末路を思い、その意味を噛み締める。

さらに、同じくシェイクスピアで、『ハムレット』からの引用があった。
ウィリアムからの手紙を読んで「まだ間に合うだろうが!」と叫ぶ場面の歌の中にあった「to be,or not to be」。
この後に「that is the question」を付け足した、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」のフレーズで有名な台詞である。
大阪での席運に恵まれなかったことを先に書いたが、東京では超幸運に恵まれた神席を引き当てて、そのときにようやくここの歌詞を聞き取れて、遅ればせながら「うわーっ!」となった。
隙あらばこういうネタを混ぜ込んでくるので、一言たりとも聴き逃がせず、油断できない。こういうことをサラッとやってくれるので、モリミュのことが大好きだ。

そして、教養ネタとは少しズレるし、絶対の自信がないのだが、ミュージカル『レ・ミゼラブル』へのオマージュがあった気がする。
橋落ち直後の民衆の「見たか悪魔は死んだ 犯罪卿は死に絶えた」という歌の旋律に含まれる和音に、レミゼの「民衆の歌」へのオマージュを何となくだが私は感じた。和音だけでなく、歌詞の勇ましさもまた、「民衆の歌」をどこか想起させるように思った。
「民衆の歌」は、東宝公式が公開してくださっている日本語版の動画もあるので、気になる方はぜひ検索してお聞きいただきたい。
また、伊地華鈴さん扮する街の少年(名前が呼ばれることはなかったが、SNSなどを拝見するに、ベーカーストリート・イレギュラーズのウィギンズで間違いないようだ)が、レストレードのソロの後ろで勇ましく赤い旗を振っていたのもそうだ。
レミゼにおいて「民衆の歌」が歌われるとき、民衆が赤い旗を振るシーンがある。その他のシーンでも、赤い旗はキービジュアルに使用されるなど、レミゼのシンボルのひとつとして位置づけられている。
また、憂モリ原作読者は『空き家の冒険』で描かれた通り、『レ・ミゼラブル』という物語がアルバートに大きな影響を与えたことをご存知だろう。
絶対の自信がないとは言ったが、必然性のあるレミゼのオマージュが行なわれていると見て、おそらく間違いないと思う。

 ……と、こんなことを言っておきながら、私はレミゼを観劇したことがないので(原作と映画と「民衆の歌」だけ知っている)、レミゼ観劇経験のある方に詳しい検証はお譲りしたい。おそらく私が思いもよらない気付きがまだあることだろう(来年からレミゼの全国縦断公演があることは把握済みです。ついに行くべきときが来たかとわくわくしつつチケット競争の予感に震えています)。
『レ・ミゼラブル』の話を出したついでに脱線するが、私は『レ・ミゼラブル』を読んだとき、青年革命家のリーダー・アンジョルラスのことをウィリアムのようだと感じたことがある。
アンジョルラスの台詞にこういうものがあるのだ。
『僕はあの男を裁いて死刑に処した。僕は心ならずもそうなさざるを得なかった。そしてまた自分自身をも裁いている。やがて諸君は、僕が自分自身をいかなる刑に処したかを見るだろう。(中略)死よ、我は今汝を利用するがしかし汝を憎む。(中略)未来には、何人(なんぴと)も人を殺すことなく、地は輝き渡り、人類は愛に満たさるるだろう。(中略)そしてわれわれがまさに死なんとするのは、そういう日をきたさんためである』(岩波文庫、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル 4』 より引用)
この台詞を読んだ瞬間、犯罪卿のキャラクターを作り上げるとき、アンジョルラスが原型のひとつになった可能性はあるのでは、と考えたことがある。
またOp.3観劇当時に憂モリ原作未読でモリミュを観た友人が、『レ・ミゼラブル』主人公のジャンと、ジャンを追い続けるジャベール警部の関係が、ウィリアムとシャーロックに似ている気がすると話してくれたことがあった。確かに本当の名を捨てて偽の名と身分を手に入れた犯罪卿のウィリアムと、それを追いながらも強い影響を受けていく名探偵シャーロックは、ジャンとジャベールにどこか重なるところがある。
つい脱線したが、少年時代のアルバートのミリエル司教への傾倒以外にも、憂モリと『レ・ミゼラブル』を繋げられそうな要素は多い。
どなたか詳しい方が、ここら辺のことを比較検証してまとめてくださらないものかとずっと思っている。

冒頭や橋のシーンなどでウィリアムにまとわりつく死神(死の概念)の姿も、きっとどこかに元ネタとなったイメージがありそうだと思ったが、私の知識の範囲で「これだ!」と確信を持てるものが見つからなかった。
どなたかが突き止めてくださるか、もしくは『アニメージュ』などのインタビューでいずれ語られる日が来ることを楽しみにしている。
(関係ないが、アニメージュで毎回モリミュの記事を組んでくださるインタビュアーの記者さんは、質問が的確で「それ! 訊いてほしかったやつ!」を取り上げて、話をどんどん膨らませて読み応えのある記事にしてくださるので、モリミュのファンはこういうところも福利厚生に恵まれているなと思う。
万が一、あの記事を書かれた方のお知り合いがどこかにいらっしゃったら、もしくはあの方が何かの拍子にここに辿り着くことがあれば、辺境のいちモリミュファンがものすごく感謝して毎回楽しみにしています、と声を大にしてお伝えしたい)

西森さんが『アニメージュ』8月号で語られていた、「(Op.4のマクベスのオマージュについて)観る人が観たら、すぐに気づいてくれるだろうと」の言葉を読んだとき、私たちが観客として「届く」と信頼されていることを感じ、その信頼に応えられる観客になりたい、なれたらと思った。
なかなかに難しくて、完全に解き明かすことはきっと無理なのだろうけれど。
それでも、ひとつでも気づけるように目を凝らすので、これからも西森さんには素晴らしい謎かけと仕込みで私たちを翻弄してほしい。

 ここまでで既に1万字を超えた。お読みいただいてありがとうございます。
そろそろ本編の話をしようと思う。なるべくストーリーの順に沿って話を進めていく。

【冒頭】
嘆きのごとき風の音が渦巻く、暗く空っぽの劇場に、ウィリアムが細く照らし出された。その足元には十字架を思わせるライティングが渦巻く。
そして『この世界を』が無伴奏のまま、あの魅惑の高音でもって切々と響き渡る。
「聞かせる」パワーを持つ鈴木ウィリアムの歌声は、観客の心を一気に押し流し、モリミュの世界へと呑み込んでいく。

モリミュはこれまで常に、民衆たちの歌からスタートしてきた。
苦しむ者たちの嘆きと、特権階級の傲慢。民衆あっての物語、という強い意識の表れとして、それはOp.1~Op.4まで続いてきた。
だがOp.5では、ウィリアムの無伴奏独唱から舞台は始まった。
その演出に、計画が進み、ここに至って「犯罪卿を倒す物語」がついに始まったのだと私は感じた。
哀しみを知る瞳を潤ませながら、この世界を変える決意を一人歌い上げるウィリアム。
仲間の手の届かない寒々しいその場所は、「心の部屋」の心象風景のようにも見えた。
死の誘惑だけが、不気味に、確実に、ウィリアムの心を絡め取っていく。

 いつも通り民衆の歌から始まると信じていたため、あまりにも不意を突かれた始まり方だったが、おそらく観客は皆、この時点で今作の「勝ち」を確信したのではないだろうか。

 この冒頭の歌い方が、大阪と東京ではまるで違った、と聞いて楽しみにしていたが、東京で聞いたとき、本当に変わっていて驚いた。
大阪ではもう少しテンポよくメロディを歌い上げるようであったのに、東京ではよりたっぷりと溜めの間を取りつつ、祈りを絞り出すようで、切なさが何倍にも増していた。
円盤になるときは、どうかこの歌い方の違いが分かる形で残らないかなと思っている。どちらのバージョンも私は好きだ。

そして始まる、Op.1から聞き慣れた、民衆の曲『大英帝国』。モリミュを代表する歌のひとつである。
ここでようやく、いつも通りの民衆の物語が始まった。
先にも述べたが、今回はOp.1以来の、客席を使った演出が復活した。
Op.2のときの、感染対策で一席とばしのため半数しか埋められぬ劇場で、水を打ったような静けさの中に座り、息さえ潜めながら観劇したときのことを思い出すと、こうして『最後の事件』で客席降りが復活してくれて、本当に良かった。

物語は、アルバートとジョンの語りに合わせながら、これまでの道程が振り返られる形で進んでいく。
まるでこれまでのダイジェストのように、Op.1からの数々の名曲がメドレー的にリプライズされたのは、Op.1からのファンとして嬉しかった。
最初からのファンには、耳に馴染んだ懐かしいあの曲を、今の彼らでもう一度。
途中からのファンには、生で聞いてみたかったあの曲が、やっと。
モリミュ初見のファンに対しては、これまでの物語の簡単な説明として。
モリミュ公式のキャストコメントで平野さんと鎌苅さんが「エモの詰め合わせ」「エモ弁当」というパワーワードを放っていたが、まさにそれ。

過去作の中でも特に印象的でドラマティカルな旋律を抜粋し並べてあって、この便利で俗っぽい言葉に頼ってしまうのは悔しいのだけれど、やはり「エモい」と表現せざるを得ない。
モリアーティ陣営の事情。シャーロックの信念。そしてウィリアムとシャーロックの魂の交流。それらの一番いいところをコンパクトに詰め込んであって、冒頭10分で既にお腹いっぱいな状態にさせられた。

この中でも特に印象的だったのが、ウィリアムとシャーロックの歌う「I hope/I will」。
最初に歌われたのはOp.2の締めで、そのときウィリアムとシャーロックは互いに見つめ合いながらこの曲を歌っていた。
だが今回のリプライズ内で、私の観ていた範囲内では、シャーロックはおそらくウィリアムの方を見ていない。だがウィリアムはずっとシャーロックを見つめながら歌っていた。
この時点でシャーロックは、予感と願望はありつつも、まだ解き明かすべきその謎の正体を確信してはいない。それは未だ「幻の先」にある。
しかしウィリアムが「catch me」を望む相手は、既にシャーロックひとりと決めている。
当時の単なる再現ではない、視線の向きまで考え抜かれた演出で、「やられた!」と思った。

【取調室~犯行声明文】
犯罪卿が市民と貴族両方から責め立てられるOp.4のリプライズから、いよいよOp.5の物語が本格的に始まっていく。
逮捕されたシャーロックの取調室のシーン。Op.4にしてもそうであったが、ここにいるはずのパターソンがいないのは、輝馬さんのパターソンに心奪われてしまった私としては、寂しくなかったというと噓になる。
だが、今パターソンはMANKAIカンパニーに潜入していらっしゃるので致し方ない(ちなみに私はパターソンとラスキンのいる夏単を申し込んだがことごとく外れた)。
日替わりでレストレード警部がパターソンの名前を出してくれた日があると友人から聞いて、とても嬉しくなった。でもいずれまた、輝馬さんのパターソンを名前だけではなく、どうにかもう一度舞台の上で観る機会はないかと思っている。

 一方で、今作では根本さんのマイクロフトがモリミュに帰ってきてくださった。『最後の事件』にマイクロフトは絶対欠かせないので、こうして戻ってきてくださってとても嬉しい。
根本さんのマイクロフトは、まさに「完璧」。
マイクロフト役としても完璧だし、マイクロフトという人がそもそも完璧な人だし、どこを切り取っても完璧しかない。輪郭のくっきりとした力強いお声が劇場の隅まで朗々と通る様に惚れ惚れしてしまう。
毎回、「今回のお気に入り」というか、この話の中で注目しようと特に意識はしていなかったのにやたらと心が奪われて、その姿を見ただけで無条件にニコニコしてしまう方が絶対一人はいるのだが、今回、それが根本マイクロフトだった。

このシーンでは、マイクロフトが机に音を立てて手を叩きつけたり、ジョンが激昂して机をひっくり返したりと、細部まで丁寧に原作の仕草(それもファンがそこに意味を見出して再現されてほしいと願っている)が再現されていて、こういうところを疎かにしないからモリミュのことが好きだなと冒頭から再確認した。特に机をひっくり返すのは、危険だし机も傷むしもしかしたら無理だろうか……と思っていただけに、ちゃんと入ってくれたのが嬉しい。
また、ミルヴァートン殺しが完全犯罪になってしまっていると聞いたときのシャーロックの「良かったじゃん!」の言い方が、私はとても好ましく思えた。
回によって表現に多少の変化があるものの、「良かったと言いながらも、決して心から喜んでいるのではない。自分を無理やり納得させようとするような、現実から目を背けようとする自暴自棄に近い心情から出た言葉」という、葛藤と苦々しさのニュアンスはどの回を観ても含んでいたように思える。
そういう、一言で説明できない難しい台詞だと思うのだが、平野シャーロックの表情からは、そんな複雑な感情が自然と伝わってきた。
そして、ジョンからシャーロックへの𠮟責。単に怒りに任せて怒鳴り散らすのではない、友情を感じていたからこその深い哀しみと苛立ちが全身から放たれていて、観ていて思わず胸が詰まった。

場面は変わって、モリアーティ邸のシーン。
計画の変更を告げるウィリアムに対して食い下がるルイスの必死さには、思わず共感を覚えた。犯罪卿の――ウィリアムの名を叫び責め立てる民衆を見ているときの、もどかしさとも哀しみともつかぬ、困惑にも似た表情。
本当は自分も、同じ痛みを負うはずだったのに。
なぜこの世で一番大切な人が、一人でこの痛みを負わねばならぬのだろう。
なぜ自分はその痛みを分け合うことを許されなかったのだろう。
為すすべのないそんな苦しみが、一慶ルイスの表情から、一挙一動から滲み出ていて、ぐっと引き込まれるシーンだった。

このシーン、市民の数人に短いながらもソロパートがあるのも嬉しかった。他にも、221Bを取り囲む市民の場面などでも、各人が短いが明確な見せ場を持っていて、「市民」がひとかたまりの概念的なものではなく、名前と人生のある一人ひとりがそこに存在するのだと、強く感じさせてくれたように思う。

 だが、それほど民衆を丁寧に描くのに、何か変わっている部分があると、原作読者は思ったはずだ。
それは「『小惑星の力学』を書いたモリアーティ君か!」と動揺する紳士や、「ウィリアム様⁉ ウソよこんなの!」と叫ぶ令嬢たち、ダラムでの最初の事件で関わったバートン、ミシェルの不在である。
民衆を丁寧に描いてきたモリミュだから、きっとダラムの様子はそれとなく挟むのではないかと私は思っていたのだが、気付く範囲で入っている様子がなく驚くと共に、「でも、この部分をなくすのがモリミュの選択なんだ」と感心した。
確かに、あのシーンは原作には必要だった。いくら犯罪卿憎しと言えど、あのニュースを聞いた瞬間本当に全員が全員、一様にウィリアムを責め立てるわけではないだろう。民衆のリアルとしては、非難する者と戸惑う者、擁護する者が一定の割合で含まれると想像される。
しかしモリミュは、責め立てる市民の姿だけを残した。その意図とは。
――これはあくまでも私の想像でしかないが、きっとモリミュはウィリアムをより「完全な悪」に見せる道を選んだのだろう。
ウィリアム=犯罪卿が絶対的な悪であればあるほど、ホームズ=英雄待望論は熱を帯びる。ウィリアムの計画では、犯罪卿とは一片の同情もかけられることのない、大英帝国の敵でなくてはならない。
もし戸惑ったり擁護したりする人物の存在を見せてしまえば、「でもウィリアムには敵ばかりではない」という情けと希望が生まれてしまう。モリミュはそれを描くのを避けたのではないだろうか。それに味方してくれる第三者の可能性を見せないことで、ウィリアムの孤独はより深く浮き彫りになる。
原作のシーンを削ることには、迷いや葛藤もあったかもしれない。しかしモリミュがこの描き方をしたのは、橋落ち後の民衆の様子も含めて、モリミュの描く『憂国のモリアーティ』の物語として大正解の姿だと思った。

 一方で、原作通りで嬉しかったのが、ハーシェル男爵邸でのシーン。ウィリアムに向かってくる使用人が手にしている武器が、原作の描写通りの形状の槍であった。こういう細かいところを見逃さず再現してくれるから、モリミュのことを信頼している。

 そして、犯行声明文!
ここはきっと歌で来るだろうと予想していたが、本当に全文歌で来るとは。
大切なところこそ歌でやり切ってこそのミュージカル、という矜持を感じさせられたし、ただでさえ文面を読みながらウィリアムの心中を思い、思わず救いを求めて天を仰ぐような内容なのに、歌にされて、鈴木ウィリアムに歌われてしまうと、心臓を鷲摑みにされるような鬼気迫る響きがある。

そこから流れるように始まるメインテーマ。
観客に息をつく暇も与えない、本当に見事な構成だ。
もう普通に1幕終わったくらいの質量があった。

 

【メインテーマ】
メインテーマは、今回どうアレンジされるのだろうか? と皆が楽しみにしていたと思う。
これまでOp.2以降、各話のゲスト的人物が歌うパートが途中に差し挟まれたアレンジがなされ、その度にこの聞き慣れたメインテーマがこんなに違った印象になるなんて、と驚かされてきた。

さて今回はというと、ゲストキャラがおらず、既出のレギュラーメンバーばかり。いよいよ役者が揃った、という状態でのメインテーマは、初演のときと同じものに戻るのか、それとも……と思っていたが、さすがはモリミュ、今回も驚かせてくれる。
ウィリアムとシャーロックを除いた全員がバタバタと倒れ伏す中、颯爽と現れたマイクロフトが、アレンジのパートを担っていった。
ここでマイクロフトだけが倒れず出てくる意味とは……と色々考えはしてみたが、そんなこと吹っ飛ぶほどの絶対的な格好良さで、マイクロフトが私の思考を掻っ攫っていった。根本マイクロフトは、観れば観るほど好きにさせられるから危険だ。
全てを知っている上で、敵でも味方でもない立場を貫くマイクロフトらしい立ち位置の登場であったように思う。

 この場面、舞台上の全員が倒れてギョッとしなかった観客はいないと思うが、その衝撃こそ、おそらくは作中で大英帝国の民衆が現在感じている、犯罪卿に支配された街に生きる不安やこれまでの日常が当たり前でなくなってしまった心細さと、似た形をしているのではないかとも思った。
それでも――為すすべがなく倒れ伏していっても、ウィリアムとシャーロックを欠いた舞台の上の人々は、抗うように、為すべきことを為すべく、また立ち上がっていく。
それはまるで『最後の事件』のラストの構図そのものではないか……!

 ――ウィリアムとシャーロックが再び歌の陣立てに加わって、メインテーマは聞き慣れた旋律へと戻っていく。
ここで私はふと思った。「今回のシャーロック、いつもほど揺れていなくない?」と。
平野シャーロックが揺れるのは、過去作や円盤などをチェックしている皆さんならご存知の通りだと思う。彼は揺れながら実に巧みに、そして自由にシャーロックを表現なさってきた。
そんなシャーロック、いつもならメインテーマ内で、「この地に謎が蠢くなら」の辺りでモリアーティ陣営(主に三兄弟)を順に指してみせる仕草などを見せていたかと思うのだが、今回はそんな素振りがなく、むしろ一点をじっと見据えて何かを考えているような印象を受けた。
それを見て思った。ああ、シャーロックはついに、謎の彼方にいたその影の、正体を捉えたから。だからこんなまなざしをしているのかもしれない。
さらに、歌の締めではいつもはウィリアムが「止め」の合図を出しているが、今回はウィリアムと共にシャーロックも「止め」を出していた。
そう、これは『最後の事件』だから。これまでウィリアムがすべてを操り支配してきたけれど、この物語の幕引きには、シャーロック・ホームズが必要だから。だからシャーロックはそこに参入する。あるいは、全てをウィリアムの思い通りにはいかせないという、シャーロックの介入の意思の表れとも取れるかもしれない。

それか、すごく感覚的にぼんやり考えたのは、「手がまだ届かない」姿のようにも見えるな、ということだ。
クライマックスの「橋」のシーンで互いに伸ばした二人の手が固く結ばれるが、それは今から始まる物語を経た結果そうなるのであって、このオープニングの時点では、その手はまだ届かない。そんな暗喩と受け取ることもできるのかもしれない、と。
色々と考えさせてくれる演出であったと思う。

 多分、これだけ言葉を並べても、まだ見落としがあるに違いない、実に暗示的な、情報量の多いメインテーマ演出だった。

 

【国会~裏切りの手紙】
メインテーマが終わるや否や、アルバートが国会で糾弾される場面に移り変わる。
今回の物語は、どこを切り取っても胸が締め付けられるような場面しかない。これが計画通りの展開で、計画が順調であることを喜ぶべきだと観客として分かっていても、強い言葉でなじられるアルバートの姿に、何の申し開きも許されぬ状況に、心が痛むのを止められない。
このシーン、女王役を永咲さんがまた演じてくださっていたのが嬉しかった。声に威厳と気品があり、英明さを湛えた、凛とした君主でいらっしゃる。
アルバートの女王への謁見のシーンと、ウィリアムが裁きを執行するシーンが、カットバック的に同時展開される見せ方も、場面数を抑えつつ情報を詰め込んで見せることに成功していて、場面の作り方が何て上手いんだろうと思った。
裁きを執行するウィリアムの表情が、また良かった。淡々と無感情で虚ろなように見えて、ほんの一瞬顰められる眉や、剣を握る己が手を見つめる瞳の中に、感情を押し殺そうとしつつも抑えきれない苦悩が滲んでいて、凄絶だ。

 続くカークランド伯爵邸の場面では、原作で描かれていなかった、フレッドがウィリアムの先回りをしてメイドや使用人を気絶させておく殺陣シーンが入ったのが、個人的にすごく嬉しかった。
「誰にも姿を見られていない」との言葉通り、首に巻いたストールと、夜闇と、人の陰に隠れられる小柄さを存分に利用した殺陣で、その鮮やかさには、場面の深刻さも忘れて思わず「お見事!」と心の中で快哉を叫びそうになった。とてもかっこよかった。

 私が元々好きだった原作とモリミュにいよいよ深く嵌まり始めたOp.2上演当時、ちょうど本誌でこの場面に当たる49話(『最後の事件 第二幕』)が掲載されたのだったと記憶している。
どうかご寛恕いただきたいのだが、そのとき、私は思った。「あなたが死ぬ必要はない」「新しい世界をウィリアムさんと一緒に見たい」と訴えるフレッドは、あのまっすぐな瞳を持つ赤澤遼太郎くんにどれだけ似合うだろう。彼がフレッドとしてこの台詞を言うのを絶対に見たい、と。私は遼太郎くんが大の贔屓なのだ。
だからこそ、『最後の事件』を待たぬキャスト変更に気落ちもしたが、新しいフレッドである長江くんが演じてくださったこの場面、本当に、本当に素晴らしかった。
一筋の嘘もない必死の言葉にはまことが感じられ、しかしウィリアムを「正義」と言い切ってしまう危うさもしっかりとはらんでいる。大阪で観たときもその演技を好ましく思ったが、東京では、より声が震えていて、必死さが増していて、フレッドの心情がひしひしと伝わってくるようだった。
この場面を観て、(こういう言い方をして偉そうに聞こえてしまったら申し訳ないが)「ああ、長江くんのフレッドが完成したな」と思った。
無論Op.4でも、長江くんのフレッドに「後任という重い役目をよくぞ引き受けてくださった」と感謝したし、私はきっとこのフレッドのことも好きになれると感じた。
だが今回、その表情に、歌い方に、前回よりずっと深みが出て、そして前回よりずっと自由に自分の思うフレッドを演じていらっしゃるように見えて、目を奪われる瞬間が格段に増えた。
ひとつひとつの仕草をすごく好ましいと思ったし、「好きになれる」ではなく「好きだ」と感じた。
もし『空き家の冒険』をモリミュでやってくれるなら、そのときは「仲間に殺されるならそれでもいい」の台詞を長江くんのフレッドでこそ聞きたい。

 話が逸れたが、このシーンでは、思わずといった風に何度もウィリアムの傍に寄ろうとするフレッドと、その度、一線を引くように手を上げて制するウィリアムが印象的だった。
放っておけない大事な人に少しでも寄り添いたいと願うフレッドの優しさと、大事な仲間をこれ以上巻き込むまいと線を引くウィリアムの悲壮なまでの意思の固さ。どちらが正しくてどちらが間違っているわけでもなく、どちらも悪くないのに、その溝が埋まらないもどかしさ。観ていて切なくなるシーンだった。
それでも、フレッドは引かれたその線を踏み越えられないかと叫ぶ。「新しい世界をウィリアムさんと一緒に見たい」と。
ウィリアムは、「新しい世界を見せてほしい」と請われたことはあっても、「新しい世界をあなたと一緒に見たい」と言われたことが、これまで多分なかったのではないかと思う。
それは「見せてほしい」と請う相手が自分本位だったからというわけではなく、発言者は当然そこにウィリアムもいるものと信じて疑わなかったからだ。
ウィリアムがフレッドに言った「君がそう言ってくれたことは忘れない」という言葉は、嘘ではない。初めて「一緒に見たい」とはっきり言ってくれた相手がいることに、心が動かなかったはずがない。しかし、そんな言葉をもってしてさえ、凍えて閉ざされたウィリアムの心の部屋に立ち入ることは、誰もできないのだ。
(※この感想を最初に書いた時点、大阪公演ではそのように見えたと記憶しているのだが、東京で観たときはこの手を上げて制する仕草がなかったように思う。手を上げていたとすると「仲間に生きてほしいと願うウィリアムの決意の強さ」が伺われるし、上げていないパターンも「鬼気迫る近寄りがたさ」を感じられるようで、どちらも良いなと思っている)

 フレッドが手紙を書くシーンも、これまた素晴らしかった。
ウィリアムを助けたい一心で、「書き殴る」という言葉がぴったりな様子でペンを走らせるが、しかしその手は震えている。
正典でも、ホームズに届いたポーロックの手紙は「判読にも困るほど書体が乱れている」とあり(それはモリアーティ教授に裏切りを疑われているという恐怖による手の震えに由来していたが)、このフレッドの書いた手紙もまた、間違いなく字が乱れているだろう、と観ていて思った。(結局シャーロックに届いたのはこの手紙ではなく電報だが、きっと、明らかにウィリアムのものではないと推理されそうな筆跡の手紙を出してもシャーロックが警戒して呼び出しに応じない可能性などを考えて、差出人の匿名性が高くなる電報にしたのではないかと思っている)

ルイスとフレッドが話すシーンでは、ウィリアムを取り巻く死神たちの中に女性の姿が見え、首を絞められる仕草をしていて、さらにその横には喉を棒で突かれる少年の姿が並び、すぐにモリアーティ伯爵夫人と本物のウィリアムだと気付いてゾッとした。
今ウィリアムの心を苛んでいるのは、最後の事件が始まった苦しみだけではない。もっと昔からの、それこそ最初の罪――アルバートの依頼による殺人――を含めた、これまで犯した全ての罪が、彼の中には染みついている。ひとつも忘れることなどしないまま。
薄れえぬ罪の意識をずっと抱え続けるのは、どれほど苦しいことだろう。その苦悩が、あの夫人と本物のウィリアムの亡霊の登場によって、視覚的に流れ込んできた。
ここで敢えて最初の罪を出してくるなんて、いっそ残酷なほどにシーンづくりが上手い。

 

 【路地裏の密談~グローヴァー公爵邸】
続く、フレッドが「皆の意思も確認しておきたい」とモランに話をするシーンは、原作でも好きな場面のひとつだ。『バスカヴィル家の狩り』で、一人で何ともならないときに怖がらず仲間に相談することを覚えたフレッドの、学びと成長が見える。
原作のこのシーンでモランが見せる、「本気で言ってんのか?」と問い質すときの苛立ちの混じったような突き放すような表情が私は好きなのだが、井澤モランはこのシーンを、また絶妙の表情と声のトーンで演じてくださっていた。
私は原作を読んだとき、このシーンのモランの感情をなかなか上手く吞み込めなかった。誰よりもウィリアムを助けたいはずなのに、ウィリアムの意思を尊重しすぎて、まだ変えられるはずの未来をも自分から手放しているようで。
だが、何度も読み返すうちに少しずつその考え方にひとつの「理」があるというか、これが彼なりの忠誠の表し方なのだ、と思えるようになった。
そしてモリミュのモランはというと、観ていて「信念」が感じられ、自然とその考え方を受け入れられた。その道に一人で行くなと止めるのが理ならば、思うように行けと止めないのも理なのだ。
信念のぶつかり合う様が迫真の演技で展開され、すごく印象的なシーンになっていた。

 グローヴァー公爵邸のシーンでは、サボって談笑する警備員の姿に、民衆のリアル――公爵の命を守ろうという真剣さや忠誠心はなく、金で雇われた傭兵に過ぎない――が滲んでいて、こういうちょっとしたところを丁寧に差し挟んで見せてくれるのがモリミュの良いところだなと思った。無論、公爵をお守りせねばという義勇に駆られている者もいるだろうが、とりあえず金になるから来ていてあわよくば手柄を挙げてやろう、くらいの気持ちの者も多い寄せ集めの軍勢であることが、あの短いやり取りから伝わってくる。
そして二代目グレッグソンである蓮井くんの頑張りは、今回も素晴らしかった。
Op.4のポンディシェリ荘での日替わりも毎回笑わせてもらったが、今回もグレッグソンを実に人間らしく魅力的な人物として演じてくださっていて、レストレード警部と並んで、この重いストーリーの中での息抜きになってくれていた。
ほんの束の間の平和な笑いをもたらしてくれる、蓮井くんのグレッグソンが私はとても好きだ。

 グローヴァー公爵とウィリアムが対峙するシーンは、原作と変わっている部分があった。
公爵の息子がエヴァンのみで、エヴァンの弟ギルバートが出てこないのだ。
原作のこのシーン、「罪なき子供」というだけではなく「弟(と父)を守ろうとする兄」であるエヴァンを前にして葛藤を見せるウィリアムが好きなので、ギルバートが削られたのは個人的に少しだけ惜しいと感じた。ウィリアムもまた、血の流れる場所から弟を遠ざけようとした兄である。それゆえ、エヴァンの兄としての気持ちを誰よりも分かり、その分苦悩も深くなるはずなのだ。
だが、モリミュほど信頼できる作品はないと私は知っている。西森さんがその要素を削ったのには、絶対然るべき理由がある。
今想像しているのは、「同じ兄として気持ちが分かってしまい揺らぐウィリアム」の可能性を見せるとウィリアムの苦しみのありかが別の場所にも発生してしまうので、ウィリアムが本質的に抱える苦悩――緋色に染まり切った罪の手――にピントを合わせ続けるため、敢えて弟の存在を出さなかったのでは、という説だ。それに子供役を二人出す場合、見るべき場所がズームアップされて切り変わるマンガの画面と違い、舞台上だと観るべき場所が多くごちゃっとしてしまうという、絵面の都合もあるかもしれない。
だが、これらはいずれも私の想像でしかない。いずれどこかで、ここの改変の狙いが語られるのをお聞きできないかと思っている。

 そしてウィリアムの代わりに引き金を引くことすら叶わないことを嘆くモランの歌。
原作のこの場面で匂わせはするもののモノローグですらはっきりとは語られない「俺はあいつを救いたい」という心情が歌われていて、非常に印象的なナンバーだった。
Op.5のパンフで西森さんが、歌詞に入れるパワーワードのお話をなさっていたが、この歌の「この拳はただの鉄クズ」というパワーワードには打ちのめされてしまった。「鋼の戦士は嘆けども お前の心を抱けない」と合わせて、ウィリアムの矛と盾になると誓ったのに何もできない男の歯がゆさ、無力感がたった一言で表されてしまう天才フレーズすぎる。
四拍子と三拍子を行き来するメロディが、私情と忠誠の間に揺れ動くモランの心情をも表しているようで、また原作ではこの先15巻のパターソンの回想の中で触れられるモランの「ウィリアムのヒーローになりたい」が織り込まれたのも、かなりの衝撃だった。
ここまで先の展開の匂わせをやっておいて『空き家の冒険』はやらない、という選択肢はないと思うので、ぜひやってほしい。

 

【マイクロフトの訪問】

民衆に取り囲まれたモリアーティ邸をマイクロフトが訪問する、モリミュオリジナルのシーン。ここもまた印象的だった。
原作では、アルバートがどの時点で「生きて贖罪の道を」という考えを固めたのか、はっきり読み取れるシーンがおそらくはない(作戦変更の時点でウィリアムの考えを薄々察し、ホームズの女王謁見の頃にはほぼ固まっているのではと推測しているが、確信は持てない)。
だがモリミュのアルバートは、おそらくこの時点ではまだ、ウィリアムの計画が成就したとき、共に死ぬつもりだったように私には見えた。それこそ、イエスと共に十字架につけられた罪人のように。そして、そんな死を見つめるモリミュアルバートの目を、贖罪に生きる道へ向かせたのは、マイクロフトであるように思う。
「橋」のシーンで、シャーロックが「同じ人を殺めた罪を負う者」だからこそウィリアムに「一緒に償いの道を探そう」と呼びかけることができたように、英国に対して永代の罪を負うホームズ家のマイクロフトだからこそ、同じく永代の罪を負うべきモリアーティ家のアルバートに「共に惑い続けよう」と語りかけられる。アルバートを変えられる。

短いが情報量の多い、そしてアルバートの重要なターニングポイントになるシーンだった。マイクロフトがアルバートを変えたように、シャーロックもきっとウィリアムを……と重ね合わせて希望を繋ぐことのできるシーンでもある。
ついでに言うなら、『空き家の冒険』で晩餐会の招待状を届けがてらマイクロフトの元に行き紅茶を飲むシーンをやるための伏線のようでもあり、いよいよOp.6をやってもらわねばという気持ちが強くなった。

今回のモリミュは、モリアーティ陣営個々人の心情を丁寧に描いており、原作を読んでいて想像で補っていた「余白」の部分にそっと色を置いてくれるような、丁寧な物語であったなとしみじみ思う。

ときに、全然関係ないことだが、このシーンでテーブルの上にティーカップがひとつ、しかもアルバート側にしかないのはなぜだろう。
来客にだけ出すならまだ分かるのだが、明らかにアルバート寄りに置いてあるように見える。
何かしらの含む意図や隠された意味があるのだろうか。
何かご存知の方がいらっしゃればお聞きしたい。

 

【刑事屋の歌~大英帝国の落日】
場面が変わって、毎回お楽しみのレストレード警部のパートがやってくる。
さすがに今回は話の流れ的に笑いを挟むことは難しいのでは……と思っていたが、それを可能にしてくれるからこその髙木レストレード警部である。話のシリアスさを壊さないままに、しかし観客がホッとできる時間を作り出してくれた。

刑事屋の歌は、前述の通りレミゼオマージュらしき部分があり、また「蝋となろう」のような韻を踏んだ言葉遊びも混ざる、軽快で楽しい歌だった。レストレードという人が、皆のホッとできる日常を守ろうとしているのだと、歌の雰囲気からも伝わってくる良曲だ。
客席降りの巧みさも、さすが! の一言であった。
ちなみに私は一度だけ引いた神席で、レストレード警部が私の目の前のお嬢さんに壁ドン(椅子ドン?)をするのを目撃してしまった。これは自慢である。
また、この直後のシャーロックに「申し訳ないって言ったか?」と絡むシーンや、221Bに届いた手紙をうらやましがるシーン、さりげないところで、話の流れを妨げない日替わりの小さな笑いを差し込んでくださる。
これは多分、派手なことをやって笑いを取るより、ずっと難しいことだ。
髙木さんは観客の視線や呼吸の取り方をよくご存知のすごい方なのだなという尊敬の思いを改めて強くした。

拘留中のシャーロックのプロファイリングのシーンでは、懐かしいOp.1のキャラクターのビジュアルも使われたボードが完全再現されていて、小道具さんのお仕事の丁寧さに感謝した。
そのボードを見つめながら、シャーロックが歌う歌。緊迫感があってどこかスリリングな旋律が、やがて一本の赤い糸を見つけ出し、「同じ地平」へ至る爽やかな旋律に繋がっていくのは、聞いていてワクワクしたし、引き込まれた。1幕終わり直前の大きな盛り上げどころに相応しいナンバーだ。
この瞬間を――同じ地平に立つのを、シャーロックも、我々も待っていた。
だが追いつかれたウィリアムの表情は決して晴れることがない。まだ、やっと並んだばかり。やっとスタートについたところなのだ。

変わって221Bのシーンでは、「ホームズを!」「ホームズを!」と押し寄せる民衆に、ウィリアムの目論見通り、シャーロックがこの国を照らす光として祀り上げられていることを感じた。
皆信じている。ホームズが戻れば何とかなると。
それはヒーローの待望というより、もはや神格化に近い域に達しているようにすら見える。
そのことに少しばかりの危うさを覚える中、ハドソンさんの歌が入る。ちょっとコミカルな部分もありつつ、しっとりと優しく見守るようなまなざしに溢れていて、そして一片の切なさも混じる歌だ。
皆が「ホームズ、私たちを助けて」と叫ぶ中、ハドソンさんは「シャーロック、皆を助けて」と呟く。
彼女にとっても、きっとシャーロックはヒーローには違いない。しかし民衆にとってのそれとは意味が異なり、ハドソンさんはどうしようもない彼のことも知っている。
どこからともなく颯爽と現れる白馬の王子様のようなヒーローじゃない。ダメなところばっかりで、でも時々優しくて、困っていたら手を差し伸べてくれる人。ハドソンさんにとってシャーロックは、きっとそういうヒーローだ。
そんなシャーロックへの親しみと、「私のヒーロー」への美しい祈りが込められた、温もりのある旋律が似合うのはハドソンさんだからこそで、今作の中でも個人的に特に好きな歌になった。

またこのシーンでは、221Bでシャーロックの帰りを待つ間の、一人でいるときのジョンの心情が言葉になって紡がれたのも嬉しかった。
「お前はお前を愛してほしい」の歌詞が的を射すぎていて、そのパワーワードぶりに撃ち抜かれたし、対等な友としてシャーロックを大切に思う気持ちが歌の端々にちりばめられていて、この人がいるからシャーロックはきっと大丈夫だ、という安心感があった。

 そしてウィリアムの裁きのシーン。
あまりにも鮮やかな6人斬りに、特別な歌声のことは勿論だが、歌いながらこのレベルのアクションをこなせる人がウィリアムをやってくれてよかった! と心底思った。
このシーンの雰囲気にそぐわない感想になってしまうが、シンプルにめちゃくちゃかっこよかった。
多分、すごく難しいことをやっているはずなのだ。なのにその難しさ、やりづらさを観客にまるで感じさせない勝吾くんは本当にすごい。

「血を浴び地獄へいざ行かん」の歌詞は、Op.4のときの「精緻な細工で築かれた謎の城」と同様、非常に荘厳な絵画的、もしくは物語的イメージを掻き立てられる表現で、荒野にひとり惑う美しい人が、罪の穢れに身を染めながらも曇りなき白刃を握り締め、気高く悲劇的に駆け抜けていく、そんな一枚の油絵のような重厚な情景が目に浮かぶようだった。

 さらに、いよいよ1幕クライマックスの、「大英帝国の落日」シーン。
原作を読んだ時から、モリミュはこのシーンをどのように表現するだろう、と思っていたが、アンサンブルさんが客席通路で口々に街の惨状を嘆き、叫び、まるで街角で出会った人に直接語り掛けられているようで、我々観客が舞台の世界に巻き込まれていくような感覚を味わった。
いつだってモリミュは私たちを、舞台を覗き込む観客のままにしておかない。私たちを舞台の一部として取り込みながら空間を作り上げていく。
ここでのシャーロックの歌にあった「スコアのままに」や「俺だけの音 掻き鳴らしてやる」の歌詞はこの作品がミュージカルであるからこその捻りのきいたフレーズなのが面白かった。

人々の期待と祈りが最高潮に達し、いよいよ「最後のとき」へ皆が向かおうとしているところで1幕が終わる。

今回、休憩をどこに挟むのだろうと思っていた(コミックスの巻が分かれている13巻と14巻の間くらいか、もしくは1幕をちょっと長くして「まだ間に合うだろうが!」まで引っ張る可能性もちょっとだけ考えていた)が、シャーロックとジョンの和解という大きなターニングポイントを次のシーンの冒頭に持っていき、観客をホッとさせないまま「いよいよ最後の事件のメインが始まる」という期待とも不安ともつかぬ感情が膨らみきったところで切るのは、とても上手いと思った。
一瞬も目を離したり気を散らしたりする隙が与えられない、濃厚な第1幕だった。

そろそろ「この感想ちょっと長すぎない?」と思っていらっしゃる方もいるかもしれないが、後半は私が力尽きてきてもう少しサクサク進んでいるはずなので、どうぞもうしばしお付き合いください。

 

【第2幕 ジョンとの和解~礼拝堂】
第2幕はシャーロックとジョンの女王謁見のシーンから始まった。
このシーンでは、原作でもシャーロックが謁見にあたって前髪を上げているが、モリミュでもまたシャーロックのウィッグが変えてある細かさが嬉しかった。

ジョンへの謝罪のシーンでは、ヴァイオリンが雨だれのようにぽつぽつ掻き鳴らすピチカートの音が、たどたどしいながらも言葉を選びながら心を伝えようとするシャーロックの心情にぴったりで、月並みな言葉になってしまうが、すごく良い曲だと思った。
ネクタイを直されるときにシャーロックが見せた満面の笑みも良かった。やっと二人がいつも通りに戻れたことが、こんなにも救いになるなんて。
一人で犯罪に手を染めたシャーロックと止められなかったことを悔やむジョンという構図は、一人で罪を背負う覚悟のウィリアムとそれを止められない仲間たちの構図にそのまま重なる。それゆえ、ジョンという友達の存在によって大切なことに気付けたシャーロックの姿は、ウィリアムもまた友達を名乗るシャーロックの存在によって救われてはくれないか、という希望に繋がっていく。

憂モリはこういう「重ね合わせ」が巧みな物語だ。必ずどこかに二重写しになる構造が隠されていて、それがあるときは繰り返され、またあるときは鏡写しとなり、ドラマを盛り上げていく。
シャーロックとジョンが良い関係を結び直せたこのシーンは、この先の展開への希望そのものだった。

謁見を終えたシャーロックを見送るマイクロフトの歌は、普段のマイクロフトの威風堂々たる、張りのある声を響かせる歌とは趣が違い、シャーロックという人間を愛する兄としての歌であったように思う。
この人は素直じゃないし、弟の前ではまるで少年のようなやんちゃさを見せるので、つい忘れそうになるけれど。でも実はシャーロックへの愛が深く、誰よりもシャーロックを大切に思い、自由であってほしい、幸せであってほしいと願っている人だ。
そんなマイクロフトの、めったに表に出さない感情も、ミュージカルなら素直に歌に載せて描くことができる。
この歌を聞いて、マイクロフトのことをより好きになった。

このシーンの、自分を蔑ろにするなと諭すマイクロフトに「あいつとは違う」と背を向けたシャーロックを見て、ジョンが嬉しそうな笑顔を浮かべるのも、すごく好きだった。下手に座った方は、あの素晴らしい笑顔を観られたのではないだろうか。

市民たちが「光あれ!」と歌う中、221Bに帰還したシャーロックが、屈託なく「ただいま」とハドソンさんに向かって言っている(声は出していないかもしれないが口がその形に動いていた)のもすごく好きだった。そして「おかえり」と笑顔で迎えるハドソンさん。
待望されるヒーローとしてではなく、一人の男として日常の中に帰っていける。それがシャーロックを支えるし、強さになる。さりげない「ただいま」の一言で、それを感じさせられた。(これも、屈託なく「ただいまー」と入っていく日と、ハドソンさんの顔を見て一瞬言葉に詰まったように固まるが、いつも通り迎えてくれていると分かって笑顔になって「ただいま」を言う日など、バリエーションがあるように見えた。決まったことを毎回繰り返さず、その場の心情が大切にされていて、彼らが「生きて」いることを感じた)

犯罪卿のこと――ウィリアムのことをジョンに話したときのシャーロックの歌も素晴らしかった。
「誰かに生きることを認めてもらえたなら 世界は美しく見える」。何て美しい言葉なんだろう。そしてNYでの場面――Op.5のラストをも思わせる。
謎ジャンキーで退屈を恐れて荒んでいた頃のシャーロックはもういない。大切な人に認められて、大切な人を認めたいと思う、人として成長したシャーロックがそこにいた。
ジョンが与えてくれたものを、ウィリアムにも与えたいと願う正の連鎖が起きていて、きっと世界というのは、こういう小さいけれど誰かのためにと願う心の積み重ねで変わっていくのだ、と素直に信じられるような気がした。
シャーロックが今度こそ道を誤らないと確信できたときの、ジョンの笑顔の見守るような穏やかさも好きだし、シャーロックとジョンの二人がハミングの歌い終わりでおどけるように顔を見合わせて笑うところまで、すべてが美しくて、最後の事件のクライマックスに向かう前の、清涼剤のようなシーンだった。

続く、ルイスとフレッドがシャーロックに接触するシーン。
このシーン、憂モリ原作では馬車の中である。
ならばなぜ、モリミュでは「礼拝堂」に場所を変えたのだろう?
傾斜の多いセットの中に馬車のセットを出しづらい、などの関係もあるかもしれないが、馬車をセットに頼らず表現することはいくらでも可能だ(それこそ、Op.2でそんなシーンがあった)。
正典の、「ホームズがメリルボーン通りで、モリアーティの差し金により馬車に襲われた」展開を踏まえての馬車というチョイスなので、我らが西森さんがそう簡単に狙いもなく場所を変えるはずがない。
ならばそこには、必然がある。
ここで思い出されるのが、『大英帝国の醜聞』のときの、アイリーンが犯罪卿との交渉のために訪れた礼拝堂だ。
あのときと同じ場所であると断定まではできないが、おそらくは同じ場所だろう。モリアーティ陣営が計画の中で時々使ってきた場所なのかもしれない。
もしこの場所が、あの礼拝堂と同じであるならば。
あのとき、シャーロックは「俺が守る。あいつを助ける」と言いながらも、打つ手がなくて犯罪卿に頼らざるを得ず、アイリーンの命運を託した。
そして今、同じ場所で、「他にできる人はいない」といって、ウィリアムの命運を託されることになる。
あのときは託す側だったのが、今度は託される側へ。
時を超えたキャッチボールのような、何て美しい構図になるのだろう。
そしてあのとき自分の力で目の前の人を救えなかったシャーロックが今度こそは、という成長の証であり、リベンジマッチでもある。
この「託す/託される」が繰り返される構図を際立たせるための、場所の変更及び礼拝堂というチョイスだったのでは、と私は思いたい。

 

【221B訪問】
ついにこのときが来た。
ウィリアムとシャーロックの5度目の邂逅にして、正典でも有名なあのシーンだ。

このシーンで印象に残ったのは、ウィリアムとシャーロックの表情だった。
原作のウィリアムもシャーロックも、このシーンでは基本的に険しく張り詰めた表情をしていて、口元に薄く笑みが浮かぶことはあっても、にこりと微笑むことはない。
しかしモリミュのこの二人は、時折だけど笑みを見せる。まるで友達と話すときのように。
ああ、そうか。この二人—―勝吾くんと平野さんが育ててきたウィリアムとシャーロックは、この場面で、友達との再会に笑うのだ。舞台を観ていて、そう思った。
そもそも、ドアがノックされたときの「どうぞー」の言い方もそうだった。身構えない、ごく自然ないつも通りの調子のシャーロックだ。彼が今迎えているのは、犯罪卿ではなく、困っている一人の依頼人であり友達なのだろう。少なくともモリミュのシャーロックについては、ここはそういう場面なのだと思う。
(※9/15追記 大千秋楽配信を見ると、「どうぞー」の前にシャーロックが深く息を吸って吐いていることに気付いた。やはりシャーロックにとっても平常心では迎えられない相手で、それでも平静を装おうとするところに、たまらぬリアルさを感じ、このシーンがより好きになった)

この場面を観て、2.5次元舞台の、こういうところが好きだ、と思った。
2.5次元の魅力は、「本の中の、画面の中の、あのキャラクターが肉体を持って3次元に目の前で存在している!」という感動だけじゃない。
2次元の世界の演出では感情を抑えて描かれていたキャラクターが、人間の肉体と役者さんの解釈を通して、原作とまるで違った、しかし納得の新しい表情を見せてくれる。情報量が一気に増えて、思いもよらなかった景色がそこに出現する。
2.5次元は多分、原作通りである必要はない。
原作を無視していいわけじゃ決してないけれど、表情まで何もかも全部その通りの再現である必要はない。それなら、舞台にして人間が演じる意味はない。
生身の人間を介したからこその物語に変わってくれる2.5次元舞台が私は好きだ。
「モリミュのこの二人はこうだ」という形を作り上げてくださって、それを私達に最高の形で見せてくださって、この作品をずっと見てきて良かったと思った。
この形を作り上げてくださった役者さんたちにも、最大級の感謝を送りたい。 

表情だけでなく、歌も勿論素晴らしかった。
台詞と歌の混ぜ方が絶妙で、これまでのウィリアムとシャーロックの数々の場面(特に列車内)でもそうであったように歌の応酬が行なわれ、テンポの良さの中にも探り合うような緊張感があり、この二人だからこその掛け合いだ、と思った。何度観ても、お互いが次に何と答えるのだろう、と息を詰めて見守ってしまう。
そして万感の「Why me?」。
モリミュなら絶対この台詞は外さないと思っていたけれど、本当に歌詞に入っていて嬉しいし、この台詞を聞いたときの胸が詰まるほどの切なさが、今でも胸に残り続けている。すごく、すごく良いシーンだった。

ついでに、公式で上がった写真から予想できた通り、今回のS席特典が、ウィリアムがこのシーンでシャーロックに渡した黒い方の封筒を模しているのが大変に心憎かった。
裏面に刻まれた文字を見て、Op.4のときといいセンスの良さしかないと感じたが、中を開けてみて驚いた。
S席特典のことなので詳細は伏せるが、中身がフォトカードであることは公式にも出ている情報なので言って良いだろう。
ウィリアムはこの黒い封筒の中身を「僕達が進むべき未来とは関係のない過去」と言ったが、まさかこう来るとは……!
これを見たとき、友人の前で「パンドラの箱みたい」と口走ってしまった。中身を見た人は、言わんとするニュアンスを何となく分かっていただけると思う。不幸と悲しみが覆い尽くそうと、箱の底にはあたたかい希望が残るのだ。

【モリアーティ邸の炎上~ウィリアムの手紙】
アルバートとモランの、モリアーティ邸での場面では、先にも述べた「襤褸のマントでゴルゴダの丘を上る救世主としてのウィリアム」が強烈だった。
だが、よく考えるとそうだった。原作でもこのシーンで、丘を上るイエスの姿のイメージが描かれていた。
何としてもここでウィリアムを丘に上らせよう、という思惑をビシビシと感じる演出だった。

アルバートの「生きなければ」の歌の凄まじさには圧倒された。己を最も深き罪を負う者と思いながら生きるのには、どれほどの覚悟が必要なことだろう。その思いの強さが、表情と声から滲んでいた。
マイクロフトが――「その罪深さを思わずに生きる日は一日たりとてない」という言葉が、アルバートの中の何かを変えて、「覚悟を負う覚悟」を持たせたのかもしれない。

ウィリアムの黒い封筒に導かれたシャーロックが貧民街に赴くシーン。
前述の「黒猫の鳴く場所」という捻りは、グダグダと考察などしてそこに込められたたくらみを察せられなくとも純粋にお洒落で、本当に、どうやってこれを重ねることを思いついたんだろう、と感心しきりである。
そして壁の中を探すシーンでは、隠し扉などに変えることもできただろうに、壁を壊せる(向こうに抜ける)ように作ってあったのが細かくてありがたかった。初見のとき「すごい! こんな工夫をしてくれるなんて!」と驚いてしまった。 

手紙を読むシーンは、胸を打たれた。
つらそうだったウィリアムが、穏やかな顔で――本来の彼らしい表情を取り戻して、優しい声で語りかける。
じっと座り込んで手紙を読むシャーロックと、少しずつ近付いていき語りかけ、そしてまた離れていくウィリアム。
歌だからこそ、手紙に込めた思いを旋律に載せて照れずに伝えられる。
ウィリアムを動かしてきたのは、決して憤りや悲しみばかりではなく、その根底に流れるのは祈り――この世界を良くしたいという純粋で切なる願いなのだと、この手紙の内容を聞いていて改めて感じた。取った手段がどうであれ、その祈りの尊さ自体が変わることはきっとない。

 手紙を読むシーンでは、ついついウィリアムを目で追ってしまいがちで、劇場でシャーロックの表情を見逃してしまったのを結構後悔している。円盤になったらしっかり確認したい。

ウィリアムはそこにあるものを「僕達が進むべき未来とは関係のない過去」と言った。
だが、シャーロックはそれを「過去」にさせまいと走る。暗い未来に光を灯しにいくために。彼の光になるために。

 

【ロンドン放火】
ロンドン市内で火の手が上がる中、『ホワイトチャペルの亡霊』でも出てきた市民のウッズさんが再度登場してくれたのは嬉しかった。原作でもこのシーンで出てきているので、モリミュならきっと、と思っていた。
火事を案じる者、貴族がどうするか見ものだと笑う者。一枚岩ではない市民が丁寧に描かれていたのも、さすがモリミュだと思った。
ここで全員が一様に「火事だ、大変だ!」となれるようなら、そもそもモリアーティ・プランは必要ないのだ。考え方も身分もバラバラで、それぞれに思うところのある人間たちが、それでもひとつの志のために団結していく。それこそがプランの目指す場所である。
短いやり取りではあったが、このシーンが入ってくれたことで、「貴族と市民が手を取り合う」シーンの美しさが増したと思った。

そして、フレッドの歌う「最後の舞台の幕は開いた もう誰も止めることはできない」というフレーズ。
今回のフレッドで一番良いなと私が思ったのはこのシーンだった。つややかな伸びのある歌い方で、でも張り詰めた緊張感もあり、止められぬ運命を前にしたフレッドの心情が手に取るように伝わってきた。
長江くんの歌いぶりに感動を覚えると同時に、この歌はモリアーティ陣営全員で歌う歌でもおかしくないような雰囲気なのに、なぜフレッドなのだろう、と少し考えもした。
だが他の誰でもなく、フレッドだから良かったのではないかと思うし(ルイスやボンドが一人で歌うのは少し違うような気がするし、アルバートやモランにはそこまでの心の余裕がなさそうな気がする。ものすごく感覚的なものとして)、もしかして『ホワイトチャペルの亡霊』でジャック先生のナビを務めていたように、今回もフレッドが街の様子を把握しながら仲間に次に向かうべき場所を指示していた可能性はあるなと思い(原作でもこのシーンのフレッドは屋根の上に登って街の様子を伺っていた)、いよいよ幕が開いた様子をすべて眼下に見ていたフレッドだからこその歌であるかもしれないな、などと妄想を膨らませた。
しかし、これらはあくまでも私の勝手な妄想である。なぜフレッドだったのか、どこかで語られることがないだろうかと思っている。

貴族と市民が自然と手を取り合うシーンも素晴らしかった。
初見のときから、何回観ても、その度に涙が込み上げてきた。
ウィリアムが目指した美しい世界の形――身分の垣根を越えて人が手を取り合う姿は、何て美しいんだろう。
市民と貴族のバケツリレーのシーンは、原作では見開きの大ゴマで描かれていた。
これはマンガだからこその見せ方で、舞台はマンガと違って手元をアップにできないからどう表現するのだろうと思っていたが、スローモーションと、同時多発的に何ヶ所でもその奇跡の光景が繰り広げられているのを観せることで強調され、なるほど! と思った。漫画表現から演劇表現への変換の仕方が本当に上手すぎる。
ついでに、火の粉が紙吹雪で表現されているのも、視覚的に引き込まれる演出ですごく良かった。

シャーロックとボンドの奇跡的なすれ違いが描かれるのも、何とも粋で美しいシーンになっていた。
燃え上がる街の中、風のように駆けていくその人の姿をボンドは見る。ウィリアムを救うため駆けるその横顔を見て、ボンドはきっと、かつてアイリーンを救うために彼がこんな顔をして奔走してくれていたことを知ったはずだ。
そして始まるボンドの歌。
これに驚かなかった観客はいないんじゃなかろうか。
ボンドの歌が途中、「シャーロック あなたは~」の部分から急に色っぽい艶を帯び、声の質が変わる。声の出し方や音域、響かせ方が明らかに違うのが分かる。
そして気付く。ああ、今ここにいるのは「ボンド」ではない。今、彼は――彼女は、「アイリーン」になっている。
姿かたちはボンドのままで、でも腕の動きのしなやかさや表情の色っぽさに確かにアイリーンを宿らせていて、あまりにも自然で、なのに劇的な変化だった。すごいものを観てしまった。こんなことができる人、せしるさん以外にいるだろうか?
今作で一番ゾクッときたのはこのシーンだった。
――しかし束の間のアイリーンは、すぐにボンドへと戻っていく。シンデレラの魔法よりずっと儚く。
いずれもし『空き家の冒険』がモリミュで上演されるなら、またせしるさんのアイリーンに会えるだろうか、と期待せずにはおれなかった。
原作では、ボンドの心情がここまではっきりと語られることがなかったので、こうして「ウィル君を/ウィリアム様を助けて」と思っていることが描かれたのも嬉しかった。
アイリーンにとっても特別なヒーローで「My dear detective」なシャーロックへの、今でも変わらぬ思いの溢れた歌だと思った。

 

続くシーンの、町の人々が助け合う様子を「信じられない」と言いながら見つめるフレッドの歌。
ウィリアムを尊敬し、信頼している彼から「信じられない」という言葉が出てくるのは些か意外な気もしたが、それだけこれは奇跡の光景であることの表れだと思うし、それだけ目を背けたくなるような現実を彼はこれまで見てきたのかもしれない。
美しくともウィリアムのいない世界のことを思い「怖いけど 苦しいけど あなたの示した道を」と歌うのにはグッときた。
これが正しい道だからとか、ウィリアムがそう望むからとかいう理性で感情を押し殺さず、「怖い」「苦しい」を素直に認めて、それでも進んでいこうとするところにフレッドの強さを感じた。観劇後数日経った今でも、自然と脳裏に浮かんでくる、今回個人的にかなりお気に入りの歌だ。

 

【橋】
クライマックスである「橋」のシーンについて、私は原作を読んでいても長い間、ルイスがなぜ「ここで見届ける」心境になれるのだろうと思っていた。
何とか納得できる答えを自分の中に見つけるまで何度も何度も読み返して、それでも「ルイスは本当のその選択を心から受け入れているんだろうか?」という思いがどうしてもほんの少し残っていた。
でも、モリミュのルイスを通して、その迷子になっていた思いがようやく着地したように感じた。
見届けるところに、ルイスは自分の役目を――ウィリアムから託された自分だけの役目を見出したのだ、と。
ウィリアムの死を受け入れているわけでは決してないだろう。でも、これまで目を背けて気付きもしなかった、自分に託されたものを受け取り、守ることを知ったとき、「見届ける」立ち位置が一番自分のいるべき場所だと、ルイスは思ったのかもしれない。
――これは繰り返すが私の勝手な解釈なので、違う考えの方もいると思うけれど。私はそう思った。

「託されたのはこの命」「生きよう」とモリアーティ陣営が歌うシーンは、スポットライトが各人の手元を美しく照らし出し切り取っていて、天才のライティングだった。
ウィリアムと共に罪で汚してきたはずの手が、まっさらな光に晒されて――それでも罪は消えないのだけれど――その手でお前はどんな未来を摑む? お前は今からどう生きる? と問うているように見えた。
Op.5が多分一番強く打ち出しているテーマ「生きる/生きよう」。それがストレートに歌われていて、聞く者の心を静かに揺さぶり、これだけ強いメッセージ性を持っているのに押しつけがましくない、耳と心に残る歌だと思う。
アルバートも、ルイスも、モランも、フレッドも、ボンドも。各々違う思いを抱えているが、それでも同じ「生きよう」という決意を今、胸に抱いている。
夜明けを間近に控えたほの白い空を思わせるような印象を受ける歌だった。

そして迎える、ヒーローと犯罪卿の対決。
民衆が見守る中、「英雄」が「悪魔」の元へ向かった。

このシーンも、何度観ても息が止まりそうになる。我々観客が、タワーブリッジ周辺に集められた民衆たちと同じ立場で、目撃者になっているような気持ちにさせられた。
そんな中でついに出てくる「悪魔は貴様だ!」である。

 急に舞台の話から思い切り私の妄想の話になってしまうので、この部分は別に読み飛ばしてもらって良いのだが。
原作の「悪魔は貴様だ、シャーロック!」という台詞を読むたびに、私はいつも思い出すものがあった、という話をさせていただきたい。
それは聖書の「荒野の誘惑」だ。

――「荒野の誘惑」は、イエスが荒野で何も食べずに空腹を覚えているとき、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と悪魔に誘惑されるというエピソードだ。
それに対してイエスはこう答える。「人はパンだけで生きるものではない」。そして最後に告げるのだ。「退け、サタン」と。
この話にはまだ続きがあるし、この説話の肝はキリスト教的にはおそらく「神を試してはならない」というところにあり、奇跡のパンで空腹を満たすことそのものの是非が問題なのではないのは先に断っておくとして。
それでも、人の肉体を持つものとしての本能に従って空腹を覚えたイエスに「石をパンに変えて食べればよい」と誘惑し、生物としての欲求をくすぐって苦しめる悪魔と、死が唯一の救いだと吐露するウィリアムに「お前の魂は死にたがっていても、お前は生きるべきだ」と、生き物としての生への欲望を思い出させるようなことを言うシャーロックが、どこか重なるように、私にはずっと見えていたのだ。
シャーロックの誘惑は、メシアとしてのウィリアムを試そうとするものではない。でもウィリアムがその誘いに乗って生きることを選んでしまったら、これまでの計画は最後の最後で意味を成さなくなってしまう。
荒野の悪魔もシャーロックも、「信念の成就のためには行うのが無理な(行なうべきではない)ことを言って、でも本当は心の底で欲しているものを思い出させる」という性質を持っている。そういうところが似ているように見える。
ときに今、私は「心の底で欲しているものを」と、本当はウィリアムが生きたがっているかのようなことを言った。しかしウィリアムの「もう死にたい」という言葉に嘘があるとは思っていない。死が彼の救いであるのは間違いない。
でも、言葉と心は一致しないし、台詞は時々嘘をつく。
ウィリアムの心の中の100パーセント全部が「死にたい」ではないとも思うのだ。
私が楽天家だから、こんなことを言えるのかもしれない。しかし、絶望と死に向かう気持ちに心の中の100パーセントを占めさせたまま生きていられるほど人は強くない。
それに、ウィリアムは「生にしがみつかせようと誘惑する」と言った。「しがみつく」はとても能動的な仕草だ。生きたい気持ちが欠片もない人は、そもそもしがみつく、つかない以前に、助かろうと手を伸ばすことをしない。ウィリアムの指先は、まだ「生」が届く場所にあって、本人にも意識の底の方でその自覚があったのではないかと私は思う。
その「生きたい」という気持ちをくすぐるから――本能が欲しているものへ手を伸ばさせようとするから、シャーロックはきっと悪魔なのだ。
――この「悪魔は貴様だ」という台詞については、人によって様々な解釈があると思うし(それこそ「つらい選択をしろだなんて酷いことを言う悪魔のような奴」という文字通りの意味かもしれない)、私もこれだけだらだら書いてしまったのは、自分の中でもすごく直感的かつ感覚的なものなので、他人に簡潔に説明するのが未だに難しい思考であるからなのだけれど。
突然こんな話を長々と挟んだのは、モリミュを観ている間もまた、この妄想を思い出したからなのだ。
シャーロックの誘惑を毅然と撥ねつけるウィリアムは、退けと悪魔に命ずる救世主の姿のようであった。……という、この一言を言いたいがために脱線させていただいた。お読みくださった方はありがとうございます。

話を戻すが、この橋落ちのシーン、心底感心した。
なるほど!!! と思った。
『ジャンプSQ』2023年9月号で西森さんが「演劇的な裏切りを用いた演出」と仰っていたのは、この辺りのことかなと推測しているのだが。
舞台演劇というのは、ないものをあるように見せかけられるし、「大胆な空間の嘘」――たとえばちょっと歩いて、くるりとUターンすることで別の場所に移動したことになる、というような――が許される。
橋落ちのシーンは、それこそワイヤーを使う案や、宙に浮かんでいるように見せるよう黒子が人力で支えるなんて案もあったかもしれない(映像というのも案としてはあった可能性はあるが、モリミュはその手法を選ばないんじゃないかという確信に似たものがある)。
その中で、先に述べた「大胆な空間の嘘」として、「上下が逆でも成立する」ことを利用したのだなと思った。

心象風景とも見える空間で、頭上に川面が迫る中、ウィリアムは死の誘惑を少しずつ振り切って、シャーロックの方へと自ら歩み寄っていき、手を伸ばす。
そしてウィリアムを抱き締めたシャーロックの「やっと捕まえたぜ」の声の、何と優しいことか。
シャーロックに抱き締められ、抱き締め返すウィリアムについては、もしかすると賛否あるかもしれない。私も初見ではびっくりした。だって、原作のウィリアムはあんな風にシャーロックを抱き締め返さないのだから。
でも結論から言うと、私は断然「あり」だと思った。
あれが半分心象風景のような空間だから、というのもある。
だがそうでなくともずっとずっと、ウィリアムはシャーロックに捕まえてほしいと思っていた。
それがやっと叶った今、どうして何もせずにいられるだろう。
ウィリアムの心は、きっとずっとこうしたかったんだ。少なくとも、モリミュのウィリアムにとっては。私はそう受け取った。
狂おしいほどに美しく、切ない、そしてモリミュらしい「橋」のシーンだった。

ときにまた妄想の話になってしまうが、私はOp.4の「謎の城」という言葉を聞いているうちに、こんなことを考えたことがある。
「謎の城の高みに『同じ地平』があると信じて上り続けた男は、地の底より低き場所へ飛び込むことで『同じ地平』をつかまえるのだ」と。
歌詞の「どれほどの高い謎の城を登ろうと」のワードに、多分同じくOp.4にあった衝撃のマクベス「きれいはきたない きたないはきれい」に引きずられた思考も絡んでいたかと思う。「きれいはきたない」なので、高いところにいるはずの人は、落ちていくことでしか見つけられないのだ、というような思考がフッと頭の中に湧いた
そんな考えを得たことを今回の橋落ちのシーンを観ながら思い出し、そして今回のテーマであろう「生きる」を重ね合わせたとき、思った。
そうだ。天地が逆なのは、彼らが「死ぬために」落ちていったからではない。
ウィリアムはともかく、シャーロックは「生きるために」飛び込んだ。
その逆説的な展開を視覚で伝えるために、上下が逆になったあの演出になったのではないだろうか? と。
――何度も繰り返して申し訳ないが、これは本当に私の思い付きと直感の感想なので、ここに書いたことは大間違いかもしれない。
どうぞ私の言っていることを信じすぎず、あの場面に違う意図を感じ取った人は、それを正解としてほしい。
そしていつか西森さんのお言葉で語られはしないかと待っていたい。

話を戻すが、ウィリアムの歌の中に「心の部屋」という言葉があった。
「心の部屋」は西森さんが生み出した、モリミュの大切なキーワードだ。
そこにあたたかな風が吹くのを、あの瞬間、多分皆が感じたと思う。
風が本当に吹いてくるような、やさしい歌声。この人はこんな声が出せるんだ、と思った。

私は以前の感想で、鈴木ウィリアムの歌声を「青天に響く鐘の音のよう」と喩えた。
彼の声は鋭く高らかに澄んでいて、しかし厚みと質量があり、反響しながら遠く、遠くにまで届いていく声だと思っている(ちなみに一緒に観劇した友人は「トランペットみたい」と言っていた。すごく分かる。やはり鐘とか金管とか、そういう印象の声なのだ)。
それはずっと今でも変わらず、有機的なのに金属質なところを感じさせる、その無二の歌声に魅了され続けてきた。
だが、橋から落ちながら「心の部屋」の歌を歌っているときのウィリアムの歌声ときたらどうだろう。
これまで感じてきた彼の声の魅力はすべて内包したままに、そこに激しさや勇ましさではない、どこまでも深く尊いもの――言葉にできないのだけれど、もし言葉をひとつだけ選ぶならきっと「愛(アガペー)」が一番近い――を感じた。
とんちんかんな喩えを急に出して、共感してもらえないかもしれないけど、パイプオルガンみたいだった。荘厳で、深みと神々しささえ備えていた。
あの歌声は、これまでシャーロックとほんの僅かな逢瀬の中で誰よりも心を通わせ続けてきた今のウィリアムだからこそ出てくるし、4年半にも渡ってウィリアムを己に重ねてきた今の勝吾くんだからこそ出せたと思う。

今回のパンフで「橋から落ちるための物語ではない」という言葉があり、モリミュのそういうところに信頼がおけるとしみじみ思った。
だがそれはそれとして、「ライヘンバッハの滝」のシーンに相当する「橋」は、やはり見ごたえのあるものであってほしい。
そんなファンのわがままな欲望に応える、見事な「橋落ち」だったと思う。

 (※9/15追記
このシーンを配信で観ていて、ふと気付いたことがあった。
原作では、シャーロックの「お前は俺の友達だからな!」という台詞がきっかけでウィリアムの目に光が戻っている。シャーロックは「名探偵」という役(ロール)を与えられてここまで来た。だがその役割を超えて、役割から解放された関係性――対等で心通じ合う「友達」として来たことが分かったから、ウィリアムの心を動かし得た。
しかしモリミュではその台詞の際、ウィリアム側に目に見える変化はなく、むしろ落ちながら発された「言ったろ 俺はお前を捕まえるって」が決定的なターニングポイントになっているように見えた。その台詞をきっかけに、ウィリアムが死の誘惑を振り切って、まるで泣きそうな顔をしながらも歩み出すのだ。

――この「きっかけ」の部分が変わったのは、腕を摑まれた宙づりの状態では客席に表情を見せるのが難しいから、という理由もあるだろう。
でもそれ以外にも、きっと何かしらの演出的意図があるのだと思う。
その意図を私は読み切れていないのだが、おそらく「ウィリアムの最大の願いが『君に捕まえてほしい』であるから」だろうかと考えた。
ウィリアムはずっとその言葉を口にしてきた。「Catch me」と。そこに最初にあったのは、探偵役として犯罪卿を捕まえてみせろという挑発であったかもしれない。
しかし、きっと次第にその意味はどんどんと変容していった。含むものが多くなっていった。
同時にシャーロックにとっても。最初は探偵として謎を全て解き明かすことが捕まえることと同義であった。
しかし「捕まえる」という言葉が目指すところが、単なる謎解きで終わるものではないと気付き始めたはずだ。
そして今回、モリミュで発されたシャーロックの「言ったろ 俺はお前を捕まえるって」。
その「捕まえる」の言葉の意味するところはきっと、シャーロックの歌の歌詞にもあった「その凍えた魂まで 俺は抱きとめてやりたい」なのではないだろうか。
そしてシャーロックのそんな思いをウィリアムも感じたからこそ、あそこでやっと死の誘惑から逃れて歩き出せたのではないか。
「本当の意味で君が捕まえてくれた/俺の望む形でお前を捕まえた」。その思いが通じ合った瞬間をこそ、最大の盛り上げどころにしたいという意図があって、あの台詞が「きっかけ」に変わったのではないだろうか、と私は何となくだが推測している。

だが私には思いもよらない、聞いたときに「ああっ!」と叫んでしまうような深い意図が込められているような予感がしているので、この部分についてはぜひ、西森さんの口から語られる日を待ちたいと思う。
(※追記終了)

【夜明け】
太陽の沈まぬ国・大英帝国の、長い長い夜が明けるときが来た。
闇の象徴であった犯罪卿が、名探偵の手によって滅び去ったのである。

「滝壺のごとき川底へ」というドキッとする歌詞があったが、一番ドキッとしたのは歌う民衆の表情だった。――民衆のうち少女二人以外の全員が、弾けんばかりの歓喜の笑みを浮かべているのだ。
手を取り合って喜ぶ貴族と市民たちの姿が見られる美しい世界のはずなのに、人の死を前に歓喜しているという一点において、グロテスクにすら見えるシーンである。虚ろな目で空を見つめるモリアーティ陣営の皆の表情の痛ましさが、そのグロテスクさを増幅させる。
このシーンについて、原作とこれほど大きく変えてくるとは、と最初は驚いたし、一瞬だけ違和感を覚えもしたが、これでいい、いやこうでなくてはならないのだとすぐに思って、その意図するところを察して震えた。

これに関して、2度目の観劇を終えたときに、ツイッター(X)をフォローいただいている方と幸いにもお話しさせていただく機会があり、「民衆が喜ぶこの結末になってこそ英雄譚は完成する」とおそらく同じことを感じていらっしゃって、やはり「これでいい。これでこそ」なのだと確信を強めた。

 ――原作では、犯罪卿と名探偵が川底に落ちていくのを目撃した民衆は、それぞれに目を背けたり、衝撃を受けたような反応を見せたりしている
だがモリミュの民衆は、「見たか 悪魔は死んだ 犯罪卿は死に絶えた」と喜び、名探偵が犯罪卿を倒したことを喜ぶのみである。
この民衆の身勝手さは、舞台裏を知っている我々からすると些かショッキングだ。人の死を見て、なぜそんな反応ができるのだ、と思う。
しかし、「英雄譚の完成」のためにはこれでいいのだ。
ウィリアムの仕立てた「劇」の中で、犯罪卿は「国中から嫌われる悪の化身」の概念であり、同時にシャーロックも「悪を倒す英雄」という概念である。どちらもそういう「役」が与えられていて、それを全うすることでウィリアムの演出した劇は完成し、大成功のうちに幕を下ろし得る。
ならば「役」の裏にある素顔――「誰よりも心を痛めてきた義賊である犯罪卿ウィリアム」や「英雄である前に一人の人間である悩みも苦しみもするシャーロック」を民衆に知られてしまうのは、仮面が剥がれたも同じこと。「劇」の失敗を意味してしまう。
犯罪卿はどこまでも憎まれるべき悪であり、名探偵は勇敢な英雄でなくてはならない。
英雄は英雄として絶対の存在になってこそ、伝説として昇華される。
平和と引き換えに英雄を犠牲にしてしまったという苦みを、民衆は感じてはならない。感じさせたら失敗なのだ。
(こういう言い方をして、原作の描き方の否定のように見えてしまったらいけないので補足しておくなら、原作の描き方は言うまでもなく当然正解でしかあり得ない。原作では、人が目の前で落ちていくショッキングな光景を目撃した人間の「リアル」が描かれている。だがモリミュは正解を別のところに作り、これが演劇作品であるという特性も活かしつつ、より「犯罪卿の劇」の効果が高く見える方法を選んだ、ということだと思う。モリミュの世界にだって、人が落ちていく光景にショックを受けている人はいただろう。しかしそれを「見せない」選択をモリミュはした。それでも、全員が一様に喜んでいる異様さは確かにあるので、そこで二人の少女――まだ「役」を通して物事を見る目を持たぬ無垢なる者たちに、凱歌を歌わせず喜ばせもしないというラインでバランスを取ったのではないだろうか)

そして、もうひとつ思うのは、民衆があれほど喜べるのは、「名探偵だけに戦わせたとは思っていない」からだろう、ということだ。
民衆は皆、自分たちが手を取り合って戦ったから火が消し止められた、街を守れた、悪魔のたくらみを打ち砕けたと思っている。自分自身を戦士だと誇りに思っている。
そして彼らにとってシャーロック・ホームズとは、自分たちの代表であり、共に戦った中でも一番勇敢だった同志、という位置づけなのではないだろうか。
民衆にとってホームズは「私たちの代わりに死んだ生贄」ではない。「共に戦った仲間」なのだ。
この勝利は、英雄ひとりの勝利ではない。我々全員が勝ち取った勝利だ。だから民衆は喜べる。喜ぶ権利を持つのだと思う。

 原作とこれほど違う民衆の姿を描くことに、迷いもあったかもしれない。
しかし敢えてこの見せ方を選んだこと、本当によくぞ決断してくださった、と私は思った。
だがそうは言いつつも、いきなりこれをやられていたら、ちょっと戸惑いはあったかもしれない。これは初演からOp.4まで積み上げてきた「モリミュなら適当なことは絶対やらない」という強い信頼があってこそ成功した改変であると思う。

【3か月後~屋上】
3か月後のシーンでは、絶対にやってくれると思っていたルイスの眼鏡オフや、髪を耳に掛ける仕草があって、モリミュなら大丈夫だと思っていたが、やはりちゃんと観られると安心した。
こういう、ファンがすごく大事にしているシーンを毎回絶対に外さないから好きだ。

だが、どうしても一点だけ、分からないことがある。
それはルイスとマイクロフトの会話の中で、モランの行方について触れられなかった理由だ。原作ではこの時点で、モランは既に失踪している。
私が今勝手に推測しているのは、「失踪を語らせるとそこに新しい物語が生まれて、消化不良の部分を残してしまうことになるので敢えて削った」説と、「NYのシーンが控えているので、やさしい終わり方にするために苦みを隠した」説だ。
本当は「『空き家の冒険』をやる予定がないので気を持たせるような伏線を排除した」説も考えはしたが、ここまでやっておいて空き家をやらないで終わったら、アルバートとモランが救われないので、空き家は絶対やってほしいから、この説は個人的願望により却下だ。
どういう狙いで削られたのか、「多分こうだろう」という予想が一番できなかった部分なので、ここまで書いてきた「いずれ知りたい」の中でひとつだけ質問が許されるなら、このモラン失踪への言及をなくした意図が一番知りたいなと思う。

民衆が「ここは大英帝国」という聞き慣れたメインテーマの歌詞を歌う中、ウィリアムとシャーロックに残された各々が思いを歌い上げ、『最後の事件』は完結し、「シャーロック・ホームズの物語」はひとつの完成を迎える。
最初から最後まで、見事すぎる構成だった。
これが演劇作品であること、ミュージカルであることを存分に生かしつつ、こんなに見せ場ばかりの話をダイジェスト的にすることなく、無理矢理詰め込んだ感がないのにしっかり全部網羅して、観客の気持ちと集中力を3時間とらえ続けて離さない。
心の底から魅了されたし、これからもずっと大切にしたい作品だと思った。

 ――しかし、ここで終わらないのがさすがモリミュだった。
まさかNYの屋上のシーンが入ってくるなんて。
でも、これは「橋から落ちるための物語ではない」から。
その先、どう償っていこうとするのか、どう生きていくかを問うてこそだから。
このシーンが入ったのが、すごくすごく嬉しかった。

「どう歩くかさえ分からない」と心細げな声を出すウィリアムの片足が、私が観た日は地面についていなくて、本当に立ち上がり方さえ分からぬように見えて、後ろ向きで表情は見えないはずなのに、どんな顔をしているのか分かる気がした。
そんなウィリアムに「悩もう」と歌いかけるシャーロックの声の、何と力強くあたたかいことか。「どう歩くかさえ分からない」という言葉に「一歩を踏み出した」と返す言葉の、何とやさしく柔らかいことか。
これまでメインテーマ内でウィリアムが歌ってきた「血のごとき罪負いて」をシャーロックが言うところに、本当に同じ地平に立って、寄り添おうとしてくれているんだと感じた。
そして「生きよう リアム」とシャーロックは歌う。
このとき、後ろを向いていてはっきりとは分からないが、ウィリアムの口元が笑っているように見えた。
それを見て思った。きっと大丈夫だ。この二人なら。シャーロックが――生きることを認めてくれる人が横にいるならば、ウィリアムは生きていけるだろう。生きることを選べるだろう。
原作で、この先の展開は知っている。それでも感動的で美しい、ずっと苦しかった物語にやっと訪れた救済のシーンだった。

「この世界を」で始まったこの舞台が、「この世界を」で幕引きとなる美しさ、見事さにも心が震えた。
冒頭、ウィリアムが一人で悲壮なまでの覚悟を歌い上げた同じ旋律が、最後に二人で歌う場面では、何て明るい調べに変わるんだろう。
やさしく、希望のある終わり方だ。

この世に救いのないことがどうしたってあるからこそ、フィクションには、エンタメには、救いや希望がなくてはならない。
話の先取りをして、こんなにも美しく穏やかな気持ちで終わらせてくれて、ああ、良い物語だったと思った。
モリミュがここまで描くのを見届けられて、本当に良かった。

【それ以外のこと】
ストーリーに沿ってまとまりなく書いてきてしまったが、上記の中に上手く混ぜ込めなかった感想があるので、最後にそれらを拾っておきたい。

まず、ジャック先生のこと。
これは私も神席である下手前方に座れたから気付いたのだが、このOp.5、ジャック先生が舞台上にいらっしゃった。
暗転中、モリアーティ家の場面に合わせてソファやテーブルを運んで設置するアンサンブルさんが、ジャック先生の格好をなさっていたのである。
最初は貴族役のアンサンブルさんだろうかとも思ったが、何度も見かけるうちに、「いや、あんな白髪を束ねていて髭もある貴族、やっぱりいないな?」と確認し、ジャック先生だと確信を持てた。
暗転中のことなので、正直なところ、誰がやっていようがノーカンというか、市民の格好をしたアンサンブルさんがモリアーティ邸のソファを運んでこようが、それは「見えなかったこと」として観客は処理できるのだ。でもモリミュはそこに手を抜かない。
どなたがなさっていたのかまでは、暗くてよく分からなかったが、わざわざあのシーンのためだけに毎回ジャック先生の格好をしてくださったこと、そしてこのアイデアを最初に出してくださった方には、ものすごく感謝したい。
今回の話では今ここにいない、しかしいるはずの人の姿が感じられるのは嬉しいものだ。
この調子でヘルダーなども何とかならないか、と欲を出して贅沢なことをつい思ってしまう。 

あと今回印象に残ったのは、台詞を「かぶせる」シーンがちょいちょいある、ということだ。
例えば、計画の変更に異議を申し立てるルイスがまだ喋っている途中なのに「それ以上話を蒸し返すな」とモランが重ねたり、ウィリアムが「その足場は……」辺りまで言ったらシャーロックがそれにかぶせて「良いから剣を捨てろ!」と叫んだり。
本来、原作だともう少し長めに台詞が続くはずのところだが、それらに次の台詞が重なって消える場面がいくつか見受けられた。
そして、それらはいずれも、前の台詞が言い終わるまで待てない中で発せられた、リアルさを伴った「かぶせ」であるなと思った。「その足場は~」の台詞などは特に、言い終わりまで悠長に待っている暇があれば、一刻も早くウィリアムを引き上げたいはずなのだ。

原作の台詞を遮って消してしまうことを、好まない方もおられよう。しかし、状況に応じたリアルを台詞のタイミングに反映させていこうとするやり方を、私は面白いと思った。それでこそ、「かぶせた」台詞の中にある感情の質感もリアルさを増していく。
「この場面って、相手が言い終わるまで待つほど余裕なくない?」という生きた心情を、舞台の上で表現するのを許されている、それを良しとできる座組なのだなと思った。

そして今回改めて思ったのが、モリミュをこんなに楽しめているのは、モリミュ公式の力も大きいなということ。
観客として、ユーザーとして、公式に思うところがひとつもないわけではない。
でも、先行ごとのチケット販売の開始・終了のお知らせツイート(しかもビジュアル撮影風景を添えて)を必ずしてくださったりとか、Op.3のときは能う限りの早さとこまめさで公演の中止・再開情報を出してくださったりとか、円盤発売が近付いてきている告知とか、そういう「お知らせ」と「観客への共有」がすごくしっかりしている舞台だった。公演期間中は毎日、舞台写真を添えた「昼公演が終演」「夜公演が終演」というツイートが通知欄に現れるのを見て、今日も無事に公演が終わったことを知れてホッとできた。
それは公式が当然やるべき仕事であるのだから、別段褒めるところではないと言う人もいるかもしれない。だが、これだけこまめに情報を出し続けてくれる公式が心底ありがたいことを、舞台オタクの方々なら少なからず共感してくださるのではないだろうか。
どんなに作品が素晴らしくとも、公式がイマイチだと、もにゃっとした気持ちが残ってしまうことはどうしてもある。
その点、モリミュは公式のお知らせの速度や対応へのストレスが非常に少なくて、作品を楽しむことに集中できた。本当にありがたいことだ。
先にも述べた『アニメージュ』や、その他にも初演のときから毎回続いた『月刊ローチケ』の横川良明さんによるインタビュー、各種媒体での記事に至るまで、毎回「仕事のことが関係なくとも純粋にこの作品が好き」なのだろうと感じられる素晴らしい記者さんたちがモリミュの記事を書いてくださり、そういうところもモリミュのファンは恵まれていたと思う。
役者さんたちのインタビューなどを聞いている限り、プロデューサーさんのお力も大きいのだろう。
大好きな原作が、これだけ恵まれたスタッフに支えられて素晴らしいミュージカル作品になって、それを観客として享受できたことが本当に嬉しい。

あと、モリミュがよく「2.5次元舞台らしくない」と言われるのを見かけてきた。
2.5次元の定義は人それぞれであろうが、役者ありきではない「キャラクター性再現の重視」と「世界観再現の重視」が2.5次元における重要なファクターのひとつではないかと私は思っていて、その点、モリミュは実に「2.5次元舞台らしい」舞台だったと思う。
「キャラクター性の再現」については言うまでもない。役者さんがそれぞれに、回を重ねるごとに役への解釈を深め、「モリミュにおけるそのキャラクター」を確立してくださった。
キャラクタービジュアルの再現も、公演を重ねるごとに精度が増していった。
先日Op.5を観た翌日に友人と初演の鑑賞会をしたのだが(すごく楽しかった)、初演のときのウィッグは今と比べてワックスの固め方が強めというか、かなり「原作のビジュアルの完全再現」に特化していたのだな、と気付いた。
ウィッグが劇的に変わったと個人的に感じたのはOp.3のときだったが、あの辺りから、「原作で描かれた通りの形」ではなく「その場に生きている人間としてより自然な形」の方向にシフトしていったように思う。
現実にはあり得ない2次元のビジュアルを3次元に落とし込んで成立させる2.5次元の匠の技も大好きだが、より自然さを追求していって、3次元に普通にいてもおかしくなさそうなビジュアルなのに2次元の再現が見事に成されている2.5次元も好きだ。モリミュに合うのは明らかに後者だった。
カラーコンタクト不使用に関してもそうだけれど、より自然な方向に寄せていくことで、却って「原作のキャラが目の前で生きている」感が増していて、ビジュアル再現を崩さないギリギリのラインを保ちながら、本当に上手くやってくださった。
そして「世界観の再現」については言うまでもなかろう。
これがウィリアムの仕立てた「劇」であるという物語の特性を活かしつつ、暗示的なモチーフを配置したセット。
原作を丁寧に分解・再構築して情報を巧みに取捨選択し、必要な部分は絶対に削らず、しかもウィットに富んだ数々の仕込みで世界観を膨らませた脚本。
そこに生きる一人一人の民衆の感情をも疎かにせず丁寧に描き出し、「作中の世界」がそこに展開されているのを肌で感じた。そして観客を「劇の目撃者」として利用してしまうのだから、なおのこと「原作の世界観に包まれた」感覚は強くなる。
そういう意味で、非常に2.5次元的性格が強い舞台であった。

――だが、「2.5次元らしくない」と言う人の思うところがそこじゃないのは私もよく分かっている。言葉は悪いかもしれないけれど、2.5は「再現性の高さ」と引き換えに、多少目を瞑らなければならない部分が発生することもないわけではないし(そういう部分の成長を見守るのも楽しみのひとつではあるのだが)、やはりマンガ的な強くキャラクタライズされた人物が、そのマンガ的キャラクターの強さをそのままに演じるのこそ2.5次元の醍醐味、みたいなところはある。
(別に比較する何か特定の作品を思い浮かべているわけではないのでどうかおゆるしいただきたいのだが、という前置き付きで)その点、モリミュは主演を務められるレベルの方がプリンシパルに揃い、アンサンブルに至るまで全員もれなく歌唱力が安定していて、観ていて危なげがなかったし、先にも述べたように、キャラクター性は守りつつもビジュアルに限らず演技においても「より自然な方向へ」とシフトしていった。そう思うと確かに「2.5次元らしくない」のかもしれない。
だが、私はそれらを踏まえた上で敢えて「2.5次元らしくない」とは言わず、「2.5次元がやれる幅が、これだけ広がった」のだと思いたい。
2.5次元だからこうであらねば、という固定観念を打ち破って、こういう2.5次元もありじゃないか、これも2.5次元だ、と提示できる作品にモリミュはなったと思う。
全部の2.5次元が、そうなる必要は全くない。やはりマンガのような強いキャラクターがそのまま再現される2.5次元は楽しいし、シリーズを通して成長を発見できるのだって嬉しい。ただ、2.5次元だからと敬遠してしまう人が最初に手を出してみやすいのは、「そういう2.5次元らしさ」が薄い作品の方だろう。
2.5次元に通い慣れた人が楽しめるのは勿論だが、逆に2.5次元を知らなかったり2.5次元特有のキャラクター性の強さを敬遠したりしている人にも観てもらいやすい、門戸の広い作品にモリミュはなったんじゃないだろうか。

これからもモリミュが多くの人に出会って、愛される作品であり続けてほしい。

【おまけ】
前回のOp.4のときには、諸々追い詰められており余裕がなくて「次回にはきっと」と先送りしてしまっていた、各キャストへの感想も一言だけだが書いておきたい。
これほどの長文を読んできたのに推しへの言及が一言もなかったんだけど⁉ という方をがっかりさせないためのおまけパートである。

一言と言いつつ分量の多寡があるのだが、多い人はよほど今回感動して喋りたいことが多かったのだなと思ってほしい。

あと、途中から「『空き家の冒険』絶対やってほしい芸人」のようになっているが、仕様なので見逃していただきたい。
(※9/15追記あり。9/10にアップした際に書き損ねていたような細々としたところや、もっと語りたいと思った部分を追記しています。興味のある方は、間違い探しだと思って、推しの部分だけでも良かったらご覧くださいませ。各キャスト分、それぞれ一文くらいは何かしら足したはずだと思います)

【ウィリアム/鈴木勝吾さん】
勝吾くんをウィリアムに据えたのが、モリミュ成功のひとつの大きなファクターになっているのは、間違いないだろう。
唯一無二の高音の歌声は、余人の及ばぬ天才であるウィリアムのキャラクターにぴたりと嵌まる。
彼が高音を正確に当てるのを聞くと、手練れの狙撃手が遠くの的の中心を正確に撃ち抜くのを目撃したかのような快感を覚える。揺らぎを内包し、それでいて力強い。この声が、モリミュを導いてきた。

「『憂国のモリアーティ』のウィリアム」を演じられる役者は、この世界を探せば他にもいる。
だが少なくとも「モリミュのウィリアム」を、これほどまでに激しく、気高く、そして儚く、しかし可憐に演じられる役者は、この世界に勝吾くんをおいて他にいない。絶対に。
他の人が演じていたら、モリミュのウィリアムはこんな風になっていなかっただろう。

歌に関しては勿論そうで、他にこれを歌いこなせる役者はそうそういないと素人でも分かる。
だが、歌だけではなく。キャラクターへのアプローチも私はすごく好きだった。
鈴木ウィリアムからは、端々に「苦悩する人間らしさ」を感じる。
完璧に見えるウィリアムが持つ、弱い部分。仲間にさえさらけ出せなかった、心の揺らぎ。
そういう部分が、顰めた眉に、言葉を紡がぬときの唇に、伏せたまぶたの翳りの中にほんの僅かに滲むのを見たとき、どうしようもなく彼の演じるウィリアムを、ウィリアムそのものでしかないと思い、いとしく思い、これが舞台であることをしばし忘れた。

最初の方でもさんざん褒めたが、今回、ゴルゴタの丘を上っているのだと気付いた瞬間のあの衝撃がすごかった。
良い役者とはなんだろう。
役者になったことがない私が語るのもおこがましいし、様々な意見があると思うが、「身ひとつで、見せたいものを観客に正しく見せられる力を持つ人」を良い役者と呼ぶことにきっと異論はあるまい。
「正しく」と表現すると語弊があるかもしれない。観客の受け取り方は自由であるべきで、受け取り方に正解はない。
しかし、「こう見せたい」というビジョンを観客に見せられる、伝えたいものを過たず伝える力。それはきっと「良い役者」の大切な条件のひとつであるに違いないと思う。
そういう意味で、ゴルゴタの丘を上るシーンは、この人が本当に良い役者であることを改めて感じさせてくれる場面だった。
私は十字架を背負ったイエスの姿を、鈴木ウィリアムの中に見た。
素晴らしい演技で、私はきっとこの先も、あの衝撃を忘れることはない。

ときに私がモリミュの初演を見に行こうと思ったのは、元々原作ファンで、ピアノとヴァイオリンの生演奏なのが面白そうだったから、という部分が大きい。
だが実はもうひとつ理由があって、それは勝吾くんが主演だったからだ。
「シンケングリーンって、そんなに歌えるお方だったの?」という興味もあって、試しにチケットを取ってみよう、という好奇心が芽生えた。他の舞台作品でも何度か拝見したことはあったが、いずれも歌わない役だったのだ(歌うパートが全くないわけではなかったがミュージカルではなかったし本当に短い歌をちょっと歌うだけだった)。
今思うととんでもない無知で、しかしだからこそ、モリミュで出会い直したときの衝撃がすごかった。
上手いとかそういうレベルじゃない。これは「規格外」だ!
初演であの高音を浴びたときの衝撃は、未だに忘れがたい。本当にあの人から出ている声なんだろうか、と耳を疑った。
あのときから既に圧倒的なほどの上手さで観客を片っ端から虜にしていった鈴木ウィリアムだが、シリーズと公演を重ねるごとにその技術が上がっていき(さらに、それに伴って曲の難しさもアップしていって)、本当に文字通り空前絶後、不世出のウィリアムを見せていただいた。

以前、違う舞台(舞台「ちょっと今から仕事やめてくる」)で勝吾くんの演技を拝見したとき、そのお声を「ミステリアス」と評し、その役どころにぴったりだったと褒めたたえたことがある。
モリミュのウィリアム役もまたそのミステリアスさが活かされていて、特にOp.2くらいまでは「心を読ませない、捉えどころのない人」として、その謎の向こうにどんな思いがあるのだろうという好奇心を掻き立てられた。しかし謎深くありながらカーンと突き抜けるような爽快な響きもあって、大勢の心を煽動し得るカリスマ性も感じさせる。この声を持つ人がウィリアムで良かった、と思った。
これからも色々な役を演じられる姿を積極的に観に行きたい役者さんの一人だと思ったし、叶うならば、鈴木ウィリアムが揺らぎの中に己の進むべき道を見つける姿を観てみたいと思う。


【シャーロック/平野良さん】
ウィリアムの唯一無二の歌声に拮抗する力を持つ人でなければ、モリミュのシャーロックは務まらない。
その点、平野さんがシャーロックとしてモリミュの舞台に立ってくださったのもまた、モリミュ成功の大きな要因だろう。
クセが強くて、一音一音がクリアに聞こえる素晴らしい滑舌の持ち主で、鈴木ウィリアムと並んだとき、この人もまた違うタイプの天才であると感じさせてくれる圧倒的パワーがあった。

舞台のメイキングを観ていても、平野さんは感情の動きの整合性をとても大切にされる方だというのが伝わってくる。「この感情に至るためには、どういう段階がなくてはならないか。人はこういう状況に置かれたとき、まずどういう反応をして、何を思うか」というところをすっ飛ばさない人だから、動きの細部に至るまで説得力が半端ない。
そして多分、そういうところが周りにも影響を与えていて、舞台をより良いものに仕上げるのに貢献していらっしゃるんじゃないだろうか。
この人がいる舞台なら信頼できる、と思わせてくれる役者さんである。
あくまでもウィリアムが主役の原作と違って「ウィリアムとシャーロックのダブル主演」という形を取っていたモリミュにおいて、この人もまた屋台骨として座組を支えていらっしゃったのだろうということは想像に難くない。観客から見ていても頼もしい存在であった。

ロジカルに演技を組み立てる平野さんだからこそ、身分への忖度で真実が捻じ曲がることを嫌い科学捜査の必要性を感じるシャーロックという役がぴったり嵌まったと思う。
役者さんというのは、自分と全く違う性質の人間を自分の中に宿らせることのできるすごい方々であるけれど、やはり元々の性質にどこか共通するものがある役を演じていらっしゃるとき特有の、「この人が演じたからこそのぴったり感、説得力」というのは観客にも分かるもので、その点、シャーロックという役は平野さんと運命的に引き寄せ合うところがあったんじゃないだろうかとさえ思った。

初演からずっと、人間として成長し続けるシャーロックを観客は見守ってきた。
こんなにも見守りたいと思える、愛されるシャーロックになったのは、平野さんの愛嬌のある演技あってこそだろう。
私はOp.2の「あいつは俺が守る」と歌う姿で平野シャーロックに完全に落ちたクチだが、Op.5のシャーロックはあのときを思い出させるところがあって、しかしずっと逞しくなっていた。その成長を嬉しく思うと共に、もっと好きにさせられた。
鈴木ウィリアムのことを唯一無二で不世出と褒めたが、平野シャーロックもまた工夫と向上の人で、他の人が真似できない、この人が演じたからこそ形作られたオンリーワンのシャーロックだった。

大千秋楽では、ウィリアムからの手紙を読んだとき、かつてないほど涙を流していらっしゃったので驚いた。
激しい、情の深いシャーロックを見せていただいたと思う。

【アルバート/久保田秀敏さん】
久保田さんのシュッとしたお顔立ちに、アルバートという役は何とよく似合うことだろう。
その佇まいや仕草の洗練された様に、毎度心を奪われてきた。
前回、久保田アルバートの歌声を「木管楽器のような」と喩えたところ何ヶ所かで同意をいただけたようで大変嬉しかったのだが、耳に柔らかく馴染むようなふんわりした感触を持ちつつも深みを持って響くこの声が、私はとても好きだ。

Op.4から、ウィリアムとまた別のベクトルのつらさを抱えてきたアルバートを、久保田さんはとても繊細に、丁寧に演じてくださった。だからこそ、アルバートが前を向けるようになる話――『空き家の冒険』がモリミュにもなくては嘘だ、と思う。
もし公式がこれでシリーズが終わりだと言うことが万が一あろうと、久保田アルバートが再び笑みを浮かべられる日が来るのを見ずして、私のモリミュは終われない。

Op.5の最初の方の公演では、マイクロフトが訪問した際に罪を告解するアルバートがぼろぼろと涙を流していたのが印象深かった。その後、東京公演のこの場面で最初の頃ほど泣いている姿を見かけなかったように記憶していたが、大千秋楽配信を確認するとやはり一筋の涙を流していらっしゃった。
私は、アルバートというのは人前だけでなく一人でいるときにすら己が泣くことを許さない人のような気がしていたが、久保田アルバートの涙を見てハッとした。あの瞬間のアルバートはとても人間らしく、「悪の化身であるモリアーティ家の当主」の仮面が剥がれた一瞬を目撃したような気持ちになり、あの涙によってアルバートというキャラクターに、より深みが出たのではないかと思う。

ときに、女王の前で跪く動作が一番流れるようで綺麗だと個人的に感じたのは、久保田アルバートだった(私の贔屓目かもしれないが)。
Op.2のときの感想で、「久保田さんは前世がアルバートだったかもしれない」などと書き、我ながらなかなかトンチキ極まったことを言ったなと後から反省したが、今回、やはりこの人は本当に前世がアルバートかもしれないと改めて思った。完璧すぎる。

【ルイス/山本一慶さん】
私はいつも心ひそかに、一慶くんのことを「万能の人」と呼んでいる。
歌は上手いし、演技も上手いし、演出まで手掛けてしまえる。この人は、できないことがないんじゃないか。本当に何でもできるすごい人だ。

今回もその万能ぶりは惜しみなく発揮されていて、過去作でもそうであったように苛烈さを持ちながらも瞳に理知の光を失わず、常に動きに無駄がなく、しかもどこまでも美しい、完璧なルイスを見せていただいた。
初演のときから安定して上手さを発揮し続けてきた山本ルイスだが、シリーズが重なる度にリミッターが外れてきたというか、「まだまだいけるぞ!」というところを見せつけられてきて、この人の底知れなさをいつも感じてきた。
歌うまキャストが揃っている中でも、抜群の安定感。あの鈴木ウィリアムの弟役だという説得力がありすぎるほどある、勝吾くんとはまた違ったタイプの、異質なくらい歌声に独特の魅力を持つ人である。
この細い体のどこからこれほどの声量が溢れ出て、どこに響いてこんなにも美しい調べとなるのだろう。
楽器シリーズの喩えを続けるなら、私の感覚で山本ルイスは弦楽器――ヴィオラかチェロだなと思っている。
つまりは「金管のウィリアムと、木管のアルバートと、弦楽のルイス、三兄弟でオーケストラが完成するのだ」という妄想だ。

私の妄想の話はさておき。
山本ルイスの立ち居振る舞いも私は大好きで、特に椅子に座るときにさりげなくジャケットのボタンを外し、立ち上がるときにはサッと留める、その如才なさが特にいいなと思っている。
何をやらせても様になる、素晴らしいルイスだ。

新たな「M」となったルイスが、それまで常にウィリアムが立ってきた位置――堂々の0番ポジションに立ち、座組の中心となって歌う姿には、ぐっと来るものがあった。
彼が主導となって新しい組織を率いていく姿は、どれだけかっこいいことだろう。
何度もここに帰結してしまうが、やはり何としても『空き家の冒険』がほしい。

なお、全然違う舞台の話を出してしまって恐縮だが、前回のOp.4を観に行っていたよりによってその日、舞台『吸血鬼すぐ死ぬ』(通称・しぬステ)のキャスト発表があり、一慶くんがドラルクを演じると知って大層驚いて「どうなるの⁉」と思ったのは今も記憶に新しい。
半田を吉高志音くんが演じるということもあり(セロリの歌が白眉だった)、興味本位のまま配信でしぬステを観た。
万能の人の万能が遺憾なく発揮されていて、こういう路線も演じられるから本当にすごい人だ、という思いを強くした。今度は一慶くんのストレートプレイの舞台も観に行ってみなければと思っている。
そして私は友人に「『僕はこの世界を~』のルイスの動きにちょっと笠舞歩(劇団ドラマティカのときの一慶くんが演じた役)を思い出した」と言われて以来、その呪いが解けないままなので、呪いを共有しておきたい。舞台の中央で、堂々と両腕を広げながら歌う姿が、本当に似合ってしまう人だ。

【モラン/井澤勇貴さん】
初期の頃は、ヤカラっぽさや気さくさの占める割合が比較的多かったように感じる井澤モランだが、シリーズを重ねて話が進むごとにウィリアムへの誰よりも深い忠誠心を表に見せるようになり、印象を変えていったように思う。
甘やかで艶がありコブシを利かせるのが得意な歌声は、モランのやるせない心情を歌い上げるのにいかにも似つかわしい。

あまりハプニングを面白がってもいけないのだが、私が観劇した回で、モランが歌をすっ飛ばした日があった。
2幕終盤の、全員がそれぞれの思いを歌い上げるシーンで、本来モランが歌うパートにピアノの伴奏だけが流れる謎の空白があり、続くフレッドの歌からいつもの流れに戻っていったが、その後もモランは下を向いたまま歌おうとしなかったのだ。
ウィリアムを失った世界を生きなければならないモランの心情を慮るとあまりにも自然だったので、一瞬、こういう演出だったかと思ったほどだった。
驚きもしたが、本来あの場面でモランは既に姿を消しているはずなので、あれでも話に矛盾が生じず演出として成立してしまうというのが凄まじいし、感極まって歌が出てこなくなったとしても、それはモランの感情としてあり得るひとつの正解の形に違いない。
モラン役ならば誰でもあれをやって成立するとは思わない。あれは「これまでずっと演じてきた井澤くんのモランだからこそ」、そこに意味を持たせられたのだと思う。
これほどまでにモランの心情に寄り添い没頭できる人ならば、素晴らしい『空き家の冒険』を演じてくださるに違いない。
同じ言葉を繰り返してしまうが、やはり『空き家の冒険』まではモリミュになくてはならない。このモランが救済されずに終わるのは、あまりにも寂しいではないか。

舞台の外のことにはなるが、今回、井澤くんがカメラで皆さんの稽古の合間や舞台裏でのオフショットを沢山撮影してくださっていて、SNSでそれを拝見できるのを楽しみにしていた。
多才な方であるなと思ったし、いずれも皆さんの素敵な表情を引き出した写真ばかりで、こうしてファンに共有してくださったことをすごく感謝している。

【フレッド/長江崚行さん】
私は初代フレッドの赤澤遼太郎くんが大好きである。あの天才的なまでの笑顔のかわいさやキリッとした青年らしさを愛している。
なので、よりによってフレッドがキャスト変更となったときは動揺した。
2代目の長江くんのフレッドをちゃんと好きになれるだろうかと、観るまではちょっと心配していた。
だがOp.4の幕が開いてみると、長江フレッドの頑張りが伝わってきて好感を持ったし、Op.5では掛け値なしに「すっごく良かったー!」と思った。
元々長江くんのファンの方々、その魅力に気付くのが遅れてすみませんでした。彼のフレッドは本当に素晴らしかったです。
Op.4を経て、この既に出来上がっている座組の中で、どのくらい自由にやってもいいのかが摑めたのも、多分大きかったのだろう。
Op.4のときよりずっとのびのびと演技をしていらっしゃる印象を受けて、心にストンと入ってくるような素朴で親しみの持てる、しかし熱い部分も持ち合わせたフレッドだった。

カークランド伯爵邸での、声を震わせながらウィリアムを説得しようとする場面の演技は日に日に熱を帯びていって、その震える声にこちらの心も震わされた。あの熱演を目の当たりにして、どうして好きにならずにいられようか?
それ以外にも、場面転換の暗転時、ジャック先生と共にモリアーティ邸のソファやテーブルを運ぶ役目を担っていたのは多くの場合フレッドだったが、まだ場面は暗いのに、ソファを運んできた後ウィリアムが座ろうとすると会釈するフレッドの姿が見られたのもすごく好感度が高かった。
長江フレッドならばきっと、『空き家の冒険』も立派につとめあげてくださるだろう。Op.4と5だけで終わってしまうのはあまりにも惜しい。もっといろいろなエピソードの中で、長江フレッドを観てみたいと思う。

私は大千秋楽を配信で観たが、「最後の舞台の幕は開いた~」の、大千秋楽の歌い方が最高に好きだった。
前半はどこか不安そうな、悲しそうとも見える切ないニュアンスを漂わせているのに、「もう誰も」のところで一度目を閉じ、「止めることはできない」と歌いながら目を開けるとき、その顔に宿っているのは力強い決意の表情に変わっている。
ここの歌い方は大阪から随分と変わったなと思う部分で、どう表現するかを探究し続けてくださっていたのだろう。
最後に見せてくれたこの形が、私はこれまで見た中で一番好きだった。この回が円盤に残ってほしい。

【ボンド/大湖せしるさん】
Op.4にはいなかったボンドが戻ってきて、それが他ならぬせしるさんで、本当に嬉しい。
前にも言ったが、宝塚の男役と女役両方を経験なさったからこそのボンドの説得力の強さは、およそ余人の持ち得るものではない。
せしるさんをおいて他にモリミュのボンドが務まる者は当代いないだろうとつくづく思う。

私はこの方のことを好きすぎて、却って言葉が上手く出てこないのだけれど。
モリミュに限らず他の出演作に対しても、いつも作品と役を深く愛している様子を見せてくださるのを尊敬しているし、嬉しく思う。
こんな風に生きられたらと、女性が憧れることのできる女性だと思っている。
Op.5のパンフを読んだとき、「男役の引き出し」のお話をされていたのがとても印象的だった。確かに、せしるさんのボンドからは男役経験者だからこその堂に入った身のこなしや視線の配り方を感じるが、完全な男役仕草をなさっているわけではなく、あくまでも「アイリーン」が前提にある「ボンド」という人を演じているのが伝わってくる。

橋落ちのシーンの後の、空っぽな表情で朝日を浴びるモリアーティ陣営の姿には胸が痛んだが、せしるさんのボンドの表情が特に胸に刺さるようだった。
いつも明るい笑顔を浮かべている華やかなボンドだからこそ、その落差が激しく――そしてボンドにとってはウィリアムだけではない、大切なシャーロックを失った瞬間でもあったのだ。その大きすぎる喪失感と深い悲しみがあの表情から伝わってきて、目が離せなくなった。

 今回のボンドからアイリーンへの見事な変化に、せしるさんが演じていらっしゃるのでなければ、このシーンは生まれなかったかもしれないと思った。
ボンドに大切な二人が生きていることを教えてあげたいし、さっきも書いてしまったが、再びアイリーンとなった彼女をシャーロックと今度は正面から会わせてあげてほしい。

【ジョン/鎌苅健太さん】
鎌苅ジョンの親しみやすい歌声と笑顔に、観客はどれほど癒されてきただろう。
今回のジョンの白眉は何といっても「お前はお前を愛してほしい」だと思う。
シャーロックに(そしてウィリアムにも)欠けているのはその部分で、しかしシャーロックにはそれを気付かせてくれるジョンがいた。
鎌苅ジョンがシャーロックを叱るとき、声や表情はあくまでも厳しく、本物の怒りを滲ませているのに、その根底にちゃんと友情と愛情が存在するのを感じられるのが好きだ。

作中、シャーロックは常に「光」としての役割を与えられ続けるが、シャーロックにとっての光は間違いなくジョンだ。鎌苅さんの穏やかなお顔と声は、「光」たるジョンそのものであり続けた。
この方の演技の中に、決して派手なところはない。だがいつだって地に足の着いた誠実さが感じられる。ジョンという役の性質も相俟って、観ていて一番安心できる方かもしれない。

原作では、「橋」のときにジョンがどこでその顛末を見届けていたかの描写はない。しかしどこかで見ていたことは確かだろう。
モリミュでは、その様子を目撃するジョンの姿を描いていた。――ジョンは足場が崩れた爆発の瞬間でさえ、その目を逸らさずに一部始終を見届けようとしていたのを私は見た。
ジョンの、シャーロックを信じる友人としての、そしてホームズ伝記作家としての信念が伺えるようなジョンだったと思う。

ものすごく個人的なことだが、今回ランブロに挑戦したところ、ジョンのシークレットが出てきたのが嬉しかった。この姿をぜひ舞台の上でもと思っている。


【ミス・ハドソン/七木奏音さん】
今回、モリミュ開幕の直前まで別の舞台に出演されていたのに、あの短期間でハドソンさんを仕上げてこられたのには驚嘆した。
過密スケジュールでいらっしゃったろうに、よくぞ出ることを決めてくださったと思う。この話にハドソンさんがいるといないでは、物語が全く変わってくる。

七木ハドソンさんの、原作から飛び出てきたような可愛さや、軽やかで透き通った明るい声が私は大好きで、彼女が出てくるシーンはいつもパッと花が咲いたようになる。
明るくコミカルな歌も良いが、今回のようなしっとり歌い上げる歌こそが真骨頂という感もあり、「私はあなたを あなたが思うよりずっと……」と歌うシーンでは思わず涙を誘われた。

あの歌は人によって解釈が分かれるところだと思うのだが、私は「男性としてのシャーロックを慕う一人の女性としての歌」というより「家族でも恋人でもないがただの下宿人でもない、ヒーローとしての彼にどこまでも深い信頼を寄せる、ブロマンス的結びつきの歌」であるように感じた(ブロマンスは本来男性同士の関係に使う言葉ではあるのだが、ハドソンさんからシャーロックに寄せる思いはそういう恋愛に至らないが友情でもないすごく微妙なラインにあると思っていて、それに一番近い概念がブロマンスだったので敢えて使用させていただきたい)。
奏音ちゃんが一体どんな気持ちであの歌を歌っていたのか、コメンタリーやインタビューで語られることがないだろうか、とちょっと期待してしまう。

それでも、思いは言葉という形にしないからこそ、美しく輝くときがある。
言葉にならない感情が忍んでいたからこそ、あの歌はあんなにも胸に染みたのかもしれない。
最後の歌のときの、シャーロックの帰りをいつまでも待つ、と言える彼女の強さが愛しいし、それが叶う日が来てほしい。
そのとき七木ハドソンさんは、どんな表情を見せてくださるだろう、と思わずにはいられなかった。

【レストレード/髙木俊さん】
この方に関しては、これだけ自由にやっていらっしゃって、原作のレストレードと同じかというと実は全然違うような気がするのに、確かにレストレードでしかないのが不思議で仕方ない。
この物語の空気を崩さず、すべらない笑いを確実に取っていくのは、もはや職人芸の域だと思う。
前回の感想で書いたのと同じことを言ってしまうが、髙木さんの生み出す笑いは、話の腰を折らず、誰かを下げず、内輪ネタに走らない。老若男女がクスッとできる、毒がなくて温もりのある笑いだから大好きだ。

モリミュは観客が舞台の一部になれたような――「目撃者」になっているような感覚になる舞台だが、それに一役買っているのは間違いなく髙木レストレードだろう。今回のリサイタルをしながらの客席降りも、観客の心と視線を釘づけにしていて、お見事だった。

原作のレストレードも確かに存在感はあるし、シャーロックの日常を支える大切な人物の一人で、物語の進行に欠かせない存在だ。
しかしモリミュのレストレードはそこに愛すべきお茶目さが加わってくる。
モリミュに出てくるのが原作通りのレストレードだったとしても愛される人物にはなっていたかもしれないが、髙木さんが演じているのでなければ、少なくともOp.4の「刑事屋のブルース」は生まれなかっただろうし、今回の蝋の歌もなかったはずだ。
この方がモリミュにいてくださって良かったとは全員について言えることだが、髙木さんのレストレードには特に強くそう思う。

大千秋楽ではヴァイオリンを披露なさっていて、この人も大概万能の人だなと思った。
もしいずれ『空き家の冒険』があるのなら、レストレード警部の出番は本来ないはずになっているが、しれっと出てきてまた観客の心を虜にしていっていただきたい。

【マイクロフト/根本正勝さん】
既に述べたように、今回なぜか心惹かれて仕方のない存在となったのは根本マイクロフトだ。
Op.2のときもその堂々たる立ち姿や歌い方に、何てかっこいい人なのだろうと思ったが、今回は以前よりずっと威力が増していた。
今回のマイクロフトを観て心が撃ち抜かれてしまった人は、多分私だけじゃないと思う。そもそもランブロのバラのショットのセクシーさは反則だ(無事手に入れました)。

ビシッとした立ち姿。朗々たる歌声。聞き取りやすく少し硬質な響きを持つ台詞回し。どこを取ってもマイクロフトすぎて、私はこんなにもマイクロフトが好きだっただろうか、と舞台が終わって数日経った今もずっと心がふわふわしている。それもこれも、根本さんのマイクロフトがかっこよすぎたせいなのだ。
歌い方に、さすがあの平野シャーロックの兄ともいうべきクセの強さがうかがわれるのも好きだったので、配信特典のホームズ陣営座談会でその話が出たとき、かなり喜んでしまった。

私は、アルバートとマイクロフトが腹の探り合いをしつつも互いの力量を見極め、次第に人間として――弟を持つ兄としての交流を深めていく様子がひそかに好きなので、今回のモリミュオリジナルのモリアーティ邸訪問のシーンは本当に嬉しかった。シャーロックに対するときとはまた違う、独特の人間味が出ているように感じられた。

それと細かいところだが、根本マイクロフトの時々見せる腕の組み方が今回すごく好きだった。
両腕をがっちり組んでしまうのではない、左手を右肘の内側に添え、軽く握った右手のひらを上にして前腕を軽く前に出したような……と説明してあの絶妙にかっこいいポーズのことだと上手く伝わるだろうか。
一般に、腕を組むのは無意識的な防衛の仕草と捉えられる。だが根本マイクロフトは片腕を前に出す。そこに「隙がなく油断もしない性格だが、警戒と防衛一辺倒ではない、必要ならば自ら攻勢に転ずることも厭わないマイクロフト」が見えるようで、言葉があれだが、ものすごく萌えた。
なお、言うまでもないがこれは私の勝手な妄想である。

ついでに、平野さんと根本さんのファンには怒られるかもしれないが、白状してしまおう。
大阪公演が終わった日の、長江くんの誕生日ポスター前でキャストの皆さんが撮られていた集合写真を見たとき、誰が写っているのだろうと順番に眺めていって、途中で「あれっ、平野さんがお二人⁉」と思った。しかしよくよく見ると、平野さんかと思ったうちのおひとかたは根本さんだった(私は顔認識が著しく下手なので、どうかおゆるし願いたい)。
よく見ると全然違うのだが、多分、口元から鼻にかけての雰囲気がちょっと似ているのだと思っている。このお二人が兄弟役をやってくださって、ぴったりだったんじゃないだろうか。舞台裏のオフショットでも、シャーロックが前髪を上げていると、ちょっとマイクロフトに似て見えるのがほほえましかった。

作中のマイクロフトは「弟よ お前を誇りに思う」と言ってはいるが、彼は弱いところを他人に見せられぬ人だから、内心どれほどの喪失感を味わっているかは想像に難くない。
私がミルクティーを淹れて差し上げたいくらいだが、それは次元の壁で叶わぬので、せめて『空き家の冒険』で兄弟を再会させてマイクロフトを安心させてあげてほしい、とアンケートに書いておこうと思う。


※【9/15 アンサンブルさん、ピアノ・ヴァイオリン、脚本・演出についてのパートを追記しました】

この感想を最初にアップした際は、「万が一にも大千秋楽でOp.6の発表があったら、こんなに『空き家の冒険』をやってほしいと連呼している感想をそのまま出すとバカみたいに見えてしまうぞ?」という焦りがあって、まだ書けていない部分を残したまま公開に踏み切っていた。
数日経ってようやく書けたので、公開させていただきたい。

【アンサンブル】
今回も八面六臂の大活躍をなさっていたアンサンブルの皆さんのことも、私が分かる範囲でほんの少し。
この方がこの役、という部分については配信などで確認したつもりですが、間違っていたらすみません。

 まずは私が最初にお名前を覚えたアンサンブルさんである、伊地華鈴さん。
モリミュを初演からずっと皆勤で支えてきてくれた方のお一人で、そのひときわ小柄な体がダンスになると誰よりもよく動く、その身体能力の高さと柔軟性、甘くて可愛らしいお顔がとても好きだ。
初演のときからウィギンズをずっと演じてきてくださっている方でもある。伊地さんの、他の女性アンサンブルさんお二人よりアルト寄りのお声で紡がれるウィギンズの声の何と少年らしく愛らしいことか! 容姿に関しても言うまでもなく可愛い。
そして「ハドソンさんのお友達」の市民役として出てきたときは、いつも日替わりでちょっと面白いことをやってくださるので、必ず視線が向いてしまう。今回も、レストレードが入っていった後鍵を閉めた221Bのドアに向かって靴を投げようとしたり、あるときは大きな岩を投げてぶち破ろうとしたりという、「何か目が離せない」ことをやってくださる方だと思う。

 そしてOp.2からご出演の熊田愛里さん。市民の歌のパートでいつも美しい高音が聞こえてくると、この方のお声だな、と思う。今回は下手に座ったときにそのお声がとても近くで聞こえたのが嬉しかった。
この方のダンスは華があって、いつも目を引かれる。そして表情がとても豊かでいらっしゃるのが好きだ。
市民役や労働者役の印象が強かったが、今回の貴族の少女(エリン)の役も、大人になるにつれて自然と築いていってしまう身分の壁をまだ持たぬ無垢な少女としての演技に何度も涙腺が刺激された。
今回は本物のウィリアムもやってくださったとのことで、あの仮面をかぶっていてなお再現度の高いウィリアム(モリミュで姿が出たのはひそかに初ではなかっただろうか)はどなただろうと思っていたので明かされて嬉しい。

 さらに女性アンサンブルのもうお一人、永咲友梨さん。
モリミュのドレス姿の貴族と言えばこの方! というお人である。貴族役のときの美しく、しかし高慢さも見える様子が絶妙で、いつも貴族役で出てこられるのを楽しみにしている。貴族パートの歌の中で響かせている、澄み渡る高音の芯の通った雰囲気が素敵だなといつも思っていた。
また、女王役も凛としたお姿を見せてくださるので大好きだ。女王役のときのお声の堂々たる様も。永咲さんの女王陛下のファンという観客は多いんじゃないだろうか。
かと思えばOp.4ではホワイトリー家のメイドのマギー役もなさっており、演技の幅の広い、素晴らしい役者さんだと思った。

 そして男性アンサンブルさんに移り、大澤信児さん。モリミュを初演からずっと支えてくださっているお一人である。
この方の、貴族役のときの佇まいが好きだ。何だか、すごく「いそう」なのである。堂々とした雰囲気がそう見せるのかもしれない。
今回もかなりの大活躍をなさっているなと思っていたが、ご自身のツイッター(X)で明かされていた全役を拝見して驚いた。こんなにも色々なさっていたなんて!
今回の役の中だと、ぶっちぎりで好きなのがグローヴァー公爵だ。ウィリアムの言う通り「見下げ果てた人」だが、我が身かわいさに支配された人間の醜さに、どこか共感というか、一歩間違えば自分もそうかもしれない、自分の中にあの性質がないとは言い切れない、とハッとさせてくれるような生々しい演技だった。
前回の話になってしまうが、Op.4のときのロビンソン役も素敵だった。

 木村優希さんは、前回のバーソロミュー・ショルトー役や区長役が印象的だったが、今回の火事場の貴族役もすごく良かった。
最初は労働者たちを撥ねつけながらも、バケツリレーをする彼らを見て、自分が今何もできていないことに気付いたときのもどかしげな表情。そしてバケツを持ってきて労働者に渡したときの、自分も共に戦おうと語りかける目。「お前たちにこんなに煤をかぶらせて~」の台詞。
貴族側からの変化を象徴するような重要な役を説得力たっぷりに演じてくださって、「煤をかぶらせて~」の台詞に毎回ぐっと来たし、「私も行こう!」とバケツを手に取る台詞を聞いたとき、毎回涙がこぼれそうになった。

 今回初参加の柴野瞭さんは、多分ハーシェル男爵をやってくださっていたのではないかと記憶している。あの坂のセットを存分に使った、見ごたえのある「斬られ役」アクションを見せてくださったのがとても印象に残っている。
消火活動のときの貴族や、1幕終わりの嘆く市民役、警官役など、どの役をやっていらっしゃるときも存在感をすごく感じる方だった。
特に市民役のときの、「蓄えなんてねぇ! 死ねって言うのか!」の切実さがこもった台詞回しや、グレッグソンと一緒に出てきたときの、よく通るテノールの良いお声が印象に残った。

 白崎誠也さんは、私がモリミュの前から存じ上げていたアンサンブルさんである。初演のとき、白崎さんがいらっしゃるのを知って嬉しくなった。
さすがのJAE(ジャパンアクションエンタープライズ)所属。アンサンブルさんの中でも、特に激しく難しいアクションなどを担っていらっしゃるし、目立つご活躍が多いので、観客が最初に覚えるアンサンブルさんの一人なのではなかろうか。
Op.4のときのサディアス役のようなコミカルめの演技も映えるし、かと思えばウッズさんのような頼もしいリーダーとしての姿も似合うし、スターリッジのようなシリアスな役もぴったりな、この方がいるならこの舞台はきっと楽しくなるぞと思わせてくださる安定感抜群の方だと思っている。モリミュをずっと初演から支え続けてくださって、本当にありがたい。
前楽配信を観ていたら、日替わりパートでお得意のアクションが披露されていて嬉しくなってしまった。
この方の演じるお姿がとても好きなので、またどこかの舞台で拝見できるのを楽しみにしている。

高間淳平さんは何といっても、ルイスのソロでのダンサーとしての活躍が印象的だった。一慶くん贔屓の私が思わずルイスから目を離して注目してしまうほどだった。
ダンスのことは全くの素人だが、身体能力やバランス感覚が抜群で、ダンスの表現力がずば抜けていらっしゃるのだろうと素人目にも分かった。
ルイスのソロに限らず、他の場面のダンスでもちょっと目を引く方がいたのは、きっと高間さんだと思っている。
伊地さん演じる市民の少女の兄(かもしくは父親?)の役のときも、細かい仕草の中に少女を大切に思いやり守ろうとする気持ちが感じられて好きだなあと思いながら拝見していた。

竹内一喜さんは今回の役の中だとエヴァンの熱演が特に素晴らしかった。
か弱そうな少年らしさを出しつつも、勇気を振り絞った少年の、その覚悟が踏みにじられたときの嘆きの声の悲愴さ。そしてモリアーティを呪う声の激しさ。本当に少年らしい高いお声を出されながら演じていらっしゃったのがすごい。ウィリアムの苦悩をより深く見せてくれたのは、竹内さんのエヴァンあってこそだと思う。
Op.4のときのサム・ホワイトリーの「アダム兄さん」という明るく無邪気な呼びかけ方も好きだった。

中村祐輔さんは、グローヴァー公爵の執事としてのきびきびとした動きも短い出番ながら好きだったが、消火活動中に服が燃えた貴族の役をなさっていたときが一番印象に残っている。その迫真の演技に炎を思わせる照明が重なったときの臨場感や、市民のウッズさんから差し伸べられた手をしっかりと摑み返す手。あの場面で確かに人の心が変わる様子を、実(じつ)のこもった演技で見せてくださった。
パンフを拝見したところ、今回が舞台作品初出演だとのことで驚いた。これからどんなご活躍をなさっていくのだろう、と楽しみになった。

 蓮井佑麻さんは、アンサンブルさんの中でも特に目を引く方で、Op.3以降、毎回輝きを増してこられたように思う。
ダラム印刷のビルの役も素晴らしかったし、二代目グレッグソンとしての頑張りで一気にファンが増えたんじゃないだろうか。かくいう私もその一人だ。毎回工夫を凝らして、客席を盛り上げようとしてくださった。Op.4でのグレッグソン日替わりが円盤に残っていないのをつくづく惜しいと感じている。私が観られなかった日に、どんなことをやっていらしたのか知りたかった……!
そして今回は何と、あのミルヴァートンの影武者(?)もやってくださっていたとのこと。劇場で観るたびに、あの機嫌よくクルンと回るミルヴァートンのモノマネ(よりによってあの仕草を真似するか、と思ったがすごく分かりやすくて大正解だった)や、手を差し伸べるあの腕の動きまで、何て藤田ミルヴァートンそっくりなんだろうと感心して、どなたがなさっているのだろうと思っていたが、蓮井さんなら納得だ。
グレッグソンやカークランド伯爵などの名前付きの役だけではなく(伯爵役も柵に寄りかかる死に方に凄みがあって忘れられない)、警官や市民をなさっているときも、思わず目がいくアンサンブルさんがいたら、それは必ず蓮井さんだった。中村さん演じる貴族が炎に襲われたとき、消火後真っ先に駆け寄って無事かどうか確認していたときの演技の細やかさなど、とても丁寧な演技をなさる方だなと思った。

山下真人さん。(私の顔認識が甘くてもし違っていたら申し訳ないのですが)ロンドン放火のとき、「貴族様がちゃんとバケツ使いこなせんのか見ものだぜ」と笑っていた市民が、確か山下さんだったように見えた。
あの一言が入ったことで、「こんな状況になってさえ、階級を超えて団結するのは容易ではない」ことが示される重要な台詞で、しかしそんなことを言っていた市民が「仕方ねぇな!」と言いながらも消火活動に向かい、「あんたらは下がってな」と気遣いを見せ、貴族の差し出したバケツをその手で受け取るからこそ、その容易ならざる壁が次第に消えていっていることを実感できた。
頑なであった市民が心を溶かしていく、一番「変化」を見せる役どころで、人の心が変わっていく瞬間の美しさを見せてくださる好演だった。

こんなにも全アンサンブルさんの活躍に注目したいと思いながら観た舞台は初めてだったし、休憩中などもアンサンブルさんのお名前を挙げながら感想を言っている観客を一人や二人ではなく目にした。
本当に、全員が愛しい舞台だったと思う。

 
【ピアノ・ヴァイオリン】
そもそも私が初演を何となく観に行ってみようと思ったのは、原作が元々好きだったのもあるが、「ピアノとヴァイオリンの生演奏のミュージカル」という触れ込みに、ちょっと面白そうだなと興味を持ったからだった。
生演奏の舞台は、2.5次元舞台でも決して他にないわけではないが、やはり些か珍しい。
何だかすごく力の入った作りの、凝ったことをやってくれそうだ、と直感した。
もしこれが生演奏の舞台でなければ、私は初演に行っていないかもしれなかった。よくぞこんな天才の発想をしてくださって、それを売りとして押し出してくれたものだ、と思う。

 「ピアノがモリアーティ陣営。ヴァイオリンがホームズ陣営」という分担も天才だった。
ヴァイオリンは言うまでもなく、正典のホームズも愛する楽器であるし、ピアノは憂モリ原作の扉絵でウィリアムと共に描かれている。
楽器を分担することで、それぞれの陣営の曲に違った趣が自然と備わってくるのが面白かった。
(自然と、なんて言ってしまったが、ただすけさんの才能と工夫あってこそである。本当に素晴らしい、初見のときはその難しさに驚くのに何度も聞くうちに耳から離れなくなって残り続ける名曲を、こんなにも多く生み出してくださった)

 ピアノの境田桃子さんは(Op.3では広田さんも)、役者の誰よりも長く舞台の上に居続ける、本当に大変な役目だったと思う。
ピアニストをやっている友人にモリミュのことを説明したとき、「ピアノが休憩を除く約3時間舞台に出ずっぱり」と言うと「なかなか大変そうだね……」と遠い目をしていた。やはり舞台の上で演じる人に合わせての伴奏というのは、普段ピアノ曲を演奏するのとはまた違う特殊な技能なのだろう。
ピアノの技巧のことは私には分からないが、いつもスッと役者さんたちの台詞や歌に寄り添って、包み込むような演奏だったなと思う。

 そしてヴァイオリンの林周雅さんも、モリミュを初演からずっと支えてくださった。
ところどころで遊びを入れて、日替わりに積極的に参加してくださったのが、観ていて親しみが持てて楽しかった。こんなにノリが良い、エンターテイナーたらんとする方が担ってくださったからこそ、出来上がった場面がいくつもあった。そもそも、あの指輪がシャーロックに重ねるために探して用意した私物らしいと聞いたときには驚いた。そこまで凝ってくださるなんて。
シャーロックと共に入り捌けを繰り返すだけではなく、シャーロックの台詞に合わせて口が動いていたり、シャーロックと同じ動きをしていたりと、分身のように寄り添う、見事な「裏シャーロック」だった。
多分、演奏家さんにとってもこうやって舞台の上、役者さんが演じる横で演奏するのはなかなか珍しいことだと思うのだが、それをすごく楽しんでいらっしゃるのが伝わってきた。この人が引き受けてくださって良かった、と思った。

 オーケストラピットではなく、舞台の後方に区切られた演奏ブースが設けられているわけでもない、舞台上、役者さんたちのすぐ横に、まるで景色の一部のように当たり前にそこに楽器が存在するセットも、モリミュの面白さだったと思う。
舞台上にあって物語の進行に過度に干渉せず、しかしときにウィリアムがピアノに手を置きながら歌ったり、ヴァイオリンがシャーロックの周りを回りながら演奏したり、またあるときは一瞬にして仮面舞踏会の楽士になったりして、物語と独特の溶け合い方をしていた。
この作品では、音楽もまた「役者」なのだ。
ピアノとヴァイオリン、二つの楽器しかないのが信じられないほどの重厚かつ多彩な音色で物語を彩ってくださった。

また、ここでは書ききれないけれど、照明の素晴らしさには毎回息を呑んだし、照明見たさで絶対に2階席を一度は取りたいと思わせてくださった。
美術も、音響も、本当にすべてのスタッフさんが作品を盛り上げようと尽力してくださっているのが、観客に伝わってくる舞台だった。
ついでに言うなら、Op.3以外では銀河劇場というモリミュファンにとって思い入れのある劇場(何せ螺旋階段があるだけで100万点だしボックス席があるのも素晴らしい)での上演を死守してくださったのもありがたかったし、Op.5では銀河劇場で撮影したブロマイドがグッズになって、天才の発想だと思った。
ファンの思いを受け止めてくださる作品だったなと思う。

 【脚本・演出】
この文章で一番多く出てきた人のお名前は、もしかすると「西森さん」かもしれない。
初演のときから「この脚本はすごい!」「こんな演出をするなんて!」と素直に感動してきたが、本当に信頼できる舞台を作り上げられる方だといよいよ確信を強めたのは、個人的にOp.3からだった。
この先の展開も見据えて絶対に削れない要素は形を変えて必ず残しつつ、でも印象的な台詞だろうが、今回のこの場面に合わせるとシーンがぼやけると思ったら削る。その塩梅が絶妙だった。

私の観客としての未熟さゆえに、その采配の意図を最初は理解しきれない部分もあったのだが、インタビュー記事などを通してその狙いが語られるのを拝読し、毎回「なるほど!」と思わされ、思考が鍛えられ、「西森さんがこう変えたのには、絶対に目的があるはず」という目でモリミュを観るようになった。観客として、以前よりずっと見える景色が広がった。西森さんには、観客としての私を育てていただいたと一方的に思っている。
私には勘違いや思い込みも多いので、「育てていただいた」などと言うとご迷惑かもしれないが、それでも「この素晴らしい作品を受け止めるに相応しい観客でありたい」と思いながら劇場に向かう気持ちを知ったのは、西森さんが作るモリミュと出会ったからだ。
本来観客とは、もっと気軽でいいものだとも思うし、私も観に行くすべての作品に対してそこまで意気込んで行くわけではない。
でも、モリミュは毎回、何だか特別だった。
「楽しんで。でも考えて。そして気が付ける人がいるなら気付いてみせて」。そんな優しくも挑戦的な、作り手としての矜持に溢れる西森さんのまなざしを、舞台を通して勝手に(本当に勝手に)感じていた。

原作から膨らまされた要素、変えられた場面、足された台詞、引かれた言葉の一つひとつの意図を推し量るのは、観客としてだけではなく、端くれながら物語を書く界隈に身を置く者としても楽しかった。元から面白い原作を、こんなにも、さらに面白くできるのだと。そこに私は希望を感じたし、勇気づけられた。
原作を大胆に構成し直している部分もあるのに、「私が好きなあの物語が変えられてしまった」というやるせない喪失感を、モリミュで一度も味わったことがなかった。無論、匂わせもせず飛ばされてしまったエピソード(『橋の上の踊り子』や『モリアーティ家の休日』など)はあるが、まだこの先は分からないし、と思っている。
それに『黄金の軍隊を持つ男』の要素が『大英帝国の醜聞』の中に上手く混ぜ込まれたり、アータートンとミルヴァートンの接点を作ったりという、見事すぎる改変への称賛の気持ちが何よりも大きかった。なぜこんな魔法みたいな再構成ができるのだろうと、胸の中が熱く燃えるような感動を覚えつつ、それは誰よりも原作を深く愛し、読み解いていらっしゃるからこそだろうとも思った。
Op.5開幕前の、『ジャンプSQ.』2023年9月号の三好先生と西森さんの対談インタビュー記事の後半がウェブ上で公開されているが、その中にあった西森さんの発言で、忘れられない言葉がある。
それは「原作の大ファンですから、無用な傷つけ方をするつもりは毛頭ありません。それに『憂国のモリアーティ』はお客さまとの共有財産であり、一緒に育んでいくべきもの」というお言葉だ。

どんなメディアミックス作品だって、原作を傷つけようと思って作る人はいないだろう。でも、ファンがどう受け取るかはまた別だ。「原作の良さが表現されきっていない」と感じることや、「テーマが変わりすぎて別の作品になっている」と感じることはどうしたってある。
でも、西森さんは「『憂国のモリアーティ』はお客さまとの共有財産」と思いながら、モリミュを作ってくださっている。この一言を衒いなく言える人だというだけで、作り手として誰よりも信頼に足る方だと分かるし、この人の作る舞台ならたとえ自分に合わないことがあっても素晴らしい作品であるに違いないことを信じられるというものではないか(そして合わないなんてことは全然なく、むしろ好きすぎて困るくらいになった)。

これほど尊敬し信頼できると思える脚本・演出家さんに出会えたのは、私にとっても最高の幸福だったし、『憂国のモリアーティ』という作品にとっても幸運だったと思う。
この世に面白いものは沢山ある。大好きな作品も数えきれないほどに。
でも、これほど心震わせて夢中になれる舞台に、この先の人生であといくつ出会えるだろう。この作品は自分の人生の一部だと、何の誇張もなく口に出せるほどに、モリミュは私にとって特別な作品になった。
役者さんやスタッフさん皆様のお力も勿論のこと、やはりモリミュを指揮してくださったのが、他の誰でもない西森さんだったから。だからこんなにも好きになれたと思う。

Op.1のメイキングで西森さんが仰っていた、「『あの』モリミュやべぇ、っていうひとつの作品に」というお言葉。それは今、きっと現実になっている。
本当なら、こんなネットの片隅で延々とラブレターもどきを綴らずに、今回からやっと復活した劇場のプレゼントボックスにファンレターでも入れるべきところだったのかもしれない。
西森さんが手掛ける別の舞台をまた必ず観に行こうと思ったし、そしていつか、また西森さんの手で、モリミュの未来の物語が紡ぎ出される日が来ないかと、ずっとずっと待っている。

(追記終了)


今回のモリミュの一番のテーマは、「生きる」であったと思う。
「生きる」「生きなければ」「生きよう」。
もう少し丁寧に言うならば「どう生きていくか」の物語だった。
生きることは、しんどい。心があるから人は傷つき揺らぐ。
それでも、この世界で何を為すべきか、考え続けること。それが生きるということだ。
心が揺らぐことがあっても、自分に心寄せてくれる人がいるならば、世界はきっと怖くない。

世界に一歩を踏み出す力をくれるような、美しくやさしい物語であった。
この世界に、この物語が存在してくれたことそのものが、まるで希望のように思えた。
本当に素晴らしい、人の心を強く捉える力を持った作品だったと思う。

最初に「物語に大きな区切りの付く『最後の事件』までやってくれた」と満足しているようなことを言ったが、途中でちょいちょい欲を出した通り、モリミュは『空き家の冒険』までやってくれないと困る、と思っている。
これで終わりでも一応ストーリーとして困らない区切りにはなっているが、これは「橋から落ちるための物語」ではないのだから、その後の贖罪の道をどう歩み始めたかの顛末まで描いてこそ、物語は完成する。
このままではアルバートやモランがとりわけ救われないし、何より、メシアは3日後に復活した姿を皆の前に見せてこそである。

この座組で、いつの日か。
美しい世界を守りながら皆が生きる姿を見届けられたらと願っている。



そして最後に蛇足ながら、ここまで読んでくださった方々へ、個人的な御礼の言葉を。

Op.2のときに書いた感想に思わぬ反響をいただき、それ以来ずっと毎回、こうして長々とした感想を綴ってきました。
観に行った舞台の感想全てを書くわけではないですし、書いても何だか恥ずかしくなったり色々な理由でそっと下げてしまうこともあるのですが、モリミュの感想だけはよほどのことがない限り、この先も置いておこうと思っています。

モリミュという作品の前ではただのいちファンのオタクでしかない私の感想をとても真剣に読んで、褒めてくださって、ありがとうございました。
とても心の支えになっておりましたし、「やっぱり今回もモリミュの感想だけは書かねば!」というモチベーションになっておりました。
観客としての私をモリミュに育ててもらった、という話を上で出しましたが、私の舞台感想を書く姿勢は、この文章を読んでくださった皆様に育んでいただいたと思っています。
すごく熱心に読んで、感想への感想までくださる方もいて、いい加減なことは書けないぞ、と(元より他の感想だっていい加減な気持ちで書いたことは一度もないですが)思いましたし、RT先で「楽しみにしていた」と言ってくださる方もいて、毎回身の引き締まる思いで書いておりました。

お口に合わなかった部分もときにあったかと思いますが、一人でも楽しんでくださった方がいるならば、幸いに思います。
願わくば、またお目にかかれますように。

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