それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない(エレミア36:7)
クリスマス前の日曜日は、イエス様が誕生する前、神様が古代イスラエルの民に語り掛けられた歴史と、古代イスラエルの民と結んだ約束を振り返る。それは、イスラエルの民が救い主を待ち望み、希望を抱いたように、今、私たち抱いている希望を思い起こす時。
旧約聖書の歴史理解では、共同体が危機に瀕するのは、神様と一人ひとりの関係が的外れになっている時であり、神様に立ち帰ることが、平和への道となる。預言者は、神様から民への呼びかけを代弁する人。エレミアが預言者として立てられたとき、彼はまだ若者だった(エレミア1:7)。
神様の言葉は、他者からの言葉として私に届けられる。年配者にとっては若者の言葉として、健常者にとっては、しょうがい者の言葉として、多数派にとっては、少数者の言葉として。神様に立ち帰るとは、他者の言葉の中に隠れている神様の言葉を聴こうとすること。
ユダの王ヨヤキムにとって、エレミアの言葉は聞きたくない言葉だった。エレミアは神殿への出入りが禁止されていたが、預言の言葉をバルクに託す。バルクは預言の言葉を巻物に記し、民の前で読み上げる。王は巻物を暖炉の火にくべる。他者の言葉の中には私にとって、聴きたくない言葉、受け取りにくい言葉も含まれる。火にくべたくなるような言葉に私の心は開かれているだろうか。
(2021/12/05 「新しい教会歴」による日本基督教団佐渡教会説教要旨、エレミア36:1-10、画・文=三村修)