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「外人」という呼称| 言葉の本質を考える

こんにちは、みもざです。

今回は、私が以前からずっとモヤモヤしていたことについて書きます。
「外人」という呼称についてです。

「外人」という呼称が差別用語だとして排除されつつある昨今。
いち大学生が、周囲との会話を通して考えたことを綴ります。

4,000字を超える長文になってしまいましたが、
どうかお付き合いいただけますと幸いです。





まずは、この記事を書こうと思うきっかけとなるエピソードを。

1. episode「うお、外人やん!」


先日、お腹を空かせて大学から帰宅した私は
テレビの情報番組を見ながら父と夕食を食べていました。

テレビの内容はおそらく
「11月になっても暑いですね~」みたいな趣旨で、
街の人にインタビューをして回っているところでした。

インタビュアーが、河原で半袖でヨガをしている人に近づき、
顔がアップになったとき。


「うお、外人やん!」と、父。

このときの私の心のうちはこうです。

  うわ、また出た「外人」呼び。
  外国の人が河原でヨガしてたらおかしい?
  日本人なら何も言わないだろうに。


  てか「外人」とは限らないでしょ。
  確かにいわゆる「日本人らしい」顔ではないかもしれないけど、
  顔だけで日本人じゃないと判断してしまうなんて、ナンセンス。


父の一言で、こういう風にモヤっとすることが定期的にあるのです。


2. 「外人」と呼ばれること


私は大学で国際系の学部に所属していることもあって、
人権とか差別とか、社会のあれこれについてアンテナを張っている方です。

「外人」という呼称については、
以下のような記事を読んだことがありました。


これらの記事の論旨を強いてまとめるならば、

  「外人」=差別用語、とまでは言えないけれど、
  とにかく目の前にいる相手に想像を巡らせる努力をしようよ。
  
そうすれば自然と「外人」という呼称ではなくなるはず。

ということではないでしょうか。


これが凝縮されているのが、
ロシアと日本にルーツがある小原ブラスさんのこの投稿です。

外国人のことを「外人」と呼ぶのは差別的だからやめましょうってよく聞くけど、当事者としては「外国人」を略した言い方であって差別的だとは思わない。

ただ、今まで生きてきて「外人」って言う人はほぼ例外なく下品な人が多かったから自分は言わないようにしてるし、苦手ではある。

例えば、お金のことを「カネ」って言ったり、女性のことを「オンナ」って言う人と同じ。差別じゃないけど、敬意がない。自分のことならまだしも、自分と違う属性の人のことを略した呼び方するのはただの“下品”よ。

※ちなみに関西のおばちゃんはよく「外人さん」って言うけど、それは逆に親近感湧いてなぜか好き。

小原ブラスさん Threadsより

論ずるべきは、「外人」という呼称がいいか悪いかではなく、
そこに相手を思う気持ちがあるか否か
、ということ。


学部柄、友人とそういう会話をすることも多いです。

実際、ある留学生の友人は、
「外国人」とか「外人」と呼称されること自体が
本っっっっっ当に嫌だ!!!と常々言っています。

「日本語上手いですね」もそう。

「悪気が無いのであろうことは分かるけど、
もう何年も日本に暮らしているのに
ずっと物珍しい目で見られ続けるのがしんどい」とのこと。

確かに、相手に思いを巡らせれば、
「外国人」ではないかもしれないな
日本にアイデンティティがあるのかもしれないな、と考えて
不用意な発言はしなくなるように思います。



3. 言いたいけど、言えない


このような背景から、
私は日頃むやみやたらと「外人」と呼称する父に
一言申したくなったのです。


記事の中にあったこと、私の友人の生の声。
その一部だけでも伝えたい。

心の中でグチグチ思っていても仕方ない。
父だって、今まで考える機会が無かっただけのはず。
理解への第一歩は対話からだ。


でも、なかなか言い出せませんでした。
夕食の空気が悪くなるのが怖かったから。


実は前に一度、言ってみたことがあったんです。
「外人っていう呼び方、あんまりよくないと思うよ。
実際嫌だって感じる人もいるみたいだよ」

のような感じで。


そしたら、テンプレートのような反論が返ってきました。
「細かいなぁ。外国人を省略してるだけで一緒やん。
別に差別とかじゃないよ」


分かっています。父親に明確な差別意識があるわけではないことは。
でも、論点はそこではありません。

父は、「外人」という呼称が避けられつつあることを知っていて、
敢えて「それの何が悪いの?」というスタンスを取っています。

私が「実際嫌だって感じる人もいるみたいだよ」と言ったことについて、
「どういうこと?」
と聞きもしない。

なぜ社会的に言葉の排除が進んでいるのか、
その本質的な理由を知って自分を顧みようとは決してしないのです。


この例だけではなく、
父がこの態度を崩さないことを身をもって知っていたので、
私はついに言い出すことができませんでした。

(父の発言に納得がいかないとき、
私はいつも決まって生返事になってしまうのですが、
父に気付く素振りは全くありません。
私の態度の変化から何か感じ取れないものでしょうかねぇ?)



4. ステレオタイプのコミュニティギャップ


この「うわ、外人やん!」事件の日の朝のこと。
実は大学でステレオタイプについて議論する機会があり、
私はちょうどこの「外人」という呼称について、話題に出していました。

すると、友人も似たような経験を話してくれました。
母親の差別的とも取れる発言に指摘したところ、
「あんた、生きづらそうやねぇ」と言われたとのこと。

ジェネレーションギャップという言葉で括ってしまえば
これもまたステレオタイプになってしまうでしょうから、
コミュニティギャップとでも言った方がよいでしょうか。

親世代だけでなく、異なる学部の人と話していると、
「意識高いね」「考えたこともなかった」と言われることがあります。

日々アンテナを張っていたり、当事者の友人がいたりしない限り、
つまり、習慣的に人権や差別について考えるコミュニティにいない限り、
なかなか問題の本質に目を向け難くなってしまうのですね。


大学でちょうどこのような会話をした後だったので、
帰宅後まさにその場面に遭遇して、余計に悶々と考えてしまいました。

私や大学の友人にすれば、
「あんたみたいな人がいるから生きづらい人がいるんだよ!」
とでも言いたいのですが、親に言い返すのは難しいものです。



5. episode「なんや、日本人かい!」


「うわ、外人やん!」事件
には続きがあります。
名付けて「なんや、日本人かい!」事件です。

冒頭でお話しした、情報番組のインタビュー。
インタビュアーが、河原でヨガをしている外国人らしき人に話しかけると、
その方は流暢な日本語で答え始めました。

すると今度は、「なんや、日本人かい!」と父。


これを聞いていよいよ私は失望を加速させた訳ですが、
これは同時に、私がこの記事を書こうと決意する一言でもありました。

「うわ、外人やん!」「なんや、日本人かい!」
この2つの発言が示すのは、ステレオタイプによる決めつけです。

父は日本人らしくない顔=「外人」というステレオタイプで
「外人」と決めつけたにも関わらず、
次は日本語を話す=「日本人」というステレオタイプで
「日本人」と規定し直したのです。


父は「外人」という呼称以外にも、
「日本語上手いなぁ」と言っているのを頻繁に聞きます。

私はこれにもモヤモヤしていたのですが、
日本語を話す=「日本人」というステレオタイプから、
外国人(日本人らしくない人)=日本語が話せない
という論理を導き出しているのだなぁと納得がいきました。

これらについて父に直接指摘することはできなかったけれど、
記事を書くことでこのモヤモヤを昇華させたい。
そしてそれがついでに、誰かの気付きになれば一石二鳥。

そう思って、私は今この記事を書いています。



6. 「○○人」という規定は必要か?


いわゆる「日本人らしい」顔でなくても、
日本にアイデンティティを感じている人はいます。
また、どれだけ流暢な日本語を話していても、
海外にルーツがある人だっています。

父は、そういう人たちのことを知らないから、
例のような発言をするのだと思います。

いや、本当に全く知らないわけではないはずです。
父はニュースをよく見る方ですから、認識しているはずです。
そのうえで、厄介な問題に蓋をしょうとしているだけに見えます。

そもそも、河原でヨガをしている人が何人かなんて、
どうしていちいち気になるんでしょうか。

本当に気になるならいろんな可能性を想像して、
「結局いろんなバックグラウンドがあるのだから、
人種を規定しても仕方ないよな」

という思考に落ち着くと思うのですが。どうなんでしょう。



7. まとめ


ここまでつらつらと書き連ねてしまったので、言いたいことをまとめます。

 1.  「○○だから○○人」という言説はステレオタイプに基づく言説
  当たり前のことですが、無意識のその発言で、
  大なり小なり誰かを傷つけているかもしれないということを
  意識してみてほしいです。(父さん、私は傷ついてるぞ!)

 2. 自分を顧みる姿勢が大事
  
ステレオタイプは誰もが持っているものなので、
  完全に無くすのは難しいことです。でも、無くす努力はできます。
  少なくとも友人や家族に指摘されたときは、
  はねのけず、真摯に耳を傾けてみてほしいです。
  (父さん、聞いてくれ!)

 3. 相手のことを想像しよう!
  
「外人」が差別用語かどうかは論点ではありません。
  
ただ、よく議論に挙がる「外人」も「日本語上手ですね」も、
  ステレオタイプからくる言葉です。
  だからこそ、相手のバックグラウンドを決めつけず、
  多様性があることを意識するだけで、
  決めつけたような発言は減らせるはずです。



8. 最後に、お願い


前項では、説教臭いことを述べてしまいました。
父に言いたいことをここに書いたという体なのでお許しを。

ですが、これは私が自分自身の心に刻みたいことでもあります。

偉そうなことを書いてきましたが、私もこの記事を推敲する前、
河原でヨガをしている「男性」と、決めつけた表記をしていました。

私自身も自分を顧みて、
ステレオタイプを減らす努力をしたいと思っています。

なので、この記事に関して、
忌憚のないご指摘やご意見を頂けると大変ありがたく存じます。

そして、父さん。
もしもいつかこの記事を見つけて読んだら、
きっと「これ、うちの娘では?」と思うはずです。
その時は、是非話しましょう。待っています。

それでは、ここまでお付き合いくださり誠にありがとうございました。


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