【短編】庭のバケツの中のぼうふら
(注意:少し暗いです)
秋なのにものすごく暑かったので、ふと見た植木の近くのバケツにたまった水の中の”ぼうふら”がうらやましく思えた。
仕事も暮らしも何もかもがもう嫌。
「いいなあ、水の中のぼうふら」
つぶやいたら私はもうバケツの中のぼうふらで、バケツの中の水は少しも冷たくなくて、今までいた世界と同じ息苦しい暑さだった。
後悔しても手遅れだ。
後悔なんて人生で何の役にも立たない。
「あと少しのがまんだよ」
横でやさしい先輩ぼうふらがくねくねしながら、新入りの私に声をかけてくれる。
「蚊になれば、空中を飛べるんだ。ふわっとね」
それは冷たくない水に絶望した私の希望になった。そうだ、蚊になれば飛ぶことができるんだ!
私は小さな羽虫が好きだった。ふわっと舞い上がり、ふわっと着地する。
テーブルにそんなふうに着地した、とても小さな羽虫を見つめていたら、姑がいきなりその虫を叩き潰したことを思い出した。
そうだ、蚊になったら姑のいないところまで飛んで行こう。
そう思った瞬間、私たちの住まいであるバケツは姑によってひっくり返された。水は熱いアスファルトの駐車場の上に流れた。
やさしいぼうふらが小さな声で私に「さようなら」と言った。
そう、たぶんこれは暑すぎる秋の午後の幻だ。きっと…きっと…
(了)
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