【短編】珈琲と月
珈琲と満月は私の中で一つの結びつきを持っている。
私が毎晩一人で歩いている広い市民公園には、美しい満月の夜にコーヒースタンドが現れる。まぼろしとも噂される「珈琲・名月」だ。
江戸時代の二八蕎麦の屋台のような店が公園のかたすみにひっそりと開き、コーヒーを出す。きっと市の許可なんてとっていない。公園のどこに現れるかも分からない。決まっていないのだ。満月だから必ず現れるとも限らない。
それでも私は満月のきれいな夜には、夜の空気のどこかに珈琲の香りがしないかと静かに丁寧な呼吸をして歩くほどだった。
今夜は十三夜、つまりまだ満月まえの月だったが眩しい光を空いっぱいに放っていた。
ああ美しいなあと空を見上げながらうきうきと歩いていたらふいに「喫茶・名月」に出くわした。
探してもいないのに出会ったのは初めてだった。
それに満月の夜にしか店は出ないものと思っていたので驚いた。でも嬉しいことだ。私はすぐに他に客のいない屋台に近寄っていった。
「いらっしゃい」
愛想のない店主が一言つぶやくように言う。
「こんばんは」
私はそれに合わせるように、つぶやき程度の挨拶を返しながら、貼られたメニューらしい短冊に目をやる。
『後の月セット500円』
ああそれで。そうだ、今夜は「後の月」と言われる月の美しい夜だった。
「後の月セットひとつ」
私がそっというと店主は頷いた。
私はかたわらの丸い椅子に座る。
丁寧に湯を注ぎ、珈琲豆がふわっと膨らんでいる様子が見ていなくても香りで伝わってくる。きっと上手にハンバーグのようにふっくらとしているに違いない。
「どうぞ」
湯飲みに入った珈琲とちいさな菓子が木の盆で運ばれ、私の前に置かれた。白い丸い菓子の真ん中に黄色い栗が乗せてある。
ぱくり。
私はつい珈琲の前にそのお菓子を口に放り込んでしまった。
餅の中に白あん。栗が甘くほろっと混ざる。おいしい。
珈琲に、熱さに気をつけながら口をつける。ああ良い香り。熱さもちょうどいい。
こんな夜はこんな時間に珈琲を飲んで眠れなくなったってかまわない。どうせこんなに月が煌々としていたら眠れっこないのだから。
珈琲に月が浮かぶ。ちぎれてゆらゆらしている。
私は月の入った珈琲を飲み終えるとまた月を見上げながら家に帰った。
月はいつまでも私を見ている。部屋の中も覗き込んでいる。
さっき飲み干した月も私のお腹の中で珈琲に浮かんでいる。
おやすみなさい。
眠れないと思ったのに私はゆらゆらと眠りについた。
「 珈琲に浮かべ飲み干す後の月 ミモザ 」
(了)
*10月の十三夜は「後の月」と言われます(2024年は10月15日でした)
「栗名月」「豆名月」「名残の月」などとも言われます。
*小牧幸助さんの企画に参加しています。