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マーガレット・アトウッド『またの名をグレイス』佐藤アヤ子訳、岩波書店

貧しいアイルランド移民の娘が下働きしていた屋敷の主人とその愛人を、ともに屋敷で働いていた男と共謀して殺した、という実話がきっかけになって生まれた小説。男は絞首刑になるが、娘グレイスは終身刑。アトウッド自身が事件をかなり調べたようだが、だからといってドキュメンタリー風にはなっていない。当時大きな話題となった事件がフィクションとして再生している。

人は、自分が知っている人間についてはもちろんだが、面識もない人間について間接的な情報だけで判断してしまうものだ。グレイスがどういう人間だったかもよくわかっていない。果たして言われているように精神異常だったのか、偽っているだけなのかを調べるために、事件後しばらくたって若い医者が彼女を訪ね、毎日会話をするようになる。彼に向ってグレイスは語り始めるのだが、彼女は医者が何を欲しているのか察して、興味がありそうな話をしようとするし、語った話がどこまで事実なのかはわからない。医者の方も、地下室の話を聞きだそうとして根菜を目の前に持ってくるなど、あまり頼りにならなそうで、実際しばらくすると彼は下宿先の人妻と泥沼の関係に入ってしまう。

グレイスの友だち、同じ下働きだったメアリ・ホイットニーの話は痛々しくて、グレイスが死んだメアリをどんなに好きだったかは伝わってくる。グレイスの真実を探ろうと、当時大流行だった心霊実験までも登場し、その結果グレイスが「二重意識」と呼ばれる人格分裂を起こしていたという疑念も生まれるのだが、けっきょくは確認されないままだ。物語の最後はこれまでのような登場人物による語りではなく、関係者たちの手紙でその後の展開がわかるようになっている。

当時の下働きの女性たちの暮らしが丁寧に描かれる。アイルランドからの辛い航海、屋敷の同僚との軋轢、洗濯のコツ、夏の台所と冬の台所、おまるの始末、無遠慮にまとわりつく男たち、生活のたいへんさを知らない上流の女たち。娘たちが結婚を夢見て作るキルトに決まった模様があるという話がところどころに出てきて、彼女たちのささやかな人生を象徴するシンボルになっている。グレイスの事件の真相よりも、今では忘れられたこれらの女たちの人生を描くことがひょっとしたらアトウッドの目的だったのかもしれないと思えるほど。


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