カグラバチ53話「暗がり」についての考察
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初読感想から
最新話はどうだっただろうか?今回の話はとてもよく練られた話だったように思う。
特に紙吹雪の使い方が絶妙だった。各シーンでまばらにちりばめられた紙吹雪は、前回昼彦から提示された「人を殺す」という点において同類ではないのか?という投げかけに対するチヒロくんの心境の複雑さ(迷いあるいは葛藤)をよく表していた。
このような、文章では語らずあえてビジュアルで語るというのはとても映画の文脈を感じる。(かくいう私は最近映画鑑賞をよくするというだけでとても知識があるとは言えないのだが)
そしてこのちりばめられた紙によってうまく動けないという描写を、あえてアクションシーンであるのに小さなコマに収めることによってとても分かりやすく表現していたように思う。
その迷いや葛藤、がんじがらめにされ思うように動けないフラストレーションを塗りつぶすかの如く出てくる真っ黒な見開きはそれまでのシーンとの対比も相まって、カタルシスが極まっていた。
そして今回特に語りたいコマが登場する。暗転から明けるとそこに映し出されたのは昼彦を踏みつけ、見下すような目つきで見つめるチヒロくんの姿だった。
私はこのシーンに目を奪われた。
そしてどうしてこのシーンはこんなにも目を引くのか、これから「構図」という観点から少しずつ紐解いていこうと思う。
構図的な仕掛け
件のシーンである。
足と肘掛け、昼彦の服で空間を切り取って、そこに真っ黒に塗りつぶされた出入り口をど真ん中に配置。白黒のコントラストで強烈にその部分へ視線を集め、その周りにどこに刺さっているか前景で見えない刀と、昼彦を踏みつける描写という見せたい情報を持ってくる。ついでに三角構図と煽りの画角でどっしりとした雰囲気と力強さを演出している。
これは読者も同じ気持ちであろう。あのシーンで刀がどこに刺さっているか明確にしないことで読者に、昼彦を刺したのか?それともただ手が垂れ下がっているだけか?はたまた…とあえて切っ先を隠すことでシーンに疑問を生じさせているのである。
そしてこの後のシーン。刀は昼彦の腹ではなく切り落とされたであろう手、それも毘灼のマークが入った手の甲に突き刺さっていた。
話を少し戻し、暗転明けのシーンをなぜこのような構図にしたのだろうか?この構図はとても異質である。円形に切り取られた白いシェイプが目立たせているのは刀ではなく真っ黒に塗りつぶされた出入り口なのだ。
もっとコマを印象だけで捉えてみよう。チヒロくんと昼彦が作る黒いシェイプに注目すると手で「6」を作るような形と捉えられる。この6という数字は主人公の苗字「六平」にも表れている。
そしてこれは仏像でよく見る「来迎印」に似ている。この形は阿弥陀如来が極楽浄土から人々を迎えにくる時の様子を示していると言われている。(以下のサイト参考にしました)
今回の章では座村さんが刀を振った回でも仏像が象徴的に描かれていたので、あながち間違いではないだろう。
しかし黒いシェイプが作る来迎印の輪の先にあるのは真っ黒に塗りつぶされた出入り口である。これが示すところは今回の話のタイトルにもある通り「暗がり」、極楽浄土などでは決してない、「地獄」を意味しているのだと考える。 そう考えるとまるでそれを祝福するかのように舞っている紙吹雪は何とも皮肉が効いている。
そして、この輪の中には刀も描かれている。ここから推測できるのは「刀がつくる世界の先は地獄だ」という未来の暗示だ。
とすればチヒロくんは、地獄より悪人を迎えに来た「黒鬼」として象徴付けられているのではないだろうか。