街クジラに願うこと【#シロクマ文芸部】
街クジラに会えたら願いを確実に叶えてもらえる。しかし、その願いを撤回することは出来ない、例え泣いて頼んでも。
そんな都市伝説を娘の夕夏が友達に話している。夕夏は笑いながら、バカにした様子で友達の真波にスマホ越しに話していた。
「そのクジラはね、ぎょろっとした目でその人をみると、考えておいた願い事が分かっちゃうんだって。口に出さなくてもね。それですぐ叶えてしまうから、例えば、あんなやつしんじゃえって思ってたら大変なことになるけど取り消したりできないの。隕石落ちてきちゃえ、とか、世界が終わっちゃえ、とか誰かが願っていたらどうしよう。巻き添え?」
あはは、と夕夏は笑った。笑い事だろうか、と横でなんとなく聞いていた私は思った。昔そんな漫画を読んだことがある。遠い昔。私がまだ小学生の女の子だった頃。世界消えちゃえ、と思ってしまって消してしまう女の子の話。とても怖かった。
笑いながら夕夏は続ける。「そうだね、何が良いかなあ。私なら将来声優になれますように、にする。マナちゃんは若いうちにFIREできますように、だね!」FIRE…私は胸の中でつぶやく。最近の女子中学生はそんな夢を。私が中学生の頃は童話作家になりたいと思っていた。なんだかなれるような気がしていた。何故なれると思っていたのだろう。
ふと気がつくと私は一人で夕暮れのダイニングテーブルに頬杖をついてぼんやりしていた。夕夏はもういなかった。どこへ行ったのだろう。ああ、せっかくの平日の休みがなんだか無駄に終わっていく。
せめてこの夕暮れの光の中で紅茶でも、丁寧に淹れた紅茶でも飲もう。私は立ちあがりながら、今の私は街クジラに出会ったとき何を願おうか、と考えてみる。家族の健康と幸せだろうか。自分の幸せ…夢…今はそのようなものを持っているだろうか。それどころか心の奥の隅の方で、こんな面倒な世の中消えてしまえなんて思っていないだろうか。自信がない。そうだ、こんな時はマインドフルネスでもしなくては。世の中を滅ぼしたりしてはいけない。私は母親なんだから。
熱い湯をポットに入れ、砂時計をひっくり返し、あたためたティーカップを前におき、私は大きな窓から空を見る。マンションの15階から見ると赤く染まりかけた空は少し近い。私は目を閉じて、すうっと息を吐き続ける。長く長く、吐きつくすまで。吐きつくしたら今度は吸う。何か音が聞こえるだろうか。聞こえる。低く響く不思議な音。クジラの声。水中を遠くまで伝わっていくクジラの声。
私はぱっと目を開いて空をみる。真っ赤なクジラが真っ赤な夕焼け空に浮かんでいる。ああ、何を願おうか。いえ、何を願っていると思われるだろうか。世界は滅びないでほしい。私はどうでもいい。ああ、どういう心でいれば良いのだろう。
空に浮かぶ赤いクジラ。目に焼き付けてまた瞼を閉じる。息を、吐いて、吸って、吐いて、吸って。
次に目を開くと夕焼け空の赤みはあっというまに消えていて、濃い紫と青に変わっていた。クジラは?どこにも見えない。行ってしまったのだ。夕焼けの向こうに。
私は出過ぎてしまった紅茶をカップに注ぐ。ごくり、と一口飲む。
紅茶は夕日のように赤かった。紅茶に揺れて見えるカップの底には小さなクジラの絵が見える。こんなカップだっただろうか。クジラ?私は急いで紅茶を飲み干す。飲み干してソーサーの上にことりとおいたカップのそこにはもうクジラはいなかった。
はあ。私はため息をついてもう群青色になった空をみる。
そう。私の願いはいつも、空がよく見える部屋で紅茶を飲むことだった。それだけでいい。なんて幸せなんだろう。
一番星が見える。なんてきれい。
(了)
小牧幸助さんの企画に参加しています。
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