小説 キスリング
0.プロローグ
梅雨はまだ明けない7月。気の早い者は何処にでも居るもので一人で鳴き始めた蝉の声が聞こえてくる。私は洗濯物を室内で干しながらふと窓の外に目をやる。
窓から見える小さなみどりの広場には子連れのママたちが会話を楽しんでいる。
とことこと駆け寄ってくる足音で我に返る。
「ママー、このカバン何ー?」、息子のリョウが聞いてきた。
「それ?リョウが生まれる前にパパとママが山登りしてた時に使ってたカバンだよ。それはパパのかな」
「山登り?ぼくも行きたい!」
「そうね。パパがお家に戻ったらね。3人でお山行こうね。」
「うん!いつかなー?」
「いつかなぁ」
ママだって登山でもハイキングでもリョウを連れて行きたいよ。パパを入れて3人で行きたいのよ。お弁当でも持って。行きたいのよ、ママだって。
「リョウ、お菓子作ろっか!」
「うん!ロールケーキが良いんじゃない?」
「ロールケーキかー。ママ作ったこと無いから頑張るね。リョウもお手伝い頑張ってね」
私は沈みかけた気持ちを振り払うように息子とロールケーキ作りを始めた。
ふと目に入った本棚には、あの人の名残がまだぬくもりを持って存在している気がした。最近連絡が無いけどどうしたのだろうか。
🎒
1.勧誘
20年くらい前 一
4月。東京。
高校では勧誘されるままにワンダーフォーゲル部、通称ワンゲル部に入部した。
そんな俺も2年の後半から部長を任され、今年で引退を迎える。
入学したばかりの新入生たちはキラキラと輝いて見える。新人の勧誘が今日のミッションだ。
「よっしゃ、今年は何人入るかな!」と、俺。
「それは・・。なあ?」
言い難いようだから一応言っておくと、去年は1人。新入りがたった1人。女子1人。
我々今の3年生の世代は豊作の年だったので男女合わせて10人ほど入った。
このままでは我々が抜けた来年以降、すぐこのワンゲル部も滅ぶだろう。いや、そうはさせない。部長の俺が弱気でどうする。
「よっしゃ!」もう一度気合を入れ直して新入生の流れに向かう。
「君、山登りに・・・」「君、皆で登山の楽しさ・・・」
新入生たちの流れの中に身を投げ出した俺は、川の流れの中では小石のように、そこには何もなかったかのように、流れを止めることも少しも変えることもできずにただただそこに居るだけの存在に成り下がる。
「クソ小僧どもめ!無視してんじゃねーよ!!」
小石の叫びだけはよく通る。こんな悪態だけはみんなに聞こえたようで、コソコソ話しながらこちらを見て、更にこの小石を迂回して人が流れていく。
「あのぉ」「あん?」
「あ、え。いや。入部したいんですけど」
「え?あ。いや。ありがとう!」
何ていいメガネ君なんだ。ありがとう。泣けてきた。
ダメダメ、気を取り直して次へ向かう。とりあえず1人ゲット。まだたったの1人。
次は教室に突撃作戦だ。
登山というのは勧誘がなかなか難しい。
野球やサッカーなどメジャーな種目であれば中学の経歴からある程度は的を絞れるが、登山は競技人口の少なさと中学の部活には無い事が普通なので誰が見込み客かが分かりづらい。
200人ほどの男子に片っ端から声を掛けていくも奮闘虚しく成果はプラス1人。無いよりはマジだが。
「ダメだったわ〜。今年は2人・・・」
消沈して戻った部室が何やら賑やかだ。
「これって?」
同じ3年のナオが輪の中心に居る。
「あ、ケイ!おかえり。お疲れ様。今年は女子が豊作よ。何と8人も。」
「すごいね!しかし、どうやったの?」
「昔、ガールスカウトの時に一緒にやってた子がいたから声掛けたらOKをもらえたの。それからは芋づる式に広がっちゃって。」
「うむ。その手があったか。オレなんて新入生の流れの中で小石扱いだったよ。あー、疲れた」
「お疲れ様。はい、これ」
ナオが冷えた缶ジュースを投げて寄越した。
レモン味の微炭酸。
早速プルタブを開けて一気に半分ほど飲むと、疲れた身体に炭酸とレモンの酸っぱさが沁みわたる。
「くぅー、この一杯で生き返るぜ!」
「何おじさんみたいなこと言ってんの」
そう言うとみんなで笑いあった。
それから新入生に簡単な説明をして、必要事項を記入してもらったり、事務的なことをしてその日は散会した。
3学年の合計で20人を超える大所帯。この先の大会への参加やイベントに思いを馳せる。
部長の大変さもあるが充実した最後にしたい。そんな決意を胸に秘めて皆が帰った部室で1人窓から外を眺める。
桜の花はとっくに散ってしまったが、花が終われば瑞々しい木の葉たちが生い茂っている。
このワンゲル部もこの桜のように新陳代謝を続けて長く繁栄してくれると良いのだが。
気の抜けた微炭酸の甘酸っぱい飲み物をちびちびと飲みながら、1日の苦労を労いその日は部室を後にした。
🌸 🌿 🌸
2.新歓
5月。
早速、全ワンゲル部員の親交を深めるために新人歓迎会をすることにした。場所は電車で一時間ほどの所にある奥多摩のキャンプ場にて。
男子、女子、全員がそれぞれ自己紹介。
新入りの男子2人は家族と登山をしてきた経験者と中学はハンドボール部だった登山初心者。
女子はガールスカウトの彼女を筆頭に様々。最近のキャンプを題材にしたコミックに影響された部分も多いのだろう。切っ掛けは何であれ、興味を持ってくれたことは有り難い。
ひとしきり儀式的な事が終わればあとはフリータイム。
それぞれ年長者が新人を案内して一緒に楽しい時を過ごす。楽しみ方は人それぞれ。黙々と焚き火を起こす者、川に入って水遊びする者、野草取りに出掛ける者。
自然に入れば何でもありの精神が伝われば良い。
皆が出払った後、俺とナオは食事の準備を進める。
時々遊び疲れた奴らがジュースを飲みにきたりお菓子を食べたり、ベースキャンプのように俺たちの周りをチョロチョロするが、手伝おうという気はなさそうだ。
「カレーの準備してきた?」と俺はナオに尋ねる。「伝統のアレ、夜なべして作ってきたわよ」
「ナオのアレは絶品だからなー」
「おだてたって何も出ないわよ」
伝統のアレ、とは古くはインディアンが用いていた保存食のペミカンだ。このワンゲル部では下ごしらえして炒めた具材たちを大量のバターとラードで固めるのが伝統になっている。
そしてナオのペミカンは絶品だ。おそらく具材の切り方・サイズ感・バターとラードの割合が良いのだろう。その他の食事の時も感じていたがナオの調理センスは眼を見張るものがある。
「おーい!みんな飯が出来たぞー!!」
そう呼びかけると腹を空かせた者たちがぞろぞろと戻ってきた。
今日のメニューはペミカンカレーライスと大量の焼きそば、ピザ風の何か(失敗した)、後はお好きに焼いた肉たちだ。それらを皆で食す。
『同じ釜の飯を食う』、ではないがみんなの親睦が深まってくれたのなら部長としては本望である。
食後、空腹が満たされた者から、また散り散りになって遊びに出掛けた。残されたのはやはりナオと俺だけ。
「ナオも遊んできなよ」
「私?良いよ別に。片付けなきゃだし」
「それもそうだな。助かるよ」
「ケイの為にやってる訳じゃないけどね」
「それもそうだな」
そうして二人で黙々と後片付けをした。
川のせせらぎ。キラキラ光る水面。新緑の木々。
遠くから聞こえる笑い声。
ホスト役に徹した新人歓迎会は無事に終了した。
疲労はあるものの充実感が脳と身体を支配して幸せな気分のまま帰宅した。
🏕🍛🍝🍕
3.合宿
8月。
夏休みに入り、3年生でも学業は一休みの者、受験に向け加速する者、思い思いである。
そういう俺は一休み派。
夏休みに入って以降、合宿登山の計画に日夜頭を捻る。
「今年は北アルプスを目指そうと思う」と俺。
「中央アルプスも捨てがたい」
「仙丈ヶ岳が良いな」
「南アルプスは去年行っただろ」
「カレー食べたい」
「カレーは関係ないでしょっ」・・・
そんな調子でまるで纏まらない。
仕方がないのでその場に居た全員で多数決を取ることにした。もちろん北アルプスを前提として。
結果、穂高連峰が本命に決まった。
穂高連峰は日本3位の穂高岳を含む連峰で、岩場が多く難易度が高いがアルピニスト憧れの山々である。ついでにみんなの人気が高かった槍ヶ岳もコースに組み込むこととした。道中、足場の悪いところがあり、部活の俺たちは安全には十分注意して臨まなければならない。
行き先が決まったので改めて参加者の確認をする。今年は3年は全員参加、2年はゼロ、一年は半分の5名。合計15名が参加して合宿することになった。
☁☁☁
そんな経緯で行き先が決まり、二泊三日の計画書の策定、買い出しなどを終えて、遂に今日からいざ合宿の開始である。
大人数での行動であり、乗り換えの際に迷子が出ては困りものであるので新宿から上高地まで行ける直行バスを選んだ。
揺られること数時間。寝て起きたら現地に到着していた。
「じゃあ俺は入山届け出してくるからみんなは準備体操してて」そう言い残して小屋へ向かう。
簡単な説明と緊急連絡の紙をもらって皆のところに戻る。
「今から歩き始めるけど、こまめに休憩するから水分はしっかり取るように。緊急連絡のお世話にならない様に頑張ろう」
誰彼ともなく気合を入れる声があがる。男子も女子も3年も1年も気合満点である。頼もしい限りだ。
そうして歩き始め、鬱蒼とした木々の中を登っていく。まだまだ標高1500m地点の序の口。しかしここから一気に3000m地点までの地獄の登りが続く。
1年生もキツそうな顔はしているもののこれから見られる眺望を楽しみに必死に食らいつく。
それでも急いで怪我をしては元も子もない。こまめに休憩をしながら計画した時間内で目的地を目指した。
そして初日の目的地は奥穂高岳(3190m、日本3位)への登頂。ついさっきまで東京に居たような、バスを降りたばかりのような不思議な感覚に包まれながら山頂の標識に辿り着いた。まずは無事に着いたことを喜び、最初の達成感を味わう。
肝心の眺望はというと、辺りはガスが掛かっていて眺望なし。非常に残念ではあるが致し方ない。
山頂で少しフリータイムを楽しんでから初日の宿泊地の穂高岳山荘へ向かった。眺望は悪かったものの、途中で雷鳥が数羽現れ地味な色で丸っこいあんまり飛ばない鳥たちは疲労感たっぷりの俺たちの心をじんわりと癒やしてくれた。
🌄
二日目、今日は槍ヶ岳(3180m、日本5位)を目指す。
今日も道程が長い行程計画である。
その為朝は6時前に山荘を出た。
それなのに槍ヶ岳まであと一歩のところに着いたのは午後2時を過ぎていた。
急いで切っ先のような槍ヶ岳へ順番に登り、全員が揃ったところで山頂を後にして今日の宿泊場所のヒュッテ大槍へ向かった。
今日は天候も良くずっと絶景を拝めていたものの、長時間の歩行に加えて日照りの暑さと日焼けでみんな体力が下がってきていた。
🌧→☁
三日目、最終日。
起きた時には雨は上がっていたが夜間に強く雨が降っていたらしい。雨の音が凄まじかった。
取り敢えず雨の中を歩かなくても良いのは幸いだったが、地面には気をつけて歩く必要があるだろう。
今日も長い距離を歩くので朝早い時間での朝食を予約しておいた。
皆眠そうだが、朝5時頃には食事を終えて最終日の歩行に向けて準備体操を始めた。
今日はこの山荘を出発してゴールは入山した上高地バスターミナルまで一気に下る。距離は長いが起伏は激しくない。もちろん下り坂ではある。
今日帰れる思いから先頭を歩くメンバーのスピードが自然と上がる。徐々にペースが上がり、下り坂をとんでもないスピードで駆け下りていく。
「先頭、少しゆっくり歩け!」
最後方を歩いていた俺は声を掛けた。しかし遥かに遠く声は届かない。先頭につられて皆のスピードが上がる。
もう一度叫ぼうと思った瞬間、その時だったと思う。俺の前を歩いていたナオがよろけた瞬間、目の前の光景がスローモーションになって見えた。
前日の雨で滑りやすくなった下り坂に足がうまく合わずスリップしてしまい、ナオは数m転げ落ちた。
「ナオ!大丈夫か?!」
俺は慌ててナオに駆け寄り声を掛ける。幸い意識はあるようだが、あちこち擦り傷だらけで足は捻挫し腫れ上がっていて歩けそうにない。
上高地バスターミナルまで歩けばもう少し。
入山の時にもらった緊急連絡先に連絡しようとも思ったが、消毒と包帯、捻挫部は湿布で応急処置をして自力で下山する判断とした。
ナオは歩けないので俺が背負って下山することに。俺とナオのザック荷物は他のみんなに分配して協力して歩き出す。
「ケイ、ごめんね」
「俺も悪かった」
「ううん。それより私重たいでしょう?100kgあるよ?」
ナオのケガの様子が心配で気が気でなかったが、ナオのそんな冗談を聞いて思わず吹き出してしまった。
「こんな軽い100kgなら俺はスーパーマンだな」
ナオと普段話している感じではその存在感からか背が高い気がしてたけど、実際には155cm程しかない小柄な身体は本当に軽いと思った。30kgのザックの方がよっぽど重たく感じられた。
「俺の方こそゴメンな、ナオ」
「ケイが何かした?」
「俺、汗くさいだろ?」
「・・・うん」
「否定しないのかよっ」
「えへっ」
ナオはいたずらっぽく笑った。俺もいたずらっぽく突っ込んで笑った。ナオの顔に笑みが少し見えて俺も少しホッとした。
そうして上高地バスターミナルに到着し、何とか東京に向けて帰路につくことができた。
🚌💨
4.最下位
また季節は巡って桜の季節。卒業式。
今年は暖冬だったせいかそれとも温暖化のせいか、桜の開花が異様に早い。去年部室の窓から眺めていたあの桜の木だけが平年よりも早すぎる卒業式のタイミングで七分ほど咲いていた。
卒業式後の帰り際、部室を訪問して下級生たちに最後の挨拶をして残してあった自分の荷物を引き取る。
ーー、思い起こせば去年の新人を勧誘していた日は、大所帯をまとめる大変さとそれ以上の楽しさに思いを馳せてワクワクしていた。
でも合宿の事故以降、あれからもワンゲル部で活動したもののナオを負傷させてしまった自戒の念は思いの外俺の心に小骨のように突き刺さっていて、山登りを楽しめない時間が続いていた。
そんな調子だから高校最後の山岳の大会は俺のチームは最下位に沈んだ。
雨の中の閉会式、部長としての最後の挨拶。
涙も出ないほど、個人としては不甲斐ない気持ちでいっぱいだった。
それでも大所帯のワンゲル部なので3チームエントリーしたうちの1チームが8位に食い込んでくれたことは救いだった。俺たちワンゲル部としての実力は示せたと思う。
一
そうして大会が終わって引退して以降はみんな自分の進路へ向けて忙しくなった。
遂にそのまま高校を卒業となり、俺は大学へ進むことになった。
余談だがナオは調理の専門学校へ進んだ。お菓子作りをするそうだ。外見で職業を決めるのは失礼な話だが、ナオなら見た目も美しいパティシエになるだろう。
それから卒業して以降はワンゲル部の誰とも会うことなく、それぞれの道で日々の暮らしを送って、それぞれが段々と大人になっていった。
🎓
5.再会
俺は大学を卒業してからは普通にサラリーマンとして働く傍ら、ある目的のために必死にお金を貯めた。
そしてこの度、ある程度将来のプランが描けるまでの金額が貯まったので会社をあっさり辞めた。少しは慰留されるかと思ったが案外すんなりと事が運んだ。どちらにしろ好都合だったので感謝しかない。
そして、転職先は夢につながる所に決めた。
「いらっしゃいませ」
おしぼりとお通しを出す。
お通しと言っても結構こだわって作った一品料理。今日は鴨のコンフィ。
「ご注文は?」
「何改まっちゃって?変なの。じゃ、適当なカクテルをお願い」
常連のミホが答える。
「はいよ。オリジナルカクテルだけど飲んでみて。1杯おごるよ。オーナーには内緒でね」片目を瞑って合図をする。
「なかなか良いじゃない。色もキレイだし。名前は?」
「キスリングって名前にしようと思うんだ」
「何だかよく分かんないけど可愛らしい名前ね」
そう言うとミホは受け取ったカクテルグラスに光を入れてまずは目で愉しむ。それからその小さなカクテルグラスを一気に飲み干す。ミホは相変わらずお酒が強い。酒豪とも言うのだろうか。
「ちょっとジェットが強すぎじゃない?ミントが強くて歯磨き粉みたいよ」
「そうか。今回は爽やかさを表現したかったんだ。次は少し調節してみるよ」
そんなミホはこの店の常連でこの街の主(ぬし)、そして俺の友だち以上恋人未満な関係。
少しすると、また新しいお客がやってきた。
「いらっしゃいま・・・」
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