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不倫する気持ちに共感した朝の話

 朝早くから遊ぼう、と連絡が来た。枕元で鳴る携帯電話に手を伸ばして、伝わっているかも分からない起き抜けの声で応答する。こんな連絡にも慣れてしまっていつものように十時に店で、と電話を切った。
 連絡してきた相手は、大学で同期のイツキだ。大学の入学式で初めて見たイツキは目を引く容姿だった。顔がほどほどに整っていて身長が高く身体の線が細い、身なりにも気を遣っている。でも私を含む大勢を魅了した要因は、それではない。
 オリエンテーションを終え選択科目を決め平凡で平坦な学生生活に順応するのと同じ要領で、いつも男女問わず人に囲まれていて誰に対しても親しみ深い態度をとるイツキを、〈そういう者〉だと思うようになった。面と向かって話す機会は何となく避けていたようにも思う。〈そういう者〉と定義付けても得体の知れない奇妙さと私の常識の型にはまることのない存在であり対峙すれば固定観念を崩されないための防衛本能が自然と前に出てしまいそうだったからだ。
 ある時からイツキからよく構われるようになった。お互いが一人でいるタイミングで脈絡のない話をされることが多くなった。そのうちに今朝みたいに急に呼び出されるようにもなった。そんな間柄になってもイツキと話す時には、身構えて心の中でファイティングポーズを取ることを止められない。

 お待たせと席についたイツキを見て面食らった。先週までの黒髪が生え際から毛先まで見事に金髪に染まっていたからだ。と同時に期待したように緩んだ顔が目に入ったので日焼けしたら似合わなそうだな、と目を細めて片方の口角を上げて見せた。
 「私ついに不倫しちゃった」
受け取ったコーヒーを一口飲んだイツキがそう言った。
 「おう」
つられて私もカップに口を付けて咽ないように丁寧に飲み込んだ。
 「初めて会った時同い年だと思って、でもすぐに年下だと知って恋愛対象から外れてしまったんだけど、それが夫の弟でさ、夫の実家で再会したんだよ。年下って分かってるから何とも思わないのだけど、弟の方は好意を持っていてくれてさ、夫や他の家族にばれないように手を繋ごうとしてくるんだよね。それで、そういう熱?が近くにあると不思議な気持ちになったんだよね。」
 色々と、それは本当に色々と、たくさんと、つっこみどころがありすぎて一瞬この場では一番低俗な言葉が口をついて出そうになっていたが、返ってくる言葉に致命傷を負いかねないとこらえて「不思議な気持ちねぇ」と呟いた。
 「ばれてはいけない、こんなことするべきじゃないって分かっているのに、だんだんと私も弟のことが好きだと思い始めていて、抗うのが理性なら求めてしまうのは本能でしょ。この、隣で私を求めているこの人もこの人と私の関係も、私の魂が尊いと言っているんだと、スピリチュアル的な思考になったわけ」
 運ばれてきたパンケーキを嚙みながら半ば呆れながら聞いていた。この話の終着点を予想するのも馬鹿馬鹿しいと思いながら咀嚼し飲み込んでパンケーキを見ていた視線をイツキに戻した。
 「でもどうにもならなかった。それでというかそこで夢からさめてしまったんだよね」と、溜息交じりに肩を落としコーヒーを飲み干した。
 「その夢は寝て見る方の夢で良いんだよね」と私は言った。
伴侶もいない、婚約者もいない、そもそも恋愛対象に年齢は気にしない、私の知る限り今のイツキには恋人もいない、だってこの喫茶店の店員に夢中だから、大方これは夢の話で間違いないのだが、がっかりした様子を見るに、恋心が冷めた女の子のような桃源郷から戻って玉手箱を開けた浦島太郎のような、思い描いた理想が破られた人間にも見えた。イツキは私の返事に答えることなくまだ肩を落としてパンケーキを切っている。切り終わってフォークを刺して、私に目線が戻ってくる前に私の口が勝手に開いた。
 「少女漫画畑で生きているんだな。」
私の言葉にイツキの眼光が鋭くなったことを確認して続けた。
「私が弟なら純愛を突き通すよ。好きな相手には幸せでいてほしい、そこで口でも手でも出したものならそれは性欲で、恋とか愛じゃなくなる」
 「君はいつでも偏愛至上だね」
パンケーキを口の中でもごもごさせながら言う姿は女っぽく見える。
 「自意識が高くて自分に過小評価をつけたがる」
染めたばかりであろう髪を手ですいて額が見える。眼光の鋭さは何度対峙しても競争心を煽られる。その目がすうっと店の奥に視線を移して戻ってくると淡く柔らかな目をしていた。
 「あの弟には私と弟自身が背負うべき代償と二人だけで生きていく希望が見えていたんだろうか。」
 「あの熱に浮ききれない私は少し不幸に思えたよ」
そう言って伝票を持ち、また連絡する、と去って行った

「不倫なんかしない方がいいに決まっている。」と呟くと、イツキが出ていった店の扉がカランコロンと鳴った。

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