見出し画像

クマさん、ありがとう【シロクマ文芸部】

書く時間なんていりません。本を読む時間もいりません。旅行に行く時間もいりません。珈琲を飲みに行く時間もいりません。おしゃべりする時間もいりません。買い物に行く時間もいりません。音楽を聴く時間もいりません。
しかたないので少し食べる時間、どうせ眠れないけど寝る時間、あとは夜、一人で散歩に行く時間。それだけでいいです。仕事だってしたくない。ほおっておいて!

書いているのを夫に邪魔された私はやけになって、古い部屋に倒れこんだ。西日があたる、畳が傷んだ部屋。ここに何十年住めばいいのだろう。
ごろごろしていると自分がダメ人間に思えてくる。やっぱり自分がダメなせいでこんな状況なのだと思考が振り出しに戻る。
いつもこのループをぐるぐるしている。何十年もぐるぐるしている。どうしたら断ち切れるだろう?
寝ころんだまま部屋を見回してみる。昔、子供のために買った大きなクマのぬいぐるみが目についた。部屋の隅に置かれっぱなしで、きっとホコリにまみれているだろう。そうだ、あれを捨ててしまえばいいのではないだろうか?あのクマが悪いのではないだろうか?
さっき自分が悪いと思ったくせに今度はクマのせいにして、私は起き上がるとクマをかかえ上げた。ほこりっぽいクマの毛が私の汗ばんだ肌に気持ち悪い。やっぱりこのクマが悪いのだ。
「そんなわけないでしょ」
私を抱きかかえてクマが言った。私がクマを抱きかかえていたはずなのに、今は私がクマに抱きかかえられていた。
「捨ててもいいけど、でもボクのせいじゃないでしょ」
私は素直にこくりとうなずいた。クマのせいではない。私が悪いのだ。
クマは私の頭をぽんぽんと撫でた。
「でもキミのせいばかりじゃない」
ずっとぽんぽんしてくれるので涙が出た。
あれ?わたしって何才だったっけ?
「ちょっと代わってあげるよ」
代わってくれるって何のことだろう?そう思ったけれど、またこくりとうなずいてしまった。そしてそのまま眠ってしまったようだった。

目が覚めると西の窓からは涼しい風が吹き込んで、窓の外は真っ暗だった。もう夜なのだ。隣の部屋からはテレビの音と夫の声、私の声がする。食事をするかちゃかちゃという食器の音もする。なんだか楽しそうだ。
え?私の声?
私は目線を下に向けて自分をみる。クマだ。大きなぬいぐるみのクマ。手を動かそうとしてみる。動かない。ぬいぐるみなのだから。声も出ない。でもボタンのような黒い目はちゃんと今まで通りに見えるようだった。
身体が動かせないなんて。ぬいぐるみになってしまったなんて。
叫びだしたくなるような恐ろしいことのはずなのに、心はしんとして、身体は感じたことのないほどくつろいでいた。緊張が抜けて安らいでいた。なんて楽なの…。
私はまたうとうとしてしまった。
次に目が覚めた時は夜がさらに深まっていたようだ。クマのぬいぐるみの私を、人間の私がかがみこんで見つめていた。
「目が覚めた?だいじょうぶ」
私は私の声でそういうとにっこりした。でもその笑顔は私の笑顔と違って見えた。もっと優しくみえた。私はそんなふうに優しく笑っていなかったと思う。
「うまくやるからね、休んでいていいよ」
私はこくんとうなずいてまた眠ってしまった。

次の日からずっと、私は部屋の隅でぬいぐるみのクマとして座ったまま過ごしていた。
たぶん、本当はぬいぐるみのクマである私が、きびきびと立ち働いていた。パソコンの前に座ったりせず、掃除をし、洗い物をし、ゴミを捨てに行き、洗濯をし、布団を干し、仕事をした。クマのぬいぐるみである私のことも外にだして日に当てた。気持ちよかった。また眠ってしまった。
眠っている間にホコリをはたかれて、ぬいぐるみ用洗剤で拭かれ、タオルで拭かれ、ブラシで毛並みを整えられたようだった。
部屋の中に戻されたときはとてもさっぱりしていた。
戻った部屋もなんだかさっぱりしていた。捨てよう捨てようと思ってためてあった物がみんな捨てられていた。
ありがとう、クマさん。やっぱり私が悪かった。私が怠け者だった…
そう思いながら私は睡魔に負けてまた眠った。

そんなふうに三日ほど過ごしたようだった。
夫がいない時間にクマの私がぬいぐるみの私に話しかけた。
「どう?そろそろもとに戻る?」
私は首を振った。あまりにも快適だった。このまま寝ていたかった。
実際は首が動いたりしなかったのに、クマにはわかったようだった。
「わかったよ。まだそのままにしておいで。疲れているんだよ」
そのままの時間が流れて行った。
私はもうこのまま、クマのぬいぐるみになってしまってかまわないと思っていた。それほど心が凪いでいて、身体が楽で、ここ数年なかったほどぐっすりと眠ることが出来た。風の気持ちよさも感じられた。
それにクマは私より何もかもうまくやっているので、夫が機嫌よくしているのが伝わってきた。部屋も日に日に整っていった。
ああ、やっぱり私がダメだったのだ、と心の隅で感じたが、心もとてもくつろいでいるのでそんな考えもすぐに霧散した。
とにかく眠かった。
元に戻りたくなかった。

一か月位が過ぎたと思う。
光から真夏の灼熱感がとれたのを感じていた。
そんな夕暮れの風の吹く部屋で、
「そろそろ元気になったんじゃないかな?」
クマの私が、ぬいぐるみの私を覗き込んで言った。
まだこのままでいたい、と言おうと思ったのに、身体はもう動きたい、と言っていた。心身に力が満ちているのが分かった。
「ありがとう」
私の口からお礼の言葉がこぼれた。
私の目の前には、クマのぬいぐるみがくたりと倒れていた。
私は自分の手を握ったり開いたりしてみる。良く動く。
私は倒れているクマを抱え起こして抱きついた。そのままじっと抱きついていた。
ヒグラシが鳴く声が聴こえる。
そのヒグラシの声が薄暮の中に溶けて消えてしまってから、私はクマを置いて立ち上がった。夕飯の支度をしよう。そして夜の散歩に行こう。帰ってきたら何か書くのだ。

(了)

*小牧幸助さんの企画に参加しています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?