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母親でも妻でもなく王様

私は毎日、”お嫁さん”な暮らしをしている。
夫とお義母さんと働いている。子供はもう家を出ているが、今でもお客さんに”お嫁さん”と声を掛けられて暮らしている。
昨日もお客さんに言われた。素敵なご主人ね、大事にしなくちゃ。ずっと。なんでも夫が一番、私はそうしてやってきた、お風呂も一番ご飯をよそうのも一番、あなたもそうなさい、ずっと大切になさい、最後まで、と。優しい可愛らしい高齢まで仕事をがんばってきたお客さんだ。車にもう運転ができなくなったご主人を乗せている。夫はね、いてくれるだけでいいの、いなくなるとどんなに寂しいことか。みんなそういうわ。
私はわかりましたそうします、本当にそうですね、とだけいうべきだった。いつもみたいににこにこして、そうします、良い夫なんです、良いお義母さんなんです、ありがたいです、といって、お客さんも優しいご主人と長年一緒でお幸せですねっていって笑顔で見送れば良かったのだ。
でも昨日はそれができなくて、ほんとでしょうか、お義父さんが亡くなったあとお義母さんは伸び伸びしています、実家の父が亡くなって母は楽になりました、夫はおもしろい人だけどずっと一緒にいるのは大変です、もういろいろ嫌になってしまいました。と私はいった。そんなことをいうべきではなかったのだけれど。
お客さんはそんな私を説得しようとする。でも説得なんかされない。お義母さんは優しくて夫もだいたい優しいけれど、不自由な気持ちで心が詰まってしまったのを吐き出しているところなのだ。私はお客さんに向かって幾つかの小石を吐き出した。娘さんはいますか?私は姉妹しかいないけれどみんな苦労しています。娘はいないわ、とその人はいい、出来の良い息子たちの話をする。でも。私は姉妹ばかり、苦労している妹がいる…ついにはお客さんは困った顔をして、あなたにもきっと良いことがあるわ、がんばってね、と言って帰っていった。

そんなことがあった日の夜にアメリカに住む友達のブログを読んだ。
いつもとても興味深いアメリカの暮らしが楽しいタッチで勢いよく書かれている(みなさん是非読んでください!)
でも昨日はそのブログを読んでざわざわした気持ちが戻ってきた。

「私は母でもなく妻でもなく王様なのよ」と歌う人のことが書いてあった。母でもなく妻でもないといってアーティストとして戦う人。
表現者の苦しみについて書かれたブログだったけれど昼間のことを思い出し、妻で嫁な私は身につまされてしまう。私はずっとたぶんわりと模範的な長女で母で妻で長男の嫁だった。強制されたわけではなく自分で選んだことでしょうと、どこかから声がする。たぶん自分の中からだ。全部自分の責任。親でも義親でも夫でもましてやお客さんのせいでもない。全部自分がしてきたことだ。きっとそれは楽な生き方だったからでしょう何をいまさら文句をいうのと自分を責める声がずっと聞こえている。
でも今は少しずつ小さな自分の国を作っている。フランスの田舎で郵便夫のシュバルが小石を積み上げて理想宮を作ったように。そうすればきっとそこの王様になれる。だってこの前タロットカードをひいてみたら未来にKingが出たのだから。
そうだよね?とアメリカの友達に心の中で声を掛ける。きっと大きな声で勢いよく、そうだよそうだよと言ってくれるはずだ。


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