『お雑煮』1月上旬頃に考えたこと
食は個人的な体験だから、美食を語る人は他人の個人的体験に踏み込んでいるわけで、嫌われがちになるのは当然ではある。
インド北東部の7州「セブンシスターズ」について調べてみよう。
仏陀は肉を食べていたかもしれないということについて。
僧の女犯について。異性との性交は禁じられていた一方で稚児とかを寺においていたということは、異性が問題であって快楽は問題ではない?直感に反するな。
不淫戒は世界の宗教では一般的でないということについて。
今は不淫戒は不邪淫戒として、邪な交わりでなければ性交していい、というある種の甘えにして折り合いをつけているようだが、本来的にはどうだったのか。
生活の様々なことに意義を見出すために、自分の価値観や受け止め方を変えるという考え方に触れた。確かになと思う。
何が本能的生物である人間(自分)を社会的秩序的生物としているのか。その要因は外部要因(社会の暴力装置としての警察、法律など)か。内部要因(モラル、正義感、価値観)か。
人間は自分が所属するコミュニティ外の人間を蔑む(差をつけたがる)本質があるのではないか。日本人が発展途上国の人間を蔑むのも発展レベルの話ではなく、コミュニティ差の問題なのでは。
陰謀論的に自国に危機が必要以上に迫っていると感じる無能さと邪悪さに加え、その危機を解決するためならば他国を侵略してもいいという邪悪さの無能と邪悪のダブルトッピング。
無農薬で農業をすることは、以下の条件を満たさないと成立しないと思う。①無農薬により収量が増え、それが収入に反映されること。②無農薬により、味が良くなり、それが価格差に反映されること。③無農薬であること自体の価値が価格差に反映されること。
現状は③はものによって一部成立していて、①と②は成立しない。おそらく①と②は逆にマイナスの効果を生んでいる。
年明けの本格的な仕事始動を前にかなり嫌な気分になっている。はっと思ったのが、もしかして自分は仕事に伴う嫌な体験を不快に感じているのではなくて、もう仕事をすることそれ自体を不快に感じてしまっているのではないかということ。もしそうならうまく改善か回避かしないと、仕事を続けることが困難になってしまう。
もちろん目的は仕事をすることではなくて収入を得ることなので仕事でなくてもいいのだが、仕事は収入を得る手段としてはかなり割がいいと思っているので、なんとかうまく続けていきたい。
このnoteに書いている内容だが、実質的には人に見られてもいい自分とのチャット及び考えのダンプになっているので、サービスとしてはDiscordとかの方が合っているのかもしれない。
サステイナビリティの観点からの、エントロピー増大問題への対応策。人類の生存圏外にエントロピーをくみ出して捨てていく。
究極的には他の宇宙とのエントロピー投げつけ合い戦争が始まる話になる。
これは個人的感覚だが、リモートワークが普及した結果、仕事と家庭の垣根が低くなった気がする。昔はもっと分離されていて、どちらかというと家庭の事情は仕事には持ち込まない、感覚があったが、今は家庭の事情を勘案してくれ的な感覚が普通になっている。
良し悪しは不明。
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