【エッセイ】記憶の金平糖~メリーゴーランドと白いワンピース
山根あきらさんの二年前の記事がお勧めに上がってきた。
最近メリーゴーランドの話を書いた私はそのタイトルに目を惹かれた。
その小説を読んだことがあった気がする…
山根さんの記事を開いて読んでみた。
確かに読んでいる、と確信したが、私が持っている三浦哲郎さんの短編集は新潮文庫の「木馬の騎手」だけだ。本屋でバイトをしていた大学生の頃に買った。読んだのはもう30年以上昔だ。
でも山根さんが書かれたようなストーリーをありありと覚えている。
最近その文庫本を本棚から、机の上に並べてある本の中(なんじゃそりゃ)に移動させたことも覚えていた。多分何かを読もうと思ったのだが読まずにそのままになっていた。
果たしてその短編集の最後に「メリー・ゴー・ラウンド」は載っていた。すぐに読んでみた。
「白い帽子。白いワンピース。白い靴。」
という書き出しにハッとする。
noteで何か月か前に白いワンピースの少女の短編を書いた。
(奇しくも山根さんの「青ブラ文学部」参加作)
そこにはこの冒頭のシーンがきっと影響していただろうと思った。
幼い娘の欲しがっていた喜びそうなものを思いつく限り買いそろえ、目の前に広げてやる父親は「病身で、女のように色白」で、母親は亡くなっていることもすぐ明かされる。
その素晴らしい品々を身に着け母親の墓参りに行きながら遊園地や動物園に行くという。すぐに父親の意図が察せられ、不穏を胸に読み進む。
二人が死んでしまわないことは記憶に残っていた。忘れていた細部を丁寧に読み返す。メリー・ゴー・ラウンドの白い木馬。
30年以上前に読んだ短い小説の断片が今でも自分の中にあり、自分が何か書くときに影響しているのだと思い知らされた。
でも本当は知っていた。もっと幼い頃に読んだ本に出てきた細かなもの達も、色とりどりの金平糖のような核となって、いつでも私の中にころころと転がって、小さな音を立てていることを。
でも忘れていた。私の中の白いワンピースとメリーゴーランドの白い木馬は、この短い小説で読んで残った金平糖だということを。
白銀色でかすかに光る金平糖だ。
どんな物語のどんなところが読んだ人の記憶の金平糖になるかは分からない。人によって違う。ある日ころりと顔を出す。または人生の何かにずっと影響していることだってある。
私の書いた物の欠片も、読んでくれた人がいつか何かを見たときに、かすかな記憶として浮かび上がることがあるだろうか。
何が浮かび上がるだろうか。
それを意図して書くことは出来ない。
何かが誰かの中の、美しい記憶の金平糖となるような、そんな物語を綴りたい。そんな物語が書けますようにと、祈りながら書いている気がする。
*山根あきらさん、記事を引用させていただきました
ありがとうございました