私よ、鈍感であれ
鈍感である方が心底幸せなのではないかと私は思っている。
私の周りにある気づきたくない数々のものにちゃんと目を向けていないのにも関わらず、それらは否応なしに私の視界に入ってくる。
鈍感である方が心底幸せなのではないかと私は思っている。
気づきたくないものに気づいてしまった時、気づかなければ私はのほほんと自分に与えられた豊かなシェルターの中でぬくぬくと生きていられたのに と思ってしまう。
鈍感である方が心底幸せなのではないかと私は思っている。
誰かの暴力的な発言や 何気ない言葉のはずなのに自分に痛みを感じないほど深くまで刺さってしまうような言葉から目を背けていれば 気づかずに済んだ"じぶん"がいる。
知りたくもなかった自分の一面を否応なしに突きつけられることがあるのだ。
心底鈍感である人間 というのは一般的に嫌われることが多いのではないか?と思う。周りからハブられたり攻撃されたりまでは行かなくとも、
「あの子は空気が読めないよね」
「集団生活が苦手なんだろうな」
と遠回しに周りから言われているのだ。
一方で敏感な人や 誰かの些細な変化に気づける人、周囲へのアンテナが高い人は周りから敬われたり褒められたりするのである。
この人たちの方が疲れているのかもしれないが。
そりゃあ敏感な方が他人と比べてしまったり、周りの空気に引け目を感じてグルグル悩んでしまったり、、ということがあるだろうなぁ、とここまで書いたところで 私はぼんやり思っている。
周りから多少"あの子は何か違う"というレッテルを貼られたとしても、
鈍感で空気が読めない方が心底幸せな場合もあるような気がしている。
必要以上に周りを気にしなくてよくて、気づいてしまったからこそ生じる別の迷いについてぐだぐだ悩んでしまう時間もなくなるのだから。
私は大して鈍感でいられない人間である。かといってものすごく空気が読める人間、というわけでもないと思うが。
昔から人間を観察し、周りの中の自分の立ち位置を気にしてしまうクセがある。これには色々訳があるのだが一旦それは置いておいて、
周りの人の変化に気づいてしまうというのはとても疲れることである。もしその変化が誰かにとってマイナスのものである場合、それを"大人"に報告するべきかどうなのかを 生徒の頃の私はよく悩んでいた。
自分は鈍感でありたいと思っていた(思っている)一方で、私はとても敏感な人たちに助けられていて、色々と察してくれるとても気遣いができる人に囲まれているがために、贅沢な日々を送っている。
生徒の時は私の変化に気づいてくれる大人がいたし、私がさっき書いたような内容を報告すべきか悩むところに至る前に、悩みはないのかと聴いてくれる凄い人がいた。私は本当に贅沢な人間だった。
私は今、大学の学科、研究室、学生団体、インターン先、、とかたくさんのコミュニティにいる。ミモザとして存在する場所を合わせれば、幾つもの私が存在することになる。それでも私は贅沢な日々を送れている。
研究室に行けば困っていることはないかと先輩が相談に乗ってくれる。凄い人は誰かを気にかける余裕を持ち合わせる人である。
インターン先の社員さんたちにミモザの存在は公認である。noteを読んでくれている方、褒めてくれる方、あなたのことを教えて と声をかけてくれる方がたくさんいる。
私が鈍感でも、敏感になって私の"な に か"に気づいてくれる人がたくさんいる。
もちろん先輩が後輩のために気を遣うとか、チームリーダーがメンバーの仕事の様子を気にかけるというのは義務なのかもしれない。
ただそれが義務とわかった上でどんな気持ちでそれをやるのか。気持ちが行動に滲み出てくる。
私は鈍感でありたいと願うのに、敏感な人の存在によって助けられている。
他でもない自分のために生きるのではなく、誰かのために生きたいと思うのならば 私は私が幸せでなくとも敏感でありたいと願うかもしれない。
アンテナを張り、変化に五感を研ぎ澄ませる人でありたい。
私は鈍感でありたいと願うのに、敏感な人の存在によって助けられている。
誰かの人生の脇役になりたい、そんな私の1つの人生観は、心からの幸せとは逆方向にあるのだろうか。
気づける人・気遣いができる人・敏感な人の存在によって私は満たされている。私が何か施す前に何か施してくれる人が溢れている。
私はそんな幸せを、良いご身分だと泣きそうに笑いながら、享受し続けても良いのだろうか。