”あたまを撫でられ喜んだ、いい子になんてならないで”by髭男
Official髭男dism「異端なスター」の歌詞が
頭の中でリフレインする
”非難の声恐れて無難な生き方貫いて いつしか自分らしさにさえ無関心になって 平等だって嘘ついた 頭を撫でられ喜んだ いい子になんてならないで!調子に乗って 出しゃ張った火を付け周る異端なスター そんな汚名着せられてもいいから どうか叫んで歌って いつからか失敗ばっか重なって 自信を無くして落ち込んで 目立つことが怖くなって 尖ってるやつをバカにして だけどどこかうらやましくて” 「異端なスター」より。
今年度上半期の会社からの評価をふと開いて見ていた。
エリアでは最高の成績。
素晴らしいと褒められ
評価をプリントアウトしたものを持ち帰って
読んで満足してそっと折って引き出しに入れたとき
「頭を撫でられ喜んだ」という歌詞が浮かんで。。。
今期、下期はどうしても人が足りなくて
新人がいる分、
予算を達成するために今までのようにシャカリキにやるのは無理。
いい時、落ちる時はあるから、
ずっと右肩上がりに業績を上げ続けるのは無理があると
口では言いながら
私はこの「通信簿」の「高評価」を
手放したくないと思っていることに気づいた。
かなり強く思っている。
半年後、目標達成できなかったのは
状況がそろっていないから自分の頑張りとは関係ないのに
「私はできなかった。。。」とがっかりするのは目に見えているんだ。
状況がどうであれ
私は自分を高く評価したいし認められたいし、
そのためには「頑張りたい」のだな。それも必死で。
そして、「その状況の中でこれだけよくやった」という
また更なる誉め言葉と評価を求めているんだと
頭の中を言語化できた。
そこから自由になりたいと思うのに
この執着というか信念は相当な粘着力で
私の魂にこびりついてしまっている。
思い返せば
小学校の低学年の頃から
「自分の評価表」を作ってつけていたのを覚えている。
・言われなくてもお手伝いができた
・妹弟に優しくできた、、、云々。
そして自分への評価はあくまで辛口。
反省点を書く欄があって(よくできた点を書く欄は作っていない(笑))
”今日も、お母さんに言われてからしかできなかった。”
”今日は、妹とけんかしてしまった”
”エレクトーンの練習をさぼった”
子どもやったら、当たり前やん?ってことを反省していた。
そして、どこにいても頑張るので
そこそこやれて、褒められる自分に慣れて
「すごいね」という周りの誉め言葉が大好物で
「できる私」をやり続けてきた。
これって、本当に虚無感を生むんだなって今更ながら。。。
本当の私はほっとくと「できない」から
「できる私」を演じるために必死なんだ。
で、結果がついてくれば有頂天。
結果が出ないで、隣の人の方が優れた成績だと
めちゃくちゃ虚無感。
「こんなに頑張ったのにだめだったから
私はダメなんだ」
自己否定。
褒められる⇒うれしい⇒もっと褒められたい⇒頑張る
⇒うまくいく⇒もっと頑張る⇒うまくいかない⇒落ち込む
⇒自分に厳しくなる⇒それでもうまくいかない⇒自己否定
⇒返り咲きたい⇒また頑張る⇒疲弊⇒精神的にやられる
⇒体もやられる⇒老ける!!
という、なんですか、それ?っていう循環。
で、今度は「私は私でいい」
「本来の私に戻ろう」と極端に180度向きを変えたりして
ステージを降りたような、またしても虚無感。
重症患者です。
大丈夫だよ、あなたはよくやっているから
たまには息抜いて、っていう
自分への優しい言葉もおいしいスイーツも
すべてその場しのぎの”お見舞い”程度にしかならない。
魂に響いていない。はいはいって。ありがとって。
さ、ここからどうしましょうかね。
父や母や上司や同僚や会社なんて
私をどう評価しようと関係ない。
私の人生になんの影響も与えられない。
それぞれの立場でああだこうだ言ってるだけ。
私自身の本当の望みがわかって
本当の意味で自分を喜ばせることができるのは
私だけ。
なのに、周りの声に従ってる今の自分は
ずっとずっと「本来の自分を殺してきた」んだよね。
もう、解放してあげようよ。
でないと、本気で老けるよ。
一番私が痛い言葉をオットはあえて使ったのだろうな。
そうでないと止まらないから。。。ありがとね。
それにしても
うちの子供たちは
「ほめられたい」っていう動機では
絶対に動いてくれないぞ。
だからイライラしていたのはいつも私(笑)
それは親として救われることだけど。
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