day.2.5|だからこそ、世界はときどき美しい
”人というのは一体何て複雑で奇妙でオリジナルで孤独なものだろう、と思う。ここまでオリジナルでなければ、これほど孤独にならずに済むのに、と思い、でもだからこそ「世界はときどき美しい」のだし、世界がときどき美しいからこそ、人は孤独でも生きていかれるのだ、と思う”(____江國香織『泣かない子供』)
土曜日の9:25。
お花屋さんお手伝い2,3回目のこと。
お世話になってるお花屋さんに行って、一通りお仕事をしたあと、小さな花束をつくらせてもらった。「今日は、同じ種類の花でも一個一個違うことを体験してくれたらいいから」ということで、小さな花束をいくつも束ねた。セダムとカラーとガーベラ。簡単なようで、手に取ってみると、一個一個違う。たった3輪だけど、くせがあって思ったように束ねるのが意外と難しい。
当たり前のことだけれど、生のお花はひとつひとつかたちが違う。
たとえ同じ種類のものでも、首の曲がり具合や色や咲きかたなど、みんなちがう。
人間と一緒でお花もみんな違ってみんないいだよね、なんて呑気なことを考えてたら束ね終わった。
家に帰って、江國香織さんの若い頃のエッセイ、『泣かない子供』の一節を思い出した。
技術力が上がって、本物と変わらないほど精巧なものが作られるようになったいま、「本物」であることや「生きていること」にどんな意味があるのだろうとふと考える時がある。そんな時に、心を打たれた言葉だった。
オリジナルで孤独だから、世界はときどき美しい。
そうか、オリジナルって孤独なことなのか、と思ったし、でも、だからこそ世界は美しいのか、と妙に納得した。
上手く言えないけど、コンピュータに比べたら、人間ってとっても不完全で、非合理的で、効率が悪いと思う。いまの世界は、均等でシンプルでホワイトで、効率化の方向へぐんぐん進んでいて、その効率化の波のなかで、とっても効率が悪い私はよく打ちのめされそうになる。
でも、、と負け惜しみのように、考える。私は非効率なものが好きだ。そこに人間らしさがあると思うから。人間も花も動物も、不完全で自然なものが好きだ。
江國さんの言葉に、そんな私のぽやぽやした考えが肯定されたような気持ちになった。
もうひとつ、フローリストの中三川聖次さんがあるインスタライブのなかで、造花ってどう思いますか?と言う質問に対して答えた言葉が印象に残っている。造花が悪いとかどうかは思わない、自分は使わないだけ、と前置きしたあとにこう言っていた。
花に長年かかわってきたスペシャリストが、一度真剣に造花でも同じじゃないか?と考た時期があり、それでも生花と造花は違った、という言葉に、胸の奥がジンとした。
造花が悪いとかじゃなくて、と言う言葉に優しさも感じた。
どこまで世界が進んでも、私たちは生身の人間だもんな、とか小難しいことを考えたあとに、いや、太陽の光を浴びて、お水を吸って育ったお花の輝きが、ただただ好きなんだな!と思い直す。
明日のお花屋さんも楽しみだな🪻