森美術館『ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会』
「見えないモノを見ようとして」という文字列を目にした時、何割かの人は望遠鏡を覗き込んでしまうのではないだろうか。また、何割かの人はメロディをつけて読みたくなってしまうのではないだろうか。私は展示会場を回りながら、ずっとこのフレーズが頭の中に流れていた。
現代アートとは「見えないものを見ようとする」行為の発露だと思う。「見えないものを『見せよう』とする」試みでもある。
社会にある見えないもの、歴史の中にある見えないもの、人と人との間にある見えないもの、自分の中にある見えないもの。
見えたものを見えたままに描く写実とも違い、見えたものを感じたままに描く印象派とも違う。ただ眺めて心地良い、だけで終わらない力があると感じる。こちらも頭も体力も使って向き合わないといけない。
まず冒頭の作品。
故人のかけていた眼鏡のレンズを通して、故人が書いた肉筆のテキストを撮影した写真だ。書かれたテキスト自体は、他人である私たちも見ることはできる。しかし、眼鏡のレンズを通したそれを見ることができるのは、書いた本人だけだ。そのクローズドな世界、他の人からは見えないものを見ようとする試みに惹かれた。
隣の部屋では、失われつつある言語による語りが映像とともに流れていた。
率直な印象が「無印良品の店内音楽のような歌だな」というものだった。歌ではなかったのかもしれないが、歌うようなリズムで語られていたのだ。その土地に特有のものを表した方言や、話者の少ない少数民族の言語はどんどん失われていく。しかし悲しいことに、聞き取れない、意味がわからない以上、それは私にとっては何語でも同じことになってしまうのだ。わかる人には見えるものが、わからない人には見えない。
同じように「わかる人には見えるものが、わからない人には見えない」のが、カンボジアやシリアで処刑広場だった場所の写真たちだ。
何も知らなければただの風景だし、その場に行っても素通りしてしまうかもしれない。語られないもの、見えないものの存在に気づかないことの怖さ、気づいた時のぞっとする感覚。
写真たちといえば、中国本土のドラァグクイーンたちの連作も印象的だった。彼らもまた「見えないもの」に分類されるのだろう。しかし、彼らも含め夜に生きる人からは何が「見えないもの」になるのだろう、と考えさせられもした。
もっと身近な「見えないもの」もある。
新しいお店がオープンした時に「ここ、前は何屋さんだったっけ?」と思ったことはないだろうか。普段行かないお店は、あっさりと風景になってしまう。展覧会の途中、古い看板を集めて新しく書き換え、手元に残った古い方を展示してある壁があった。
これらの看板を毎日眺めていた人たちは、看板が変わったことに気づいただろうか?前の看板がどんなものだったか覚えているだろうか?見慣れているはずのものさえ、あっという間に「見えないもの」になってしまう。そして、見えないまま、認知されないままに消えていくのだ。
かたや、積極的に「見えないもの」にされているものもある。人の死がそうだ。この展覧会の中で、もっとも印象に残った2つの展示はどちらも「死」を感じさせるものだった。一つは明示されてはおらず、もう一つははっきりと、明確に。
一つ目は豆腐の映像だ。豆腐に、耳なし芳一のようにびっしりと筆文字が細かく書き込まれていく。そして、その豆腐がそのまま放置され、その経過を映像にしたものだった。
放置された豆腐は、当たり前に傷んでいく。虫は寄ってくるし、色が変わり、水分が抜けて形も変わっていく。そこにあるのは「かつて豆腐だったもの」でしかない。本当なら人もこうやって朽ちていくのだろうに、それは私たちの社会ではしっかりと見えないようにされている。人ではなく物でさえ、こんなふうに腐っていくことをほとんど目にすることはない。しっかりと管理された安心安全な社会。知らなければいけないことが、見えないものにされてはいないだろうか。目をそらしてはいけないものを、見えないものにしてしまってはいないだろうか。恐ろしいような、敬うような、手を合わせたくなるような不思議な感覚だった。
もう一つは、死体の映像だった。タイトルは「The Class」授業、講義だ。なんの授業?「死」についての授業。それを死体に向かって行う。
私は戦争や災害などの白黒写真や映像で死体を見たことはあるが、カラー映像で死んだ人を目にしたのは初めてで、まずその点が衝撃だった。さらに、「あなたにとって死とは何か?」と死者に問いかけるという構造に心をつかまれた。「(講義が長くて)疲れましたか?」と死者に問うのだ。疲れるはずがない存在に。
この作品は撮影禁止ではなかったのだが、撮るという動作をすることができなかった。撮ることを忘れていた。そのくらい、自分の心が持っていかれる作品だった。死者に語り掛ける映像を見ているうちに、亡くなった祖母や恩師のことを思い出した。それぞれの心の中にいる死者を思い、語り掛けたくなるのだろう。そして、死んではいないけれどもう会わないであろう人のことも思い出した。死んだ人と会えない人とは同じこと、というような演歌の歌詞があったように思うが、私もこれは定期的に考える。「自分の世界に存在するなら、生きているのだ」というなら、死者だって生きていることになる。「物理的に会えなければ死んだことと同じ」であれば、生きている人を死んだものとして扱うことになってしまう。見えないものは「ない」わけではない、ということをこの展覧会を通してずっと感じてきたのに、会わない人、見えない人はいない人になってしまうのだろうか。この答えはまだ出そうにない。
命あるものの朽ちていく姿に重い気持ちになって次の展示へ向かうと、美しい造形の写真たちがあった。金属の立体物もある。人体は筒、と言われて、それはそうだな、確かに、と思った。人間なんて糞袋、というようなことを言い放ったのは誰だっただろうか。
美しい造形の写真は、数式を立体化したものだそうだ。ガウディ展でもこのような展示を見た。これも、見えないものを見えるようにしている写真だ。私は数学はさっぱりわからないが、これは不変の真理なのだろうな、ということは感じた。1+1=2に始まる不変の世界。ソリッドな美しさ。
では理系の世界は必ず不変なのかといえば、そういうことでもない。かつて靴の形をしていたものが徐々に壊れて結晶に変化していく展示は、不変でないからこそ生まれる儚い美しさを感じさせた。時とともに変化し最終的に朽ちていく、無機物であってもその点において人間と同じだとも思った。
不変の真理に対し、変わり続け朽ちていく有機物。しかし、そういった有機物も、「必ず朽ちる」という点においては不変の真理を内包しているともいえる。変わらないことが美しいのか、変わり続けることが美しいのか。「見えないもの」は、変わらずにそこにあるから見えないのか、変わってしまうから見えないのか。
この展覧会こそが「見えないものを見ようとして」いることを様々な形で表現した空間だったと感じたが、それは思っていた以上に自分の内面を揺さぶられるものだった。普段見ていないもの、見ようとしてないもの、見えているつもりになっていたもの・・・マッサージや整体と同じで、直後は自分の変化を感じるが日が経つと元に戻ってしまう、というのがよくある鑑賞体験だが、この展覧会は自分の中で残り続けていくだろうなという気がしている。
会期は9月24日まで。