違和感
この記事は人生において責任感のないイキってる21歳の戯言だと思って聞き流して欲しい。
先日、自動車の仮契約をするために地元に帰った。一緒によく釣りに行く後輩にすっかり影響されてしまって私はジムニーが欲しいと思ってた。値段は252万。社会での経験が乏しい私にとってこれが高いのか安いのか正直分からないと言ったところだ。しかし、なんとしてでも欲しい。天井とかに竿ホルダーをつけてこれからは快適な釣りライフが遅れる、、、!そう思っていたら母が、「あんたこんな金額払えるの!?将来辛くなっても知らないよ!?」と言ってかなりヒステリックにキレてきた。
ここで疑問に思ったのが、なぜヒステリックに、しかも年齢で言えばもう社会に出ていける歳の人間に対して、怒る必要があるのかという点である。
子供が成人したらその子供がどう生きようが、あるいはどんな選択を取ろうが、その子に任せると言った態度を取るのが正解なのではないか。私だったらそうする。お前まだ社会に出てないくせに、何を偉そうに、、、などの反論の声が聞こえてきそうだがちょっと待って欲しい。普通子供が成人したら、その子供がどんな人生を歩もうと関係ない、そういったふうに子供を「個」としてみるもんじゃないのか??なのに何故母は他人(子供)のお金の心配をするのだろうか。
ふと、アドラーの言葉を思い出した。
他者は「敵」であって、自分は「敵国の中に住んでいて、いつも危険にさらされている」と感じている子どもがいる。(アルフレッド・アドラー、『個人心理学講義』、p63)。
アドラーは、個人は外的な影響を受ける存在ではないとしているが、できるだけ親が子供にこの世界に対して正しい見方を示してあげたい、子供が「他者を敵だと思う」といった謝った見方をすれば、「この世界には敵が溢れている危険な場所だ」と認識し、部屋から出てこないなどの問題が発生する。
私の親の件はまさにそれで、「こんな金額払えるの!?」と過剰に人の不安を煽ることでこの社会が辛いところであり、辛い思いをするくらいなら社会に出ない方がいいと子供に誤認させる行為なのでは無いだろうか。もっと言うと子供を社会に出てお金を稼ぐ能力のある1人の人間として認めない行為だと考えられる。そもそも、ここで私が「やっぱジムニーは高いから安い車にしようかな」と言ったらそれはそれで自分の意思がない人間になるのではないか。
それでも、心配はしてくれているので、別に子供にとって悪いことじゃない。だけど社会に出ていない子供に謝った認識を植え付ける行為は間違っている。親が子に対して行うこの行為を「優しい毒」とでも形容しよう。