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誰かに対して怒っている

書きたいことは溜まっているが今日は書く時間があまりなさそうなので、土日に回すことにしようか。書く時間を"頑張って"捻出しなければならないほどnoteの優先順位は高くないと思っている。
という言い訳(?)をしつつカラオケバトルのようなものを見ている。聴いてて惚れ惚れするような高校生の歌声だ。歌が上手いという真の力を持つような歌手が日本には増えるといい、と誰かが言っていた記憶がある。


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なんというか自分が自分のために時間を費やしていることがどんなことであろうと、本当はそれが誰かにとっては"無駄な時間"であるからといって無理に言い訳をしなくても良いと思うのだ。

それはやりたくないけどやっている、仕方ないからやっている、無駄だと思う気持ちがないわけではない、実は時間を浪費しているだけなのかもしれない....と色々とごちゃごちゃ言う必要はないと思うのだ。

時間をどう使うのか、何を無駄と考えて何を充実していると考えるか、どんな時間に重きをおくのかはその人個人の"自由"である。

誰かによって口を出されるべきことではないと思うのだ。

そして自分で"無駄な時間"だと思う時間を過ごしてしまったと感じたときだって、「もうこんな無駄な時間を過ごすのはやめよう」と考えようが、「たまにはこういう無駄な時間があっても良いな」と思おうが、その人の人生なんだからその人の自由だ。

無駄な時間を過ごすことによって、誰かに迷惑をかけているわけではないのだから。

「無駄な時間を0にしよう」と考えて、例えばSNSを見るのをやめる、というようなことをする人がいる。ネットサーフィンのようなものは無駄だと考える人の方が多い気がする(個人的には)が、無駄な時間は本当に0でなければならないのだろうか。

無駄な時間、何も役に立たない時間というのは何も意味をなしていないのか??

たまに文系の学問は役に立たないとか大学の文系学部は減らすべきとか言う人がいるが、役に立たない学問に全く価値がないなんてことは絶対にないだろう。
(というか「その学問を学びたい」と思って学ぶ学生にとっては、その学問はすでになんらかの価値を持つものであり、自分を育てる役に立っていると思うのだが)

だから無駄な時間に全く価値がない、ということはないような気がしている。"無駄な時間"の捉え方なのだ。無駄な時間も日々の一部分でなんらかの役に立っていると考えている人にとって、無駄な時間は少しくらいなんらかの価値を持つはずだ。


こんなことを言ったら友達から「それは"無駄"の正当化じゃない?」と言われてしまったけれど。正当化というよりは友達にとって「無駄な時間は価値のないもの」だったが、私にとっては「無駄な時間の中にも価値があるものが含まれている」っていうだけのような気がする。

要はただの価値観の違いのような気がしている。このやりとりに関しては。


自分が無駄だと思うものでも誰かにとっては無駄ではないかもしれない。無駄な時間=意味をなさない時間=役に立たない時間、という等式は成り立たないかもしれない。

価値観の差で「かもしれない」が生まれる。

なんだって良いけれど、どうして価値観を押し付ける人というのはこうもいなくならないのだろうか。


話が逸れてしまったが、あなたの時間の使い方はあなただけのためにあって、私の時間の使い方は私の自由である。誰かと一緒に時間を過ごすことは誰かの時間を"いただく"というもので、双方の同意がなければ一緒にはいられない。嫌々同意することもあるかもしれない。相手にとっては有意義な時間でも、自分にとっては無駄な時間かもしれない。だから難しい。

何を必要な時間で何を無駄な時間と考えるのか。他者と関わって生きていかなければいけない以上、1日24時間全てが自分の自由に、自分のために使える時間ではないかもしれない。


それでも分かっていてほしい、というのはわたしのわがままだろうか。

無駄な時間かどうかの判断が、人が"自分"という人のためにする判断であってほしいと思うのだ。

そこには誰かからの「価値観の押し付け」という"介入"は、あってはならないと思うのだ。