やどかり不動産
「こんなところに住んでるの、もう嫌!」
わたしは布巾を丸めてテーブルの上に投げた。
何十年もここに住んでいたけれどもう嫌。
今に大嫌いなお祭りがやってくる。
うるさいのもお酒臭いのも馴れ馴れしいのも苦手だ。
気の利いた接待などできないししたくない。
いつでも静かな部屋で一人で本でも読んでいたい。
聴こえていいのは鳥の囀りか、虫の音、グレングールドやミッシャ・マイスキーのバッハ。あとは雨の降る音。
投げた布巾が飾ってあった小さなガラス瓶にぶつかった。
ヨーグルトの入っていた厚い重みのあるガラス瓶は、軽く投げた布巾などで倒れるはずはなかったのに、倒れて中に入っていた砂がさらさらと流れ出た。
どこの砂だっただろうか。新婚旅行で行った南の島のだっただろうか。
独身の頃に友達といった砂丘の砂だったか…
そんなことを考えている間に思った以上にたくさんの砂がテーブルに溢れ、その中からやどかりが出てきた。
「お引越しをご希望ですか?」
やどかりは片手に小さな手帳、もう片方に細い鉛筆を持って、飛び出た目玉で私をくりくり見た。
「ええそうよ」
私は小さな小さな相手なので、いばって答えた。
「町内とかお祭りとかないところに住みたいの。
もうこんな自営の店の上に住んでいるのも嫌だし、夫も姑も近くの親戚もいない静かなところに一人で住みたいの」
やどかりは大人しくメモした。
「なるほどなるほど…他にご希望は?」
やどかりが希望を聞いてくれて嬉しかった。
今までだれも私に住まいの希望など訊ねてくれなかった。
「ええとね、本をたくさん置きたいの。図書室みたいな本の匂いのする静かな部屋が欲しいわ。狭くてもいいの。
あとは家の周りに木が少し生えてたら嬉しいわ。窓から緑が見えるのが憧れなの」
やどかりに話しながら、私は自分の説明した家を思い描いてうっとりした。
「お住まいの周辺へのご希望は?」
やどかりがさらにメモしながら問いかける。
「そうねぇ…おいしいパン屋さんか、珈琲屋さんがあれば嬉しいわ」
言いながら焼きたてパンとコーヒーの匂いを想像してみる。
パンは自分で焼いてもいいな、と考える。
ふいに、なぜ自分はやどかりなどと話しているのだろうと気がつく。
「ご希望に合う物件はありますが」
突然やどかりの口調が少し厳しく聞こえた。
「ダイエットが必要ですね」
「えっ!」
「あと少なくとも5㌔は減らさないと」
「えっ!」
「なにしろ『やどかり不動産』ですから。
やどかりの家は小さいし壊れやすいのですよ」
それはそうだ…と私はうなだれる。
「5㌔痩せたらこちらにご連絡を」
やどかりは小さな小さな小さな紙を置くと、砂の中に帰っていった。
砂はさらさらさらと瓶の中へ逆戻りしていった。
私は投げた布巾を拾いあげ、ヨーグルトの瓶を元通りに起こし、少し走ろうと運動靴を履いて家を出た。
小さな小さな小さな『やどかり不動産』の名刺は大切にしまってある。痩せたらすぐに連絡するために。
(了)